九州王朝(倭国)一覧

第3082話 2023/07/28

王朝交代の痕跡《木簡編》(1)

 ―「評」木簡から「郡」木簡へ―

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』27集の特集テーマが「王朝交代」であることから、701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡を、エビデンスベースで捉え直す作業に取り組んでいます。その最初の仕事として、木簡に見える王朝交代の痕跡について改めて検討しました。

 出土木簡が決め手となり、一応の〝決着〟がついた古代史研究で著名な郡評論争ですが、一元史観の通説では、単なる行政単位の名称変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)が701年を境に大和朝廷によりなされたと説明しますが、古田先生は九州王朝から大和朝廷への王朝交代による行政単位の一斉変更としました。

 金石文や木簡などに記された行政単位の評が、701年(大宝元年)からは郡に変更されていること自体は出土木簡により実証的に証明されたものの、通説ではその理由の説明ができませんでした。ところが、古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説による王朝交代という概念の導入によって、行政単位変更の理由が説明可能となったわけです。この木簡に遺された行政単位の全国一斉変更こそ、王朝交代の代表的なエビデンスということができます。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれだけではありません。(つづく)


第3070話 2023/07/16

『九州倭国通信』No.211の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.211が届きました。同号には拙稿「古代寺院、『九州の空白』」を掲載していただきました。
拙稿は、七世紀初頭の阿毎多利思北孤の時代、九州王朝は仏教を崇敬する国家であったにもかかわらず、肝心の北部九州から当時の仏教寺院の出土が不明瞭で、七世紀後半の白鳳時代に至って観世音寺などの寺院建立が見られるという、九州王朝説にとっては何とも説明し難い考古学的状況であることを指摘し、他方、現地伝承などを記した後代史料(『肥後国誌』『肥前叢書』『豊後国誌』『臼杵小鑑拾遺』)には、聖徳太子や日羅による創建伝承を持つ六世紀から七世紀前半創建の寺院が多数記されていることを紹介したものです。
また、同号に掲載された沖村由香さんの「線刻壁画の植物と『隋書』の檞」は興味深く拝読しました。国内各地の古墳の壁に線刻で描かれた植物について論究されたものです。その研究方法は手堅く、導き出された結論も慎重な筆致の好論でした。各地の古墳に描かれた同じような葉について追究された結果、それは『隋書』俀国伝に記された倭人の風習として、食器の代わりに使用する「檞」に着目され(注)、それはアカガシであるとされました。なかなか優れた着眼点ではないでしょうか。

(注)『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
「俗、盤俎(ばんそ)無く、藉(し)くに檞(かし)の葉を以てし、食するに手を用(も)ってこれを餔(くら)う。」


第3069話 2023/07/15

賛成するにはちょっと怖い仮説

 本日、東淀川区民会館で「古田史学の会」関西例会が開催されました。わたしは久留米大学で追加発表した「吉野ヶ里出土石棺 被葬者の行方」を報告しました。今回の例会では、とても興味深く重要な研究が発表されました。
その一つが上田さんによる河内国分寺研究でした。柏原市にある河内国分寺周辺からは七世紀創建の多くの寺院が出土しており、当地は言わば九州王朝時代における仏教先進地と指摘されたことです。この地域について、わたしは不勉強でしたので驚くことばかりでした。九州王朝と大和朝廷による多元的国分寺という視点での更なる解明が期待されました。

 もう一つ、九州王朝王家の姓の変遷(倭姓→阿毎姓)を歴代中国史書から導き出し、九州王朝内で〝王統〟の変化があったとする日野さんの研究も注目されました。『宋書』に見える倭の五王は「倭」姓の氏族(物部氏とするのが有力)であり、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」姓の王家とは異なる氏族とする仮説です。従来の古田説にはなかったテーマであり、賛成するにはちょっと怖い仮説ですが、検討すべき視点と思われました。

 7月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔7月度関西例会の内容〕
①河内国分寺について (八尾市・上田 武)
②宣化の詔について (茨木市・満田正賢)
③二つの大国主神譜 (大阪市・西井健一郎)
④吉野ヶ里出土石棺 被葬者の行方 (京都市・古賀達也)
⑤荷札木簡の干支表示と貢進國分布 (京都市・岡下英男)
⑥俀国伝と阿蘇山(姫路市・野田利郎)
⑦倭国の君主の姓について (たつの市・日野智貴)
⑧「神武」即位年と「皇暦・二倍年暦」 (川西市・正木 裕)

○関西例会・遺跡めぐり運営の提案(正木事務局長)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
8/19(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分。


第3067話 2023/07/13

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (7)

 『隋書』俀国伝冒頭では、俀国の位置を百済・新羅の東南と記しているにもかかわらず、大業四年(608年)の隋使の行程記事には、「東」へ至るという方角記事はあっても、「南」に至るという記事がありません。これでは「東南」方向には行けませんので、方角が記されていない竹斯国や十餘国は「南」方向とするのが妥当な読解と考えました。その理解を後押しするのが、俀国の都「邪靡堆」のことを説明した次の記事です。

 「都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。」

 俀国の都とされた「邪靡堆」とは、『三国志』魏志倭人伝にある「邪馬臺」のことであるとの説明文です。実際には「邪馬壹国」と倭人伝にはあるのですが、ここでは『後漢書』の「邪馬臺国」表記(注①)が採用されています。倭人伝に記された女王卑弥呼が都した邪馬壹国の位置情報は次のように記されています。

 「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。」

 古田説(注②)によれば、博多湾岸にあった不彌国の南に女王の都、邪馬壹国があるとする記事です。不彌国は邪馬壹国の〝玄関〟に相当し、その南に七万餘戸の大国「邪馬壹国」が隣接しています。従って、『隋書』の読者が先の「邪靡堆」解説記事を読めば、この倭人伝の一節に至り、都の「邪靡堆」は南方向にあるとの読解が妥当であることを確認できるようになっているわけです。もちろん『隋書』編纂者もそのように読者が認識することを期待して、「則魏志所謂邪馬臺者也」との説明文を記したのです。
従って、隋使の行路は糸島博多湾岸付近(竹斯国)に上陸した後、東へ向かい秦王国に至り、その後は南方向に十餘国を経て、海岸に達したと理解するのが最も妥当な解釈です(注③)。その結果、阿蘇山の噴火が見える肥後に至ることが可能となります。もし南以外の方向に進めば隋使は阿蘇山の噴火を見ることなどできません。この阿蘇山の記事も、隋使の進行方向が南であることを強く支持しているのです。なお、十餘国を経て着いた海岸を、当初わたしは有明海と考えていましたが、もっと南の不知火海方面かも知れません。十餘国という国の数を考えると、筑後の海岸(有明海北部)よりも肥後の海岸(有明海南部~不知火海)がより妥当かもしれません。この点、今後の検討課題にしたいと思います。(おわり)

(注)
①『後漢書』倭伝に次の記事が見える。
「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。(中略)その大倭王は、邪馬臺国に居る。」
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③この行路理解を実際の地図に当てはめると、旧西海道と一致するようである。糸島博多湾岸に上陸し、福岡市から筑紫野市へ、そして朝倉街道を東に向かい、うきは市方面に至り、その後、久留米市から南の八女市方面へ抜け、肥後に至るというルートを想定できる。恐らく、隋使は鞠智城を経由し、阿蘇山の噴煙を眺めながら肥後国府(熊本市)に至ったのではあるまいか。そして、有明海南部から不知火海付近の海岸に達したと思われる。


第3066話 2023/07/12

九州王朝宝冠の出土地

久留米大学公開講座の講演では、柳澤家所蔵の九州王朝の宝冠(注①)を紹介しました。男女一対の恐らくは金銅製の見事な宝冠であり、九州王朝の王族クラスのものと思われます。1999年6月19日、わたしは古田先生と筑紫野市の柳澤義幸さんのご自宅を訪問し、この宝冠を拝見しました(注②)。このときの写真を講演会でご披露し、出土地は太宰府近辺の古墳からと聞いただけで、詳細は不明と説明しました。
講演会終了後、福岡市から参加されたYさんから、出土地のことを記した本があることを教えて頂きました。本日、そのYさんからお電話をいただき、『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』(注③)という本に、朝倉郡筑前町夜須松延の鷲尾古墳から出土したことが記されているとのことでした。
筑前町夜須松延の地名を聞き、同地が九州王朝倭王の子孫が居住した地とする史料「松野連系図」の存在をわたしは知っていましたので、この情報の信憑性を強く感じました(注④)。現在、鷲尾古墳の調査報告書を探していますが、どうも〝未調査〟のようです。
「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」によれば、五世紀の倭王「武」の次代「哲」の傍注に「倭国王」とあり、三代後の「牛慈」の傍注に「金刺宮御宇服降/為夜須評督」、四代後の「長提」の傍注には「小治田朝 評督/居筑紫国夜須評松狭野」と見え、「哲」から「長提」は六世紀初頭から評制の時代にかかる七世紀中頃の人物と考えられ、当地に九州王朝の王族が居住していたことがうかがえます。この系図の記事と柳澤家所蔵の宝冠が無関係とは思えません。引き続き、調査します。教えて頂いたYさんに感謝します。

(注)
①古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、平成五年(1993)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也「古田先生と『三前』を行く」『古田史学会報』33号、1999年。
③平山昌博『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』梓書院、2003年。
④古賀達也「洛中洛外日記」24322450話(2021/04/12~05/06)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)~(12)〟


第3065話 2023/07/09

大雨警報下の久留米大学公開講座

本日は一年ぶりに久留米大学公開講座(御井キャンパス)で講演させていただきました(注①)。数日前から続く大雨で山陽新幹線が運休しそうでしたので、前日から福岡入りし、大野城市の弟の家に泊めてもらいました。午前中には山陽新幹線(広島博多間)が止まりましたので、この判断は良かったようです。心配された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からはお電話をいただきました。わたしからは久留米大学の福山先生にお電話し、前日から福岡に着いていることをお知らせし、公開講座が予定通り開催されるのかを確認したところ、金曜日に大学側で検討した結果、大雨のピークは過ぎるだろうとの判断で開催するとのことでした。
福岡県内各地は大雨警報下でしたが、熱心な受講者約40名ほどが参加されました。そして、大雨の中、参加していただいたお礼に急遽追加したテーマ「吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方」を後半30分に発表しました。このタイミングで久留米まで来て、吉野ヶ里出土石棺について触れなければ、古田史学の名折れですので、石棺から被葬者や副葬品が出なかったことは学問的に重要な意味を持ち、新たな学問研究がその出土事実から始まると、その意義を説明しました(注②)。
「古田史学の会」書籍担当の仕事として、過剰在庫になっていた『俾弥呼と邪馬壹国』を数冊持ち込んだのですが、中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)や菊池哲子さん(久留米市)のご協力もいただき、おかげさまで完売できました。終了後は福山先生・中村さん・菊池さんと久留米の居酒屋で懇親会を行い、大雨警報下での楽しい一日を過ごすことができました。ありがとうございます。

(注)
①演題は「京都(北山背)に進出した九州王朝 ―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―」。同レジュメを本稿末尾に転載した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3034話(2023/06/07)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1) ―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―〟
同「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
同「洛中洛外日記」3047話(2023/06/20)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)〟
同「洛中洛外日記」3049話(2023/06/22)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2) ―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―〟

【転載 久留米大学公開講座レジュメ】
京都(北山背)に進出した九州王朝
―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―
古賀達也(古田史学の会・代表)

九州王朝史(倭国興亡の歴史)を概観する際の基本史料として歴代中国史書がある。なかでも『宋書』倭国伝に見える倭王武の上表文は倭国の軍事侵攻について触れており、注目されてきた。他方、『日本書紀』にも神武東征記事や景行紀に「東山道都督」記事が見え、これらは九州王朝(倭国)の東国侵攻の痕跡と思われる。

「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」『宋書』倭国伝
「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」『日本書紀』景行天皇五五年条

こうした九州王朝による東方侵攻が史実であれば、その痕跡や伝承が各地に遺されているはずである。そこで文献や考古学的出土事実を精査したところ、京都市(北山背)の古代寺院遺構の造営を担ったとされる秦(はた)氏は、『隋書』俀国伝に見える秦王国出身の有力氏族であり、九州王朝の軍事氏族とする理解に至った。

「明年(608年)、上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望 羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。」『隋書』俀国伝

俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について、古田武彦氏は筑後川流域とした。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

筑後川流域に秦王国があったとする説だが、筑後川流域という表現では南方向の久留米市などを含むため、二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、更に杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先のうきは市エリアを秦王国とするのが穏当ではあるまいか。現在でも秦(はた)を名字とする人々が、うきは市に濃密分布していることも注目される(注②)。
また、秦王という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見える。

「太秦公宿禰
秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)」(注③)

太秦公宿禰は秦の始皇帝の子孫とする記事で、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の時代(五世紀頃か)には秦王と呼ばれていたと記されている。七世紀になると、広隆寺(蜂岡寺)を創建した秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)が現れる。『日本書紀』は次のように伝える。

〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
「私が拝み祭る。」
すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟『日本書紀』推古天皇十一年(603年)

この推古十一年条に見える蜂岡寺は京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある広隆寺とされている。同寺の推定旧域内からは七世紀前半に遡る瓦が出土している。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺とする見解もある。もう一つ注目されるのが皇極紀三年条に見える次の記事だ。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
「これは常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
「新しい富が入って来た。」
都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟『日本書紀』皇極天皇三年(644年)

秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多を討ったという記事で、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」譚だ。都人までもが〝常世の虫〟を崇めており、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことがうかがえる。しかも北山背の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのだから、これは倭国(九州王朝)による大規模な東国征服の一端に他ならない。『日本書紀』の記述によれば7世紀前半の事件であり(注④)、それは『隋書』俀国伝に見える多利思北孤と利歌彌多弗利の時代となり、都とは太宰府(倭京)のことと考えられる。
九州王朝の天子、多利思北孤や次代の利歌彌多弗利の事績が聖徳太子伝承として伝わっていることが諸研究により判明しており(注⑤)、北山背地域や東近江に遺る聖徳太子と関係する寺院伝承も同様の視点で見直されている(注⑥)。本年の公開講座では、九州王朝の東征(列島支配の拡大)の痕跡について、考古学と文献史学の両面から解説する。

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。ミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、名字「秦」の人口と分布は次のようである。
人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、1962年。
④『日本書紀』では九州王朝の事績を年次をずらして転用しているとする指摘が日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)よりなされている。秦造河勝の東征記事の実年代についても検討が必要である。
⑤古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
⑥古賀達也「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」『古田史学会報』160号、2020年。


第3064話 2023/07/08

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (6)

 『隋書』俀国伝に記された、大業四年(608年)の隋使の行程記事(注)の要点は次の通りです。()内は進行方角です。

百済→竹島→都斯麻国→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十餘國→海岸
※古田説では、具体的に国名が記された「百済→竹島→都斯麻国→(東)」を主線行路、国名が記されていない「→十餘國→海岸」を傍線行路とする。

 百済から一支国や秦王国へは進んだ方角は東とありますが、竹斯国や十餘國への方角が記されておらず、都が置かれている「邪靡堆」がどの方角にあるのか、この記事(位置情報)だけでは読者には不明です。そこで、わたしが注目したのが俀国伝冒頭に記された(1)と(3)の二つの位置情報です。「洛中洛外日記」3060話で指摘したことですが、読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するはずです。この視点はフィロロギーの基本的な学問の方法でもあります。従って、読者は行程記事の前にある、次の俀國とその都「邪靡堆」の記事(位置情報)を読んでいるはずです。

(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。

 (1)は俀国伝冒頭に記された俀国の位置情報で、読者が最初に目にする俀国に関する位置情報です。すなわち、俀国は百済や新羅の「東南」にある島国という印象的なフレーズであり、最初に得たこの認識(位置情報)で、読者は後に続く俀国伝の行程記事などの内容を判断するはずです。もちろん編纂者も、読者がそのように理解できるように(それ以外の理解をしないように)という前提で俀国伝を執筆したはずです。ときの天子に上程する正史であるからには、当然の配慮でしょう。

 この視点で先の行程記事を読むとき、百済からの進行方向を示す方角が一支国と秦王国の「東」しかないことに読者は気づき、方角が示されていない竹斯国と十餘國と海岸は「南」方向ではないかと考えるのではないでしょうか。もし、百済から「東」方向にしか行かないのであれば、百済や新羅の「東南」にあると冒頭に記された俀國とその都に行き着けないからです。

 大和朝廷一元史観では、「十餘國」と「海岸」を秦王国から更に東方向に進んだところの瀬戸内海諸国と摂津難波と解釈するしか、自説を維持できないのですが、これでは俀国伝冒頭に「俀國在百濟新羅東南」とある位置情報と行程記事の進行方角とが齟齬をきたします。「東南」方向にある島国と最初に書いてあるのですから、行程記事中の進行方角の記載がない竹斯国と十餘國と海岸は「南」方向と読者は理解するほかありません。そして、この理解を後押しする記事が、行程記事(5)の前に記された俀國の都「邪靡堆」の位置情報(3)なのです。(つづく)

(注)『隋書』俀國伝に記された、大業四年(608年)隋使の行程記事。
「上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。」


第3063話 2023/07/07

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (5)

 『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する次の(5)の記事には、ある問題点がありました。このことについて説明します。

(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 このうち、俀國の都への行路記事は次の部分です。

(a) 度百濟行至竹島南望羅國。
(b) 經都斯麻國逈在大海中。
(c) 又東至一支國。
(d) 又至竹斯國。
(e) 又東至秦王國
(f) 又經十餘國達於海岸。 ※古田説では傍線行路とする。

簡略化すると次のような行程です。()内は進行方角です。

百済→竹島→都斯麻国→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十餘國→海岸

 わたしはこの行程記事を読んで不審に思いました。これでは第一読者である唐の天子には、俀國の都がどこにあるのか理解不能と思えたのです。なぜなら、百済から一支国や秦王国へは進んだ方角は東とあるのですが、竹斯国や十餘國への方角が記されておらず、これでは都が置かれている「邪靡堆」がどの方角にあるのかわからないからです。現在のわたしたちであれば、手元に世界地図や日本地図がありますから、恐らくこのへんではないかと想像でき、現代の情報に基づき諸説を提案できますが、当時の読者は『隋書』俀国伝の記事から得られる位置情報に基づいて考えなければなりません。他方、『隋書』編纂者は〝読めばわかるはず〟〝読めばわかるように書いている〟と考えていたはずです。そうでなければ史書編纂者として失格だからです。

 そこで、わたしが重視したのが、「洛中洛外日記」3060話で指摘した〝読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するはず〟と考えるフィロロギーの基本的な学問の方法でした。この視点により注目したのが、読者が(5)の行程記事の前に読んだであろう(1)と(3)の俀國とその都「邪靡堆」の記事(位置情報)の存在です。(つづく)


第3062話 2023/07/06

『隋書』俀国伝に記された

        都の位置情報 (4)

 『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する(1)~(5)の記事の中で異質な内容を持つのが(5)です。それは俀国の都へ向かう大業四年(608年)の隋使の行路記事です。

(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 この記事の解釈により、『隋書』俀国伝と大和朝廷一元史観の通説がかろうじて〝対応〟しています。というのも、『隋書』俀国伝に記された地名などで場所が特定できるのは、都斯麻國(対馬)・一支國(壱岐)・竹斯國(筑紫)・阿蘇山で、いずれも九州島内と周辺の島に限られており、大和や近畿の地名、九州から近畿に向かう途中の地名は皆無です。ですから、俀国伝を大和朝廷一元史観の根拠にすることはそもそも無理なのです。

 そこで考え出されたのが、古田先生が「傍線行路」とされた「又經十餘國達於海岸」を〝瀬戸内海を通って摂津難波の海岸に達した〟とする〝苦肉の解釈〟でした。この記事を利用するしか、隋使が向かった都を近畿地方に持って行けなかったのですが、この解釈について古田先生は次のように批判しています。

〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。

 ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟

 このように、(5)の記事を通説の根拠に使用することは困難です。しかし、この記事には他にも問題点がありました。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。


第3061話 2023/07/05

『隋書』俀国伝に記された

       都の位置情報 (3)

 前話で挙げた『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する(1)~(5)の記事(注①)のなかで、(3)が重要であると指摘しました。このことについて説明します。

 (3)の記事には、俀國の都のある場所は「邪靡堆」であり、それは『三国志』魏志倭人伝に言うところの「邪馬臺」であるとする情報が記されています。それを読んだ読者は次のように認識します。

(a) 俀國とは倭人伝など歴代史書に見える倭国のことである。
(b) 現在(『隋書』編纂時、七世紀中頃)は邪靡堆を都としているが、その地は倭人伝にある女王の都「邪馬臺」(実際は邪馬壹国)のことであり、同じ位置にある。

 すなわち、俀國は中国と交流してきた日本列島の代表王朝とする歴史認識と、その都の位置は三世紀から七世紀まで変化していないとの位置認識に読者は至ります。この認識は現代の古代史学界でも同様に持たれ、大和朝廷一元史観の通説を形成する上で、重要な史料根拠となっています。それは次のような等式で表せます。

 七世紀の俀國の都「邪靡堆」=三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)=七世紀の俀國も畿内の王権=『日本書紀』に記された大和朝廷
従って中国史書も『日本書紀』も通説(一元史観)と対応しており、これは歴史事実と見なして良い。すなわち、『隋書』俀国伝は通説(邪馬台国畿内説・大和朝廷一元史観)を支持する史料根拠である。

 この一連の論理構造が一元史観という岩盤規制を支えているのですが、同時に、二番目の等式「三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)」が崩れると、一元史観という結論(不動の信念)が瓦解するという構造でもあります。そのため、学界内で「邪馬台国」九州説が発表されると、その論者に対して手厳しい批判がなされます。たとえば「邪馬台国」北部九州説を著書(注②)で発表した小澤毅氏に対して、寺崎保広氏は書評(注③)で次のように批判しています。

 「ただし、邪馬台国を論じた部分には違和感を覚えた。その所在地を巡っては膨大な研究史があるが、著者は北九州説をとるべきだと主張する。(中略)先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎているのではないか。近年では纏向遺跡の調査をはじめとして、邪馬台国畿内説がかなり優勢となっている状況にあって、著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いことであり、そうであれば、邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたいものである。」

 一見、学問的な批判のように見えますが、その内実は「先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎている」「著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いこと」の表現からわかるように、あまり本質的な批判になっていません。従来の畿内説が妥当ではないとする著者に対して、慇懃無礼な対応(冷静な判断力で先行研究に目配りせよ)のようにも映ります。また、「邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたい」と言うからには、「邪馬台国」大和説はあり得ず、北部九州説をとる関川尚功さん(注④)の著書『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(梓書院、2020年)にも書評で応答していただきたいものです。

 関川さんは先の等式中の「三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)」が成立しないことを、大和盆地を40年以上発掘してきた考古学者として証言したものであり、それは決定的な指摘です。

 他方、古田先生は文献史学の立場から、「七世紀の俀國の都「邪靡堆」=『日本書紀』に記された大和朝廷」が成立しないことを繰り返し指摘してきたことは著名です。すなわち、次の等号否定式などを提示され、「俀国≠大和朝廷」を論証しました。

『隋書』俀国伝の多利思北孤(男性)≠『日本書紀』の推古天皇(女性)
『隋書』俀国伝の多利思北孤(天子)≠『日本書紀』の聖徳太子(摂政)

 すなわち、古田先生は一元史観の論理構造の最も〝痛いところ〟を突かれたのです。(つづく)

(注)
①『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識の記事。
(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2) 其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4) 古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。
②小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
③寺崎保広「書評 小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』」『日本歴史』2019年。
④元橿原考古学研究所の考古学者。著書『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』で、次のように指摘した。詳細は拙稿「『邪馬台国』大和説の終焉を告げる ―関川尚功著『考古学から見た邪馬台国大和説』の気概―」(『古代史の争点』2022年、明石書店)を参照されたい。
〝『魏志』に描かれているような、中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この奈良盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特に、それが証明できるような遺物も、見当たらないからである。〟一~二頁
〝弥生時代後期には瀬戸内・山陰・北陸など、その中でも特に西日本地域では、丘陵上に築かれる各種大型の墳丘墓が発達することはよく知られている。しかし、大和地域ではこのような、大型墳丘墓については未だに確認されないばかりか、墳丘墓自体がほとんどみられず、むしろ、その空白地帯といえるのである。(中略)
さらに、方形周溝墓などを含めた弥生墳墓全体をみても、副葬品はほぼ皆無という状態である。〟三二~三三頁
〝最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。
また、鉄器の出土も周辺地域に比べるとかなり少量であり、青銅器自体の出土や、その生産遺跡も近畿の中で特に多いということはない。〟六七頁
〝大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されてないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。(中略)
このような大和の銅鐸や銅鏡が示す実態からも、大和と邪馬台国との接点を見出すことはできないのである。〟六九~七一頁
〝今日までの長い調査歴にもかかわらず、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にある。
その一方で、北部九州や吉備・山陰・北陸などでは、多くの副葬品を保有する、あるいは大型の墳丘をもつような墳墓などから、弥生時代の有力首長墓の存在はすでに明らかになっているのである。(中略)考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しえないことを示しているといえよう。〟一四一~一四二頁


第3060話 2023/07/03

『隋書』俀国伝に記された

     都の位置情報 (2)

 『隋書』俀国伝などの中国正史の夷蛮伝を読む際に留意すべき事があります。それは、想定された第一読者が、史書編纂時の王朝の天子であることです。『隋書』の場合は唐の天子(第三代高宗)です。従って他国の歴史の専門家でもない天子が読んで、普通に理解できる文章で書かれているはずです。

 次に大切なことが、読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するということです。これはフィロロギーという学問(注①)に於いて重要な視点で、当時の読者が史書から得た認識を、現代の研究者が同じように辿り、同じように再認識するための大切な留意点といえます。これらのことを踏まえた上で、『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置情報を記載順にピックアップします。次の通りです。論者によっては訳が異なる場合がありますので、まずは関連部分を原文で紹介します。

(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2) 其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4) 古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 上記をまず簡単に説明します。(1)は俀國が百濟・新羅の東南方向の水陸三千里先にあり、大海中の島国であるとしています。(2)は、その国の規模が「東西五月行、南北三月行」であり、それぞれ海に至るとあります。これは(1)の大海中の島国とする記事に整合しています。この二つの記事を読んだ当時の読者は、〝俀國は朝鮮半島から三千里先の東南方向にある大きな島国〟であると認識したことでしょう。

 (3)では、俀國の歴史と都の位置情報が具体的に紹介されます。都のある場所は「邪靡堆」であり、それは『三国志』魏志倭人伝に言うところの「邪馬臺」であると説明します。倭人伝には「邪馬壹国」とあり、この「邪馬臺」は五世紀に成立した『後漢書』倭伝の「その大倭王は邪馬臺国に居す」に基づいたものと思われます。この位置情報は重要で、この記事を読んだ読者は次の認識に至ったはずです。

(a) 俀國とは倭人伝など歴代史書に見える倭国のことである。
(b) 現在(『隋書』編纂時)は邪靡堆を都としているが、その地は倭人伝にある女王の都「邪馬臺」(実際は邪馬壹国)のことであり、同じ位置にある。

 すなわち、俀國は古くから中国と交流した日本列島の代表王朝であるとの歴史認識と、その都の位置は三世紀(『三国志』編纂時)から七世紀(『隋書』編纂時)まで変化していないとの位置認識に至ったことでしょう。この(3)の情報は重要ですので後述します。そしてこの認識を(4)の記事で読者は再確認します。すなわち、「古に云う」として俀國の位置情報「去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。」が記され、俀國が倭人伝や『後漢書』等に記された古の倭国であることが示されます(注②)。

 ここまでが、俀國伝の冒頭にある俀國の概要が記された部分です。そして、(5)の俀國と隋との具体的な国交記事へと移るわけですが、読者は(1)~(4)までを読んで得た基本認識に基づいて、(5)の具体的な行程記事(国交記事)を読むことになります。従って、(5)の行程記事は読者が抱いた基本認識に基づいて、あるいは基本認識と矛盾しない読み方(理解)を現代の読者(研究者)はしなければなりません。これは、わたしが古田先生から学んだ文献史学やフィロロギーの基本姿勢(学問の方法)です。(つづく)

(注)
①〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。
②『三国志』倭人伝に次の記事が見える。
「自郡至女王國、萬二千餘里。」「計其道里、當在會稽東冶之東。」「所有無、與儋耳朱崖同。」
『後漢書』倭伝には次の記事が見える。
「楽浪郡徼去其國萬二千里」「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近故其法俗多同。」


第3059話 2023/07/02

『隋書』俀国伝に記された

    都の位置情報 (1)

 『多元』176号に掲載された八木橋誠さんの論稿「倭国の漢字 ―音読みを探る―」に、『隋書』俀国伝に記された俀国の都の位置に関して、次の見解が示されていました。

〝隋帝が裴清を『俀国に使せしむ』という派遣記事は倭国の都が目的地となるので、その後は壱岐島を経て博多に上陸、盛大な歓迎セレモニーを受けて目的地に(ママ。「到着」が脱落か)したことで長安からの行程は終わるのである。(中略)ところが多元の古代史会議でも未だに裴清が大阪まで赴いたという主張に固執する先学がいて、思い込み持論を展開し、通説と相通じているようにも思える。本文では九州上陸後に「海を渡る」との表現はないので九州島に留まっていたことになるだろう。どこにも「海」や難波津の字もない。仮に瀬戸内海を渡ったとすれば、難波までは途中停泊しながら7~8日要するなど長い航海になる訳であるから、瀬戸内海の島々の描写や各停泊港の様子が全く書かれていないことは有り得ないことではないだろうか。〟

 「多元的古代研究会」や「古田史学の会」では、『隋書』俀国伝の都の位置や都への行程記事について諸説が発表されており、論争が続いています。学問は批判を歓迎し、真摯で誠実な論争は研究を深化させます。わたしは古田説(注①)を支持していますが、古田先生も行程や位置の詳細については断定されていませんし、自説の修正も行われていますので、未だ検討途中のテーマということもできます。

 学問論争であれば、いずれ真実に向かって論議が最有力説に収斂しますが、その前提として諸説の根拠となる俀国伝の史料事実を正確に把握することが必要です。なかでも論点となっている都の位置については、どのような位置情報が記載されているのかが決め手となります。そこで、当論争テーマに関わる位置情報について、改めて精査することにします。

 なお、ここでいう「位置情報」とは『隋書』成立時点(注②)での中国側の認識を意味しており、それが現代日本人の地図情報や歴史認識、あるいは『日本書紀』の記述と一致しているかどうかとは一応別問題です。まずはこの点を峻別して論じるのが、文献史学やフィロロギー(注③)という学問領域の基本姿勢です。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁に次のように記されている。
〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟
②『隋書』は本紀五巻・志三十巻・列伝五十巻からなる。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて編纂した。第三代高宗の顕慶元年(656)に完成した。九州王朝の時代に九州王朝(倭国)のことを記した俀国伝は同時代史料であり、九州王朝研究にとって貴重である。
③〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。