九州王朝(倭国)一覧

第3144話 2023/10/28

三十年前の論稿「二つの日本国」 (1)

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した、『旧唐書』に見える「日本国王夫妻」「日本国王子」を九州王朝王族の末裔ではないかと考えたことがありました。しかし、701年の王朝交代により倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)に列島の代表者が替わって百年から百五十年も後のことですから、ありえないことのように思いますが、なぜわたしがそのように考えたのかについて説明します。

 それは三十年前(1993年)に発表した「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」という論文にまで遡ります(注②)。拙稿を収録した古田武彦編著『古代史徹底論争』は入手困難のようでしたので、「洛中洛外日記」で紹介したこともありました(注③)。次の通りです。

〝同稿の主論点は『三国史記』新羅本紀に見える八~九世紀の日本国記事の日本は大和朝廷ではなく王朝交代後の“九州王朝”のことであるとするものです。すなわち、列島の代表王朝の地位を大和朝廷に取って代わられた後も、“九州王朝”は完全に滅亡したわけではなく、新羅と〝交流〟〝交戦〟していたとする仮説です。その根拠として、新羅本紀に記された日本国記事の内容が大和朝廷(近畿天皇家)の『続日本紀』の記事とほとんど対応していないことを指摘しました。

 一旦、この理解に立つと、新羅本紀の文武王十年(670年)の記事に見える倭国から日本国への国号変更記事(注④)は、九州王朝が国名を倭国から日本国に変更したと見なさざるを得ないとしました。〟(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
同「洛中洛外日記」1174話(2016/04/24)〝日本国王子の囲碁対局〟
同「洛中洛外日記」1175話(2016/04/29)〝日本国王子の囲碁対局の勝敗〟
同「洛中洛外日記」3142話(2023/10/24)〝唐から帰国した「日本国王夫妻」記事〟
同「洛中洛外日記」3143話(2023/10/26)〝唐で囲碁を打った「日本国王子」〟
②古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂出版、1993年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟
④「文武十年(670年)十二月、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。」『三国史記』新羅本紀第六、文武王紀。


第3127話 2023/09/30

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (3)

 各地に遺る「天皇」地名の多くは牛頭天王(牛頭天皇)信仰に由来すると考えてもよいように思うのですが、それにしても愛媛県東部地域に最濃密分布する理由をうまく説明できません。これには何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。そのことを説明できる一つの作業仮説として、七世紀の九州王朝の時代、当地に天皇号を称した有力者がいたのではないかと考えました。すなわち、九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下、当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていたとする仮説です。

 従来の古田説(旧説)では、九州王朝下のナンバーツーとしての「天皇」は近畿天皇家のこととされてきました。他方、ナンバーツー「天皇」が、近畿天皇家以外にも多元的に存在(併存)したのではないかとわたしは考えるようになりました(注①)。その具体例として、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」に注目しました。すなわち、九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。そして、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。

 このことの傍証として、越智氏関連史料中に一族の人物に対して、「伊予皇子」(注②)、「伊予ノ大皇」「伊予土佐ノ国皇」「玉興皇」(注③)という、「王」ではなく、天皇の「皇」の字を用いた呼称が散見されます。こうした史料事実や「天皇」地名の存在から、九州王朝配下の大豪族、越智氏が「天皇」を名乗ることを許されたと考えることができそうです。同時に、近畿の大豪族、近畿天皇家(後の大和朝廷)もナンバーツー「天皇」を名乗ることが許された、あるいは任命されたものと推定しています。この多元的「天皇」の併存という仮説であれば、野中寺彌勒菩薩台座銘の「中宮天皇」や、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」「仲天皇」という史料情況を無理なく説明できるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②「両足山安養院車無寺(無量寺の旧名)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1464頁。
③「玉興越智郡拝志新館ニ移事(抄)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1754頁。


第3122話 2023/09/24

『朝倉村誌』(愛媛県越智郡)を購入

 今日は久しぶりにご近所にある枡形商店街の古書店巡りをしました。あるお店の書棚の上の方に『朝倉村誌』の表題を持つ上下2巻セットの分厚い本を見つけました。どこの朝倉村だろうかと気になり、手にとって確認すると、愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)でした。古田学派内では斉明天皇伝承で注目されている地です。価格も二千円と格安で、新品同様の良本ですので迷わず購入しました。同書は昭和61年(1986年)に出版されたもので、地元の伝承や寺社仏閣の史料などが収録されているのか心配でしたが、そこそこ掲載されていたので、お買い得でした。

 ざっと目を通したところ、朝倉村の字地名一覧が下巻末にありました。「ほのぎ」(注①)という一覧表で、その中の「朝倉上之村」に次の字地名がありました。

○「才明」  地番:1835 1836 地目:田
○「西明」  地番:1900 1901 1902 1903 地目:田
○「才明」  地番:2126 2127 地目:田
○「才明上」 地番:2128 2129 2130 2131 2132 地目:田

合田洋一氏の見解(注②)によれば、この字地名は九州王朝の天子、「斉明(サイミョウ)」が当地に来た痕跡とされています。

 末尾に「みょう(名・明)」がつく地名は、九州や四国を中心に西日本各地に分布し(注③)、関東や青森県にも見えます。明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「国」―「郡」―「町・村」―「小名」―「字」と区分けされ、「名」は「村」と「字」の中間にあるような行政単位です。表記例から判断すると、「名」の中に「字」があるというよりも、両者は併存しているようです。わたしは『朝倉村誌』に収録された「才明」「西明」は、この「みょう」地名ではないかと考えています。

(注)
①「ほのぎ」とは次のように説明されている。
「人の住む所には、おのずからその所有をはっきりするために、自分の持ち地を区画して、そこへ杭を立てて名をつけた。昔はこれをほのぎ(保乃木・穂乃木)といった。明治時代のはじめにほのぎを小字とし、小字を集めて村や町とした。」(愛媛県生涯学習センターHPによる)
②合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
同「九州・四国に多い『みょう』地名」『古田史学会報』129号、2015年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3118話 2023/09/20

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (1)

 「洛中洛外日記」3069話(2023/07/15)〝賛成するにはちょっと怖い仮説〟で日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)の研究を紹介しました。「古田史学の会」関西例会での「倭国の君主の姓について」という発表です。その要旨は、九州王朝王家の姓の変遷(倭姓→阿毎姓)を歴代中国史書から導き出し、九州王朝内で〝王統〟の変化があったとする仮説です。『宋書』に見える倭の五王は「倭」姓の氏族であり、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」姓の王家とは異なる氏族とするもので、これは従来の古田説にはなかったテーマです。

 この日野説は注目すべきものですが、疑義も出されています。例えば、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」は「姓」と記されているが、『宋書』に見える「倭讃(倭王)」の「倭」は姓とは記されておらず、「倭」を倭王の姓とするエビデンスはないとの谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)の指摘があります(注)。そこで、「倭讃」の「倭」が倭王の姓なのか、国名「倭」の援用なのかについて検討するために、中国史書東夷伝の隣国「百済伝」では、百済王の姓がどのような表記になっているのかを参考として調べてみることにしました。

 管見では次の史書(正史)に「百済伝」があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』。訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)を採用しました。(つづく)

(注)「古田史学リモート勉強会」(2023年8月12日)での質疑応答にて。


第3116話 2023/09/17

「筑前國字小名取調帳」須玖村の字「盤石」

 「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟で、卑弥呼の墓の有力候補として須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本山)の山上にある熊野神社の地とする古田説を紹介しました。そしてその徴証として『筑前国続風土記拾遺』(注①)の須玖村「熊野権現社」の記事を指摘しました。

「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産土也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、320~321頁。

 ここに見える「皇后峯」が熊野神社が鎮座する「須玖岡本山」のことと思われるのですが、その場所は「バンシヤクテン」の「又其側皇后峰といふ山」とありますので、「バンシヤクテン」という地名を探すことにしました。なお、「バンシヤクテン」の意味はよくわかりません。漢字表記ではなく、カタカナで表記されていることから、『筑前国続風土記拾遺』編纂時点で既に意味不明となっていたのかもしれません。

 幸い、古田先生の著書(注②)に「福岡県須玖・岡本遺跡を中心として弥生期から古墳期までの遺跡分布図」(注③)が掲載されており、その地図によれば熊野神社の東側に「バンシャク」という地名が見え、これが「バンシヤクテン」のことか、それと関係した地名と思われます。その位置であれば「又其側皇后峰といふ山」という記述に対応でき、熊野神社がある「須玖岡本山」の山頂部が、その側にある「皇后峰」に相当します。

 更に明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「筑前國那珂郡須玖村」に字「岡本山」「盤石(バンジャク)」が並んでおり、この「盤石(バンジャク)」が「バンシヤクテン」のことで、須玖岡本山に隣接していることが推定できます。
以上の調査結果から、『筑前国続風土記拾遺』に記された「皇后峰」が熊野神社の地「須玖岡本山」の山頂を指していることがわかりました。そうであれば、「皇后峯ハ神后の御古跡」という村の古老の伝えは、此の地が神功皇后とされる女王がいたという伝承であり、卑弥呼の伝承が『日本書紀』成立以後に神功皇后に置き換えられたと考えるべきです。

 以上のように、〝熊野神社社殿下に卑弥呼の墓がある〟とした古田先生の推察は、考古学・文献史学・現存地名・現地伝承を根拠として成立しており、やはり最有力説と思われるのです。

(注)
①広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。
②古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
③福岡県教育委員会・調査資料、1963年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3115話 2023/09/16

『万葉集』「日本挽歌」

     は九州王朝のレクイエム

 本日、東淀川区民会館で「古田史学の会」関西例会が開催されました。10月例会は浪速区民センターで開催します。

 わたしは「喜田貞吉の批判精神と学問の方法」を発表しました。喜田貞吉が問題提起した三大論争(法隆寺再建論争、『教行信証』代作説、藤原宮長谷田土壇説)の経緯と結果、そして遺された課題について説明し、喜田の批判精神と古田先生の学問の方法をしっかりと継承したいと決意表明しました。

 今回の例会で特に注目したのが上田さんと正木さんの発表でした。上田さんの発表は、『万葉集』巻五「日本挽歌」は九州王朝のレクイエムとする新解釈で、確かに八世紀前半頃の太宰府で歌われた挽歌であれば、新王朝の日本国の挽歌では不自然であり、滅んだ九州王朝(倭国)の挽歌であればよく理解できます。それではなぜ「倭国挽歌」ではなく、「日本挽歌」とされたのかという問題があり、その説明は簡単ではありませんが、興味深い仮説と思われました。

 正木さんは、九州年号の朱鳥改元は倭王・都督である筑紫君薩夜麻崩御によるものとする仮説を発表されました。これには意表を突かれました。『日本書紀』朱鳥元年是歳条の「蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。」の記事は、薩夜麻と天武が倶に崩御したことを風刺する歌ではないかともされました。実は、筑紫の有力者「虎丸長者」(藤原虎丸と伝える)が朱鳥元年に没したとする伝承があり、この虎丸が薩夜麻ではないかと考えたこともあったからです。ただし、伝承では朱鳥改元の七月二十日よりも後の十月に虎丸は亡くなったとされており、改元とのタイミングがあわないので九州王朝の天子とはできないと考えてきました。今回の正木説を知り、「虎丸長者」伝説を見直す必要を感じました。

 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔9月度関西例会の内容〕
①消された天皇 (大山崎町・大原重雄)
②「梅花の歌」と長屋王の変 (八尾市・上田 武)
③西井氏の問いかけに答える (八尾市・満田正賢)
④白鳳、朱雀、朱鳥、大化期の天子は誰か (八尾市・満田正賢)
⑤喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (京都市・古賀達也)
⑥藤原宮(藤原京)の名称と、その遺跡出土の評木簡について (東大阪市・萩野秀公)
⑦部曲は「私有民」なのか? 中村友一氏の研究を受けて (たつの市・日野智貴)
⑧九州王朝から新王朝への交代 ―その時期に関する考察― (姫路市・野田利郎)
天武崩御と倭国(九州王朝)の薩夜麻の崩御 (川西市・正木 裕)
仝レジュメ(pdf書類)ダウンロードできます。

○会務報告(正木事務局長) 令和六年新春古代史講演会(2024/1/21、京都市)の件、関西例会の会員向けライブ配信の取り組み、他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/21(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。
11/18(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。

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古田史学の会東淀川区民会館 2023.9.16

9月度関西例会発表一覧(参照動画)

 YouTube公開動画①②です。他にはありません。

1,消された天皇 (大山崎町・大原重雄)

2,「梅花の歌」と長屋王の変 (八尾市・上田 武)

3,西井氏の問いかけに答える (八尾市・満田正賢)

4,白鳳、朱雀、朱鳥、大化期の天子は誰か (八尾市・満田正賢)

5,喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (京都市・古賀達也)

6,藤原宮(藤原京)の名称と、その遺跡出土の評木簡について
(東大阪市・萩野秀公)

7部曲は「私有民」なのか? 中村友一氏の研究を受けて
(たつの市・日野智貴)

https://youtu.be/BYRNeh-VHY8

8,九州王朝から新王朝への交代 ―その時期に関する考察―
(姫路市・野田利郎)

https://youtu.be/ZDZfIhhV16c https://youtu.be/TooP9uL7qqQ

9,天武崩御と倭国(九州王朝)の薩夜麻の崩御 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/W122qfOPRS8


第3114話 2023/09/15

『筑前国続風土記拾遺』

     で探る卑弥呼の墓

 来年の1月14日、九州古代史研究会で講演させていただくことになりました。演題は下記の通りで、なるべくタイムリーで九州の皆さんに興味を持っていただけそうな内容にしました。

□演題 吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓
□副題 ―九州年号金石文・棟札の紹介―

 そこで改めて卑弥呼の墓について史料調査したところ、重要な記事を見つけましたので紹介します。
古田説では、著名な弥生遺跡である須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本山)の山上にある熊野神社の地を卑弥呼の墓の候補としています(注①)。その根拠は次のようです。
『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」とする古田説を「洛中洛外日記」1803、1804話で紹介しましたが、この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとしました。「須玖村岡本山」は「須玖村」の大字「岡本」の小字「山」という三段地名表記です。
この須玖岡本遺跡からは虁鳳鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土していることから、当地が邪馬壹国の中枢領域であるとされ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置します。そこには熊野神社が鎮座しており、そこに卑弥呼の墓があったのではないかと古田先生は指摘されました。また、日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないかとしました。
この古田説は、地名「須玖岡本山」とその地から出土した須玖岡本彌生遺跡と遺物(魏時代の虁鳳鏡)を根拠として成立していますが、更に文献に徴証がないかを調査しました。幸いにも筑前には江戸期に成立した地誌(注②)がいくつかあり、それらを精査したところ、『筑前国続風土記拾遺』(注③)に熊野神社について次の記述がありました。

 「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産土也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、320~321頁。

 この「熊野権現社」は熊野神社のことで、当地域から銅矛やその鋳型が出土したと記されています。さらにそこには「皇后峰といふ山」があり、「此皇后峯ハ神后の御古跡」とする伝承の存在も記しています。この「神后」とは神功皇后のことと理解されます。『日本書紀』神功紀には倭人伝の女王(卑弥呼、壹與)のことが記されており、あたかも神功皇后が卑弥呼・壹與と同一人物であるかのような記述になっています(注④)。この史料事実は次のことを指し示します。

(1) 須玖岡本に皇后の峯と呼ばれている山がある。
(2) その付近からは弥生時代の銅矛や鋳型が出土している。
(3) 皇后の峯は神功皇后の古跡と伝承されている。

 これらの史料事実は次の可能性を示唆します。

(4) 『日本書紀』神功紀には倭人伝の女王が記されており、当地には「皇后の峯」を倭国の女王の古跡とする伝承があり、『日本書紀』成立以後にその女王を神功皇后(神后)とする伝承に変化した。
(5) 須玖岡本にある峯とは、当地の小字地名「山」と解される。
(6) その須玖岡本山には熊野神社があり、当伝承が「熊野権現」の項に記されていることも(5)の理解を支持している。

 以上の考察から、当地の熊野神社の領域(具体的には社殿下の山頂部)に卑弥呼の墓があったとする古田先生の考察が最有力説と思われるのです。九州古代史研究会の新年講演会ではこのことを詳述します。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
②貝原益軒『筑前国続風土記』宝永六年(1709)、加藤一純・鷹取周成『筑前国続風土記付録』寛政十一年(1799)、青柳種信『筑前国続風土記拾遺』文化十一年(1814)、伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(1841)。
③広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。
④『日本書紀』神功皇后三十九年条に次の記事がみえる。
「魏志に云はく、明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣(いた)りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。」


第3096話 2023/08/20

九州から関東への鵜飼の伝播

 昨日、都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。9月例会は東淀川区民会館で開催します。

 わたしは「木簡の中の王朝交代」を発表しました。701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代により、木簡に記された行政単位「評」が「郡」に全国一斉に変わることは郡評論争により著名です。同時に荷札木簡などの年次表記(干支→年号)やその記載位置(冒頭→末尾)も変わることを紹介し、それら書式変化の理由は、九州王朝と大和朝廷の〝行政命令〟によるもので、偶然の全国一斉変化ではなく、国家意思の表れと見なさざるを得ないとしました。

 今回の例会では、大原さんから興味深い鉄刀銘の紹介がありました。それは伝群馬県藤岡市西平井出土の銀象嵌太刀に描かれた魚と鳥(鵜)、花形文という図像で、熊本県の江田船山古墳出土銀象嵌太刀の魚・鵜・花形文と共通しています(江田船山の太刀には馬も描かれている)。この一致は両者の関係をうかがわせるもので、大原さんは九州勢力の関東進出を思わせるとされ、わたしもこの見解に賛成です。群馬県からは魚をくわえた鳥(鵜か)の埴輪も出土しており、海から離れた関東平野の奥地に鵜飼が伝わっていたことに驚きました。なぜなら、北部九州の鵜飼用の鵜は海鵜だからです。海鵜を捕獲して調教するため、古代では鵜飼の風習は海からそれほど離れていない地域に限られると、なんとなく考えてきましたが、大原さんの紹介により、認識を改めることができました。なお、『記紀』に見える〝鵜飼〟については別述したいと思います。

 わたしは九州王朝の鵜飼の伝統について論文発表(注)したことがありますが、その執筆時には群馬県での鵜飼について知りませんでした。倭の五王による関東侵攻の痕跡として、「鵜飼」の風習は注目されます。

 8月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔8月度関西例会の内容〕
①稲荷山鉄剣銘文の杖刀人は呪禁者との解釈 (大山崎町・大原重雄)
②近畿朝にいなかった安閑・宣化帝 (大阪市・西井健一郎)
木簡の中の王朝交代 (京都市・古賀達也)
仝PDF書類もダウンロードして下さい。
Youtubu動画ではありません。広告も出ません。

④末盧国の所在と魏使の行程 (川西市・正木 裕)

○会務報告(正木事務局長)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
9/16(土) 会場:東淀川区民会館 ※JR・阪急 淡路駅から徒歩10分。
10/21(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。
11/18(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。

(注)
「九州王朝の筑後遷宮 玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第4集、2000年。
「九州王朝と鵜飼」『古田史学会報』36号、2000年。
「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復元」『新・古代学』第5集、2001年。
○「洛中洛外日記」704話(2014/05/05)〝『隋書』と和水町〟


第3090話 2023/08/07

王朝交代の痕跡《金石文編》(3)

王朝交代前夜(7世紀第4四半期)の金石文

 王朝交代直前の7世紀第4四半期に入ると、金石文の年次表記にその影響が現れます。第2四半期成立の野中寺彌勒菩薩像銘を含め、7世紀後半成立の次の金石文で、そのことを解説します。

【7世紀第4四半期の金石文年次表記】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」

(2)船王後墓誌 大阪府柏原市出土 戊辰年(668年)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
「三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

(3)小野毛人墓誌 京都市出土 丁丑年(677年)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」
「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」

(4)山ノ上碑 群馬県高崎市 辛巳歳(681年)
「辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
長利僧母爲記定文也 放光寺僧」

(5)長谷寺千仏多宝塔銅板 奈良県桜井市長谷寺 歳次降婁(686年または698年。降婁は戌年のこと)
「惟夫霊應□□□□□□□□
立稱巳乖□□□□□□□□
真身然大聖□□□□□□□
不啚形表刹福□□□□□□
日夕畢功 慈氏□□□□□□
佛説若人起窣堵波其量下如
阿摩洛菓 以佛駄都如芥子
安置其中 樹以表刹量如大針
上安相輪如小棗葉或造佛像
下如穬麦 此福無量 粤以 奉為
天皇陛下 敬造千佛多寳佛塔
上厝舎利 仲擬全身 下儀並坐
諸佛方位 菩薩圍繞 聲聞獨覺
翼聖 金剛師子振威 伏惟 聖帝
超金輪同逸多 真俗雙流 化度
无央 廌冀永保聖蹟 欲令不朽
天地等固 法界无窮 莫若崇據
霊峯 星漢洞照 恒秘瑞巗 金石
相堅 敬銘其辞曰
遙哉上覺 至矣大仙 理歸絶
事通感縁 釋天真像 降茲豊山
鷲峯寳塔 涌此心泉 負錫来遊
調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定
乗斯勝善 同歸實相 壹投賢劫
倶値千聖 歳次降婁漆菟上旬
道明率引捌拾許人 奉為飛鳥
清御原大宮治天下天皇敬造」

(6)鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社 朱鳥三年(688年)
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(7)采女氏塋域碑 大阪府南河内郡太子町出土 己丑年(689年)
「飛鳥浄原大朝廷大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四十代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日」

(8)法隆寺観音像造像記銅板 奈良県斑鳩町 甲午年(694年)
「甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
「像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
族大原博士百済在王此土王姓」

(9)那須国造碑 栃木県大田原市 永昌元年己丑(689年) 康子年(700年)
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 これらの中で、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同様に、冒頭に年次表記を持つものが(1)(4)(6)(8)(9)で、これを〈α群〉とします。末尾に持つものが(3)(7)で、〈β群〉とします。そして、文章の途中や末尾付近に年次表記が記されている中間型の(2)(5)を〈γ群〉とします。

 次に、銘文中に見える、あるいは想定される権力者(上位者)は次のようです。

(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 これらの銘文は、九州王朝系表記様式と思われる〈α群〉が過半数である反面、8世紀の大和朝廷時代(日本国)の木簡の一般的な年次表記様式と同じ〈β群〉の上位者が近畿天皇家であることが注目されます。すなわち、近畿天皇家系の金石文は7世紀段階で既に年次表記が末尾にあるのです。

 ところが年次表記が冒頭にある〈α群〉の(9)那須国造碑は、上位者が「飛鳥浄御原大宮」とあり、異質です。これは王朝交代直前(700年)の石碑であることと、近畿地方から遠く離れた栃木県の金石文であることが影響しているように思います。何よりも「永昌元年」という唐の年号を使用していることに、碑文作成者(那須国造)の政治的配慮(上位者である飛鳥浄御原大宮への配慮として九州年号は使用しないが、唐の年号を使用することにより自らの立ち位置を表現した)が感じられるのです。この碑文は、王朝交代時の微妙な政治状況の現れと思われます。(つづく)


第3085話 2023/07/31

王朝交代の痕跡《木簡編》(4)

 九州王朝時代の上部空白型干支木簡

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えた元岡桑原遺跡出土「大宝元年」木簡により、九州王朝中枢領域の役人たちは、年次特定のために年干支と年号を併用するという表記スタイルを理解していたことを疑えません。しかし、九州年号が採用されていた時代〔継体元年(517年)~大長九年(712年)、『二中歴』による〕の木簡には年干支のみを記し、九州年号を記したものはありません。木簡の出土事実を見る限り、そう言わざるを得ないのです。そこでわたしは、九州王朝は使い捨てされる木簡に王朝の象徴でもある年号の使用を忌避したのではないかと考えたわけです。すなわち、木簡への年号記載を敢えてしなかったのです。

 この推論を支持する木簡が存在します。それは、目的地に着けば使い捨てられる荷札木簡ではなく、記録文書としての役割を持ち、一定期間保管されたであろう文書木簡と呼ばれるもののなかにありました。荷札木簡の場合、木簡の最上部から年干支が記されるのですが、文書木簡には上部に空白部分を残し、木簡の途中から年干支が記されるものがあることに、わたしは気付きました(注①)。管見では次の木簡です(注②)。

【木簡番号11】 難波宮跡出土
「・「□」○『稲稲』○戊申年□□□\○□□□□□□〔連ヵ〕」
「・『/〈〉/佐□□十六□∥○支□乃□』」
※戊申年は648年。紀年銘木簡としては最古。(古賀注)

【木簡番号1】 芦屋市三条九ノ坪遺跡出土
「・子卯丑□伺」
「・○元壬子年□」
※壬子年は652年。「木簡庫」では「三壬子年」とするが、筆者が実見したところ、「元壬子年」であった(注③)。紀年銘木簡としては2番目に古い。(古賀注)

【木簡番号185】 飛鳥池遺跡北地区出土
「・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)」
「・○□\○□」
上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。(奈文研「木簡庫」の解説)

 これら三点の木簡に共通していることは、いずれも荷札木簡ではなく、冒頭の年干支の上部に数文字分の空白があることです。現状の姿は、干支の上部に「稲稲」や「合合」の文字があるため、当初、わたしはそこが空白であったことに気付きませんでした。しかし、報告書などによれば、それらは後から書き込まれたもの(習字)であり、本来は空白だったのです。

 なかでも、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、元年を意味する「元」の文字があり、この「元壬子年」が九州年号の白雉元年壬子(652年)であることを示しており、「九州年号木簡」の一種とも言えるものです。従って、九州年号「白雉」が入るべきスペースとして意図的に上部に空白を設けたと思われるのです。同様に「戊申年」の上部には九州年号「常色二年」(648年)、「庚午年」の上部には「白鳳十年」(670年)の文字が入るべきものだったのです。
しかし、実際には空白スペースとなっていることから、九州年号を木簡に記すことを憚ったと考えるほかないように思われます。紙とは異なり、狭小なスペースしかない木簡ですから、不要な空白、しかも冒頭部分にいきなり空白スペースを設ける合理的な理由は見当たりません。文章末尾に結果として〝余白〟が生じるのならまだしも、いきなり冒頭部分に無意味な空白スペースを設けることは考えにくいのです。こうしたことから、九州王朝では木簡に年号を記すことを〝行政命令(格式)〟で全国一律に規制したとする仮説に至りました。そうとでも考えなければ出土木簡の史料事実(九州年号皆無)を説明できませんし、上部空白型干支木簡の合理的説明も困難ではないでしょうか。
それでは、木簡以外の金石文ではどうだったのでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」460話(2012/08/29)〝九州年号改元の手順〟
同「洛中洛外日記」1385話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟
同「洛中洛外日記」1961話(2019/08/12)〝飛鳥池「庚午年」木簡と芦屋市「元壬子年」木簡の類似〟
同「前期難波宮出土「干支木簡」の考察」『多元』157号、2020年。
奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」
③古賀達也「木簡に九州年号の痕跡─『三壬子年』木簡の史料批判─」『古田史学会報』74号、2006年。
同「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第3084話 2023/07/30

王朝交代の痕跡《木簡編》(3)

―年次表記、木簡冒頭から末尾へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える年次表記の干支から年号への変更があるのですが、その表記位置(書式)にも変化が生じています。700年以前の九州王朝時代は木簡の表側の冒頭に干支が書かれ、その後に文章が続きますが、701年以後の大和朝廷の時代になると、文章の末尾に年号、あるいは年号+干支で年次が書かれるようになります。わたしはこの変化も王朝交代の重要な痕跡と考えています。この具体例として藤原宮出土木簡を紹介します(注①)。

《七世紀、九州王朝(倭国)時代の木簡》
【木簡番号1408】藤原宮跡東方官衙北地区
「庚子年三月十五日川内国□〔安ヵ〕→」 ※庚子年(700年)。
上端削り、下端折れ、左辺割りのまま、右辺二次的割りか。「庚子年」は文武天皇四年(七〇〇)。「川内国安」は、『和名抄』の河内国安宿郡にあたる。
【木簡番号146】藤原宮跡北面中門地区
「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」 ※庚子年(700年)。
庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

《八世紀、大和朝廷(日本国)時代の木簡》
【木簡番号1409】藤原宮跡東方官衙北地区
「・○□・□○慶雲元年七月十一日」 ※慶雲元年(704年)。
上下両端切断か、左辺削りか、右辺二次的割り。
【木簡番号1216】藤原宮跡東方官衙北地区
「□大贄十五斤和銅二年四月」 ※和銅二年(709年)。
上下両端折れ、左辺割れ、右辺削り。下端右部は切り込みの痕跡をとどめるか。

 このように木簡製造年次の記載位置が、木簡の冒頭から末尾へと大きく変化しています。両者の年次記載位置が王朝交代により一斉に変化している事実から、新旧王朝が定めた記載ルール(書式)に全国の担当役人が従っていたと考えざるを得ません。大和朝廷時代の木簡に年号が使用されるようになったのは、大和朝廷による新ルール「大宝律令」儀制令に従ったものと思われ、その条文は恐らく次の『養老律令』儀制令と同様と考えられています。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

そして王朝交代直後、新旧両書式の移行途中に生じたと思われる表記が、元岡桑原遺跡出土の「大宝元年」木簡に見えます。

《701年、元岡桑原遺跡の「大寶元年辛丑」木簡》
〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注②)。

 この木簡は、九州王朝時代の書式である木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えたものです。王朝交代直後(大宝元年十二月)の九州王朝中枢領域(筑前国)で、こうした中間的な書式が成立した背景には、九州王朝書式の伝統と、九州年号使用の実績があったからではないでしょうか。ちなみに、大和朝廷による大宝年号の建元はその年の三月と『続日本紀』に記されていることから、その九ヶ月後にこの木簡が作成されたことになります。(つづく)

(注)
①奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」。
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3083話 2023/07/29

王朝交代の痕跡《木簡編》(2)

 ―「干支」木簡から「年号」木簡へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える行政単位の全国一斉変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)こそ、代表的なエビデンスと指摘しました。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれにとどまりません。701年を境にして、ほぼ全国一斉に紀年表記が変更されています。すなわち干支から年号へ、あるいは年号+干支への変更です。

 荷札木簡を中心に、その発行年次の表記方法が700年までは年干支が採用されていますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると年号が使用されるようになります。その最初の例が福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した「大寶元年」(701年)木簡です。同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士し、その「大寶元年」木簡には次の文字が記されていました(注①)。

〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴(黒毛馬胸白)を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。

 同遺跡出土木簡については既に「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、王朝交代直後の701年(大宝元年、九州年号の大化七年に相当)に前王朝の中枢領域内(福岡市西区)で、新王朝が建元したばかりの大宝年号が使用されていることから、九州王朝から大和朝廷への王朝交代は、事前に周到な準備を経て、全国一斉になされたことがこれらの木簡からわかります。
このような木簡での年号使用は評から郡への変更と共に、ほぼ同時期に全国一斉に行われていることから、恐らく「大宝律令」儀制令の規定に基づくものと考えられます(注③)。

 他方、700年以前の九州王朝時代の木簡では、製造年次の特定方法として例外なく干支が用いられています。同じ元岡桑原遺跡出土木簡を一例として紹介します。

壬辰年韓鐵□□

※□は判読不明文字。「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされる(注④)。この年は九州年号の朱鳥七年に当たる。

 九州王朝時代は九州年号があるにもかかわらず、例外なく干支表記が採用されていることから、九州王朝は使い捨てされる木簡に、王朝の象徴でもある年号を使用することを規制したのではないかとわたしは考えています。もし、九州王朝律令あるいは行政命令(格式)にこうした規制条項がなく、全国の担当役人全員が、たまたま荷札に九州年号を使用せず干支だけを使用した結果とするのは、あまりに恣意的な解釈と言わざるを得ません。この出土事実を〝偶然の一致〟とするのではなく、九州王朝の国家意思が徹底されたことの痕跡と捉えるべきです(注⑤)。その〝証拠〟が木簡に遺されていました。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
③『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。
「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。
ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
④『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)〟
この拙稿に対する次の批判がある。
阿部周一「『倭国年号』と『仏教』の関係」『古田史学会報』157号、2020年。