九州王朝(倭国)一覧

第3220話 2024/02/08

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (6)

前期難波宮(大阪市中央区法円坂)がある大阪上町台地北端部に、古墳時代(五世紀)の十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群なのですが、難波津からその倉庫へ物資を運ぶ通路や当地域の建物跡は正方位ではありません。
難波津の位置については、倉庫群や前期難波宮の北西~西部にあったとされており、三津寺説、高麗橋説が有力視されています(注①)。松尾信裕氏による「上町台地西裾から堺筋付近」とする見解もあります(注②)。いずれも大阪市中央区にあり、船で運んだ物資を陸揚げするのに、法円坂倉庫群・難波宮と適切な位置と距離にあります。また、「難波津」と称するからには、「難波宮」の近傍にあるのは当然のことでしょう。
近年では「難波津」高麗橋説が考古学的出土状況から最有力視されているようで(注③)、そこから法円坂倉庫群に至る通路とその地域の建物跡について次のように解説されています(注④)。

〝上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。(中略)傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。(中略)
ではなぜ北西地域に倉が多いかであるが、ここは5世紀には法円坂遺跡、7世紀後半には前期難波宮の西方官衙と、他の時期は大規模な倉庫群が置かれた場所であった。(中略)北から本町谷と大手前谷の間を通り(尾根道)、現大阪府警東の上町筋から台地中央(官衙地域)を目指せば、最短距離のルートは自ずと北西→南東となる。地形の制約からこれ以外の道は合理的でない。
北西地域の建物群は、約150年間(5世紀~6世紀中頃)、北西―南東または北北西―南南東を向いている。地形に合わせたというよりも、近くを通る道に会わせたためと考えられる。〟

難波津から中央の官衙までの最短距離の道に合わせた建物群が道と同じ方向を向いていることは理解できますが、五世紀の法円坂倉庫群が真東西方位で建造されていながら、七世紀初頭(倭京二年・619年)に創建された難波天王寺(現・四天王寺)は北方向が4度西偏していることは不審です。その後、九州年号の白雉元年(652年)に造営された前期難波宮や朱雀大路は正方位で造営されており、こうしたわずかな方位のぶれがなぜ発生したのか、今のところよくわかりません。
法円坂倉庫群も西側十棟は正方位ですが、東側六棟は2度ほど西偏しており、その造営尺は、西側で一尺23.9cm前後、東側で同じく24.4cm前後であることから、一尺が時代と共に長くなるという傾向から判断しても、より新しい東側倉庫群が西偏しています。
このように上町台地上の大型倉庫群や道路・条坊の方位の変遷は概ね「東西・南北」正方位の範囲内と言えないことはありませんが、微妙なぶれの発生理由解明は今後のテーマです。

(注)
①南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
②松尾信裕「古代難波の地形環境と難波津」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年。
③ウィキペディアの「難波津」の項には次の説明がある。
「難波津の位置
難波津が、具体的に現在の大阪市のどのあたりに位置していたのか、長い間論争が続いている。現在では、有力なものとして中央区三津寺町付近とする千田稔の説と、同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義の説がある。前者の三津寺説は、同寺にまつわる伝承や「三津寺」「堀江」などの名称に根拠を置くものであるが、今のところ、現在の心斎橋筋付近で古代の港湾遺構が発見されていないのが弱点となっている。他方、高麗橋説については考古学的な傍証の例が豊富で、近年では、上町台地北端部の西斜面から麓にかけて、古墳時代から奈良時代、さらに室町時代に至るさまざまな時代の港湾関係の遺構が集中的に見つかっていることから、上町台地北端部西麓にあたる現在の東横堀川・高麗橋周辺が、歴史上の難波津として最有力な地点ではないかと広く考えられるようになっている。」
④同①。


第3219話 2024/02/07

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (5)

巨大条坊都市の設計・造営において、「東西・南北」正方位の概念・政治思想と、それを実現できる技術を、七世紀初頭から前半の九州王朝(倭国)が有していたことは確かなことと思います。さらに、太宰府条坊都市(倭京)に次いで古い難波京(前期難波宮)は九州王朝の複都の一つとわたしは考えていますが、当地には五世紀に遡る「東西」正方位の遺構があります。それは古墳時代最大の倉庫群、法円坂遺跡です。
前期難波宮内裏西側にあたる位置から出土した同遺跡は、十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群です。東側六棟もほぼ東西正方位であり、誤差は2度程度です。植木久『難波宮跡』(注①)には、次のように説明されています。

〝建物の全体配置計画にも、特筆すべき点がある。一六棟の建物が規則的に配置されていることは先に述べたが、これの配置計画に基準尺が用いられていることと、真東西の方向性が意識されていることである。
基準尺が採用された可能性については、発掘報告書に詳細な検討内容が記されているが、これによると建物西群で一尺二三・九センチ前後、建物東群で同じく二四・四センチ前後で配置計画がなされているというものである。これらの尺度は五世紀よりもやや古い時期の中国尺(中略)に近似する数値であり、注目される。わが国の建築(群)で確実に基準尺が用いられた可能性のあるものとしては、法円坂遺跡の例は最も古い例であろう。(中略)
また西群の建物方位が正確に真東西に揃っていることは重要である。(中略)西群の測量技術の正確さは特筆されるものであり、このように真東西(南北)の方向性を意識した配置計画および施行は、確実なものとしてはわが国で最初のものであろう。〟同書17~18頁

この法円坂倉庫群は、一棟あたりの面積が90㎡もの大規模なもので、十六棟ともなると計1400㎡以上であり、同時代の倉庫群としては破格の規模です。「古田史学の会」でも講演していただいた南秀雄さんは「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注②)で次のように指摘しています。

「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した。」
「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている。」
「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」

古墳時代最大規模の法円坂倉庫群は、九州王朝の倭王武による東方侵出の拠点とわたしは推定していますが、こうした東方侵出の拠点(王権の最重要の出先機関)が五世紀の難波にあったからこそ、七世紀になると九州王朝は難波天王寺(現・四天王寺。倭京二年・619年、『二中歴』年代歴)や難波京(前期難波宮。白雉元年・652年、『日本書紀』の白雉三年)を当地に造営できたのではないでしょうか。
同倉庫群建築に東西正方位の測量技術や基準尺を採用していることを考えると、この仮説は南さんの疑問点「法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない」に応えられるものであり、「倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる」とする推定にも整合するのです。(つづく)

(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。


第3217話 2024/02/05

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3)

 九州王朝(倭国)がいつ頃から正方位を意識し、正確に正方位を確定することができたのでしょうか。このことについて、今までも論議や検討を続けてきましたが、技術的課題については一応有力な見解に到達しています。既に先行研究もあり、各分野では常識となっていると思いますが、東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。

 こうした観測技術により、「東西・南北」正方位を決めることができますが、実際にそうした技術を用いた痕跡(遺構)も発見されています。たとえば、福岡県春日市の日拝塚古墳(六世紀中頃の前方後円墳)が有名です。『春日風土記』(注①)には同古墳を次のように説明しています。

 「下白水本村の南と北に、二つの大型古墳があります。日拝(ひはい)塚と大塚です。
南西約五〇〇メートルの河岸段丘上にある日拝塚古墳は、墳丘の長さ三四メートル、基壇を入れると四七メートル。周溝を備えた前方後円墳で六世紀中ごろの築造、儺県の首長墓とみられています。
墳丘は正しく東西方向を示し、春秋の彼岸の頃には、主軸の延長上にある筑紫野市の大根地山頂に日の出を拝することができるといわれ、この古墳の呼称の由来となっています。」103頁

 このような説明があり、大塚古墳も東西方向を向いているとのことです(正方位かどうかは未詳)。太宰府の近傍に東西正方位を主軸に持つ六世紀中頃の古墳が存在することから、遅くともこの時代には東西正方位を意識し、観測により緯線を確定する技術があったことがわかります。

 南北正方位については、太宰府条坊都市の右郭中心部の扇神社(王城神社)は、真北(北極星)と真南の基山山頂(基肄城)を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基山山頂はランドマークの役割を果たしたとする説が、井上信正さん(注②)により発表されています。すなわち、条坊都市の右郭中心に宮殿(王城神社の地。小字「扇屋敷」)を置き、その位置決定に北極星と南の基山山頂を結ぶラインを採用し、それを政庁Ⅰ期時代の「朱雀大路」(政庁Ⅱ期時代の右郭二坊路に相当)にしたと思われます。
以上の例から、九州王朝では東西正方位ラインの設定は古墳時代には技術的に可能であり、南北正方位ラインは太宰府条坊都市の設計において採用されていますので、「東西・南北」正方位の太宰府条坊都市造営を可能とする測量技術は、遅くとも六世紀中頃にはあったと考えて問題ないと思われます。(つづく)

(注)
①春日市郷土史研究会編『春日風土記』春日市教育委員会、1993年。
②井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市研究 17号』条里制・古代都市研究会、2001年。
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588号、2009年。


第3216話 2024/02/04

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (2)

 古代遺構で「東西・南北」正方位を持つもので、一元史観の通説も含めて造営年代が早いものに、前期難波宮と同条坊遺構があります。九州年号の白雉元年(652)に創建された前期難波宮は、南北正方位で朝堂院様式を持ち、当時、列島内最大規模の宮殿です。その南門から真南に延びる朱雀大路も南北正方位で、同じく真南に伸びる「難波大道」に繋がっています。ところが前期難波宮に先立ち、倭京二年(619)に創建(注①)された難波天王寺(現・四天王寺)は南北軸が4度西偏しており、正方位ではありません(注②)。

 わたしは難波天王寺も前期難波宮も九州王朝(倭国)による造営と考えていますから、九州王朝は当地において「東西・南北」正方位の建築を採用したのは、白雉元年(652)頃からと考えることができます。そうすると、太宰府政庁Ⅰ期と同条坊都市が「東西・南北」正方位で造営開始されたのは、七世紀前半とする理解が可能となります。もちろん、九州王朝の中枢領域では更に早く「東西・南北」正方位での造営を開始した可能性もありますが、今のところそれを裏付ける確実なエビデンスを知りません。(つづく)

(注)
①『二中歴』年代歴に「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とある。創建瓦の編年により、大阪歴博では620年頃の創建とする。
②古賀達也「九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道―」『古田史学会報』146号、2018年。
同「洛中洛外日記」1774話(2018/10/19)〝創建四天王寺の4度西偏〟


第3215話 2024/02/03

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (1)

 昨日の「多元の会」リモート研究会の終了後、参加されていた黒澤正延さんと意見交換を行いました。そのとき黒澤さんから、太宰府条坊都市の造営年代を七世紀初頭以前にできないかとの質問がありました。

 太宰府条坊は政庁Ⅰ期と同時期の造営とされ、その暦年は従来の通説では大宰府を大宝律令により定められた地方の役所とするため、創建年代は八世紀初頭とされてきました。しかし、近年では井上信正説(注①)の登場により、藤原京と同時期の七世紀末頃とする説が有力視されつつあります。

 わたしは文献史学の研究により、太宰府条坊都市の創建を九州年号の倭京元年(618)(注②)、政庁Ⅱ期の創建を観世音寺が創建された白鳳十年(670)頃(注③)と考えています。従って、大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市は七世紀第1四半期から前半にかけての創建・造営となるのですが、考古学的には整地層から出土する須恵器坏Bの編年により、七世紀末頃(第4四半期)とする井上説も有力なのです。そこで、須恵器坏Bの発生が九州王朝(倭国)の王都太宰府で始まり、太宰府出土の初期段階の坏Bは通説の編年より20~30年早く、七世紀前半に遡るとする仮説を提起しています(注④)。

 黒澤さんの質問に対して、こうした土器編年の問題があるため、七世紀初頭以前まで遡るとするのはさすがに無理があると説明しました。そして、「東西・南北」正方位の条坊都市の成立を七世紀初頭以前にまで古くするのは、同時代に「東西・南北」正方位遺構の出土例がなく、やはり困難ではないかと述べました。(つづく)

(注)
①太宰府条坊都市の成立は政庁Ⅱ期や観世音寺の創建に先行することを考古学的に証明した井上信正氏(太宰府市教育委員会)の説。
②古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。
③古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
④古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2022年。


第3212話 2024/01/30

「俾弥呼(ひみか)の墓」の最有力候補、

     「須玖岡本山」の新情報

 今年、福岡市(九州古代史の会)と京都市(古田史学の会)において、「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」というテーマで講演しました。その内容は、俾弥呼(ひみか)の墓の最有力候補地は、春日市の須玖岡本遺跡にある熊野神社社殿の下とするものです。当地の旧地名は須玖村・大字岡本・小字山であり、この小字名「山」が、邪馬壹国の「邪馬」の淵源とする古田説も紹介しました。その上で、熊野神社の立て替えなどがあれば、その地を金属探知機で調査して欲しい、できれば関係者に発掘調査をはたらきかけてほしいと、講演で参加者にお願いしました。

 そうしたところ、福岡市での講演会に参加された鹿島孝夫さん(古田史学の会・会員)から須玖岡本遺跡の思い出や近年の調査状況についての情報が届きました。メールの関係部分を要約して転載します。

【以下、要約転載】
古賀様
もう十年以上前から古田史学の会に参加させて頂いているのですが、ずっと受け身で会報や書籍を楽しみに読むに留まっていたのですが、九州古代史の会に最近入会しました。古賀さんの卑弥呼の墓の話は特に興味深く拝聴させて頂きました。

 何故かと言うと私は須玖岡本遺跡のすぐ前にある春日北小学校の出身でして、いつの頃かその小学校のグラウンドの下には卑弥呼の宮殿が埋まっていると言う話を聞いていたからです。先日久しぶりに「奴国の丘歴史資料館」を訪ねましたら、その小学校のグラウンド下を近く発掘する計画があり、事前のレーダー探索で大きな建物があるのが分かっているそうです。まあ、ただの倉庫かもしれませんし、例え宮殿跡が出てきても奴国王の宮殿とされるのでしょうが、二、三年後になるかもしれませんが発掘結果を楽しみにしています。

 私は関西在住も長かったので友人も関西に多く、出来れば古田史学の会の関西例会に一度は顔を出したいと思っています。その際は宜しくお願いします。
鹿島孝夫
【転載おわり】

 このように大変興味深く重要な情報でした。その後のメールでご教示いただいた、春日市による市民向け須玖岡本遺跡調査報告(奴国かわら版)を読んだのですが、「俾弥呼(ひみか)の墓」周辺の調査が進んでいることを知り、驚きました。(つづく)

______________________________

新春古代史講演会 2024年1月21日(日)
第一講演13:40〜15:00

正倉院花氈の素材の定説がくつがえる
— それはカシミヤではなくウールだった 本出ますみ

第二講演15:10〜16:30

吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓
―国内史料に見える卑弥呼伝承 古賀達也


第3208話 2024/01/26

志賀海神社、七夕大祭の白龍伝説

志賀島を「龍の都」と詠う〝名にしほふ龍の都〟(注①)の由来を探したところ、志賀海神社の七夕大祭の縁起に「白龍」伝承があることを見いだしました。志賀島の行事や歴史を紹介した『志賀島の四季』(注②)に次の記事がありました。

「七夕大祭は六、七日と二日間のにぎわいで、(中略)神社の七夕縁起は星にかかわりはない。朱雀天皇の代(九三一~九四六年)に干ばつがあり、みかどは「照龍」の額を志賀海神社にささげて祈願すると、境内横を流れる竜大川(いまは天竜川と呼ぶ)から白龍が天に昇り、雨が降った。それが七月七日だった。いらい毎年祈念の祭りが行われている。朱雀帝筆の額は社宝として今も保存されている。〟212~213頁

この伝承が「龍の都」と関係するのではないかとする見解もあるようですが、この朱雀天皇伝承について他に史料根拠も見えず、雨乞いで龍が現れ、雨が降ったという伝承も史実とは考えにくく、また雨乞いが起源となって、その地を「龍の都」と呼ばれるのであれば、全国各地が「龍の都」だけらけになりかねません。しかし、そうしたこともなさそうですから、むしろ、当地が昔から「龍の都」と呼ばれていたので、こうした「白龍」伝説が誕生したのではないでしょうか。もしかすると、九州年号の「朱雀」年間(684~685年)に志賀海神社で雨乞いが行われたという伝承が、「朱雀天皇」の頃の雨乞いとして伝えられたのではないでしょうか。それにしても不思議な伝承です。

(注)
① 「名にしほふたつの都の跡とめて なミをわけゆくうミの中道 (細川)玄旨」『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』「東区志賀海神社文書 九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」、191頁。福岡市史編集委員会、平成二二年。
②森山邦人・光安欣二『志賀島の四季』九州大学出版会、1981年。


第3204話 2024/01/19

〝名にしほふ龍の都〟の由来

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』に次の細川幽斎(藤孝)の和歌が掲載されています(注①)。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつ(龍)の都」と呼ばれていたことがうかがえます。

 「名にしほふ、たつ(龍)の都」とあることから、〝あの有名な「龍の都」という名前〟の〝跡をとめて〟、〝波をわけ行く海の中道〟という意味と解せます。
細川幽斎(1534~1610年)は戦国武将であり、当時一流の歌人としても知られています。その幽斎が志賀島を訪れたときにこの和歌を詠んだとされていることから、当地が「龍の都」と呼ばれていたことを前提としてこの和歌が詠まれたと考えざるを得ません。しかし、この和歌以外に志賀島が「龍の都」と呼ばれていた史料が見つかりません。例えば『万葉集』には志賀島を歌ったものがありますが、その地を「龍の都」とするものは見えません。

 この和歌の〝名にしほふ龍の都〟の一節から、『古今和歌集』や『伊勢物語』の次の和歌を思い出しました。

「名にし負はば いざ事問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
(『伊勢物語』九段、『古今和歌集』にも収録)

 この歌は在原業平の作と伝えられており、「都鳥」の名を持つ鳥が詠み込まれています。通説ではこの都鳥をユリカモメとしますが、当時、平安京(京都)にユリカモメはいなかったと考えられています。そこで、冬になると博多湾岸に飛来する千鳥科の都鳥のこととする説をわたしは発表しました(注②)。細川幽斎の「龍の都」、在原業平の「都鳥」、そして「漢委奴国王」金印、これら全てが博多湾の志賀島という接点を有しており、それは偶然の一致ではなく、九州王朝の都が当地にあった痕跡と思われます。(つづく)

(注)
①『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』「東区志賀海神社文書 九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」、191頁。福岡市史編集委員会、平成二二年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1550話(2017/12/08~)〝九州王朝の都鳥〟
同「洛中洛外日記」2231~2258話(2020/09/15~10/11)〝古典の中の「都鳥」(1)~(5)
同「古典の中の「都鳥」考」『九州倭国通信』202号、2021年。


第3200話 2024/01/15

志賀島は〝たつの都〟

 昨日は九州古代史の会の月例会で講演させていただきました。テーマは「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」と「九州年号金石文・棟札の紹介」です。会場のももち文化センターで50名ほどの参加者に聞いていただきました。発表の概要については同会機関紙『九州倭国通信』に投稿予定です。

 当地へは前日(13日)に入りましたが、大学受験期間と重なり、福岡市内のホテルが満室のため、新幹線で一駅手前の小倉で一泊しました。当日は会場近くの藤崎駅に三時間ほど早く到着しましたので、隣接する図書館で郷土資料を閲覧しました。同会の講演会に参加するときは、この図書館で時間待ちを兼ねて当地の歴史資料を読むことにしており、数々の知見に触れることができ、重宝しています。今回も思わぬ「発見」ができました。

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』(福岡市史編集委員会、平成二二年)という分厚い本を読んでいたら、次の不思議な和歌に目がとまりました。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 同書「東区志賀海神社文書」191頁に見える「九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」で、「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつの都」と呼ばれていたことを示唆しています。

 わたしはこの和歌のことを初めて知ったのですが、当地が「たつの都」と呼ばれていたなどとは全く知りませんでした。当然、九州王朝説の視点に立てば、九州王朝の都がこの領域にあった時代(邪馬壹国時代から古墳時代前期頃)がありますから、当地がその時代に「たつの都」と呼ばれていた可能性があることに、理屈の上ではなります。そこで、細川幽斎の和歌以外の史料に同様の痕跡が遺されていないかWEB検索しましたが、この和歌以外にはヒットしませんでした。

 本件については調査を続けますが、実は九州王朝の都の名前はほとんど分かっていません。卑弥呼の都が博多湾岸(中枢領域は比恵那珂遺跡・須玖遺跡)の邪馬壹国にあったことは倭人伝に見えますが、その都が何とよばれていたのかは未詳です。七世紀初頭には、『隋書』俀国伝に「都於邪靡堆」とありますが、「邪靡堆(ヤヒタイ)」が都の名称ではなく、地名の可能性も高く、断定出来ません。七世紀前半には太宰府条坊都市が成立したと考えられ、九州年号の「倭京」(618~622年)の存在から、同都市は「倭京」と呼ばれていたと理解できますが、それを和訓で何と呼んでいたのかは諸説あり、検討が必要です。古田説では「倭」を「ちくし」と理解していますから、「ちくしの京(みやこ)」と呼ばれていたとすることもできそうです。七世紀中頃(652年)には、両京制(注)を採用した九州王朝の東都「難波京(前期難波宮)」が造営されており、恐らく「なにわの都」と呼ばれていたと推定しています(太宰府条坊都市は「西都」)。

 他方、大野城から出土した木柱に「孚石都」と読める文字が刻まれていることから、その読解が正しければ、大野城下に広がる太宰府条坊都市が「うきいしの都」と呼ばれていたかもしれません。また、この刻字を「孚右都」と読む説を飯田満麿氏(古田史学の会・元副代表、故人)が発表しています。それであれば、「ふゆの都」と読めそうです。

 このように、九州王朝(倭国)の都の名前の候補として、「たつの都」(龍の都)について研究したいと思います。九州王朝の故地にはまだまだ多くの九州王朝の痕跡や史料が眠っているのではないでしょうか。

(注)隋や唐が長安(西都)と洛陽(東都)の両京制を採用した時期があり、その制度に倣って、九州王朝(倭国)は天孫降臨以来の「伝統と権威の都」として筑前太宰府に「西都」を、評制による全国支配を行うための「権力の都」として難波に「東都」を置く、両京制を採用したとする仮説をわたしは次の論稿で発表した。
○「洛中洛外日記」2675話(2022/02/04)〝難波宮の複都制と副都(4)〟
○「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
○「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」 『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』二六集、二〇二三年)
○「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、二〇二三年。


第3198話 2024/01/09

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (3)

 卑弥呼=ヒミカ説の濫觴(らんしょう)

 『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』は、当時(昭和四十年頃)の邪馬台国論争の状況・諸説を要領よく紹介されており、勉強になりました。同時に著者による自説の紹介もあるのですが、その中で邪馬壹国の女王、卑弥呼の訓みを「ヒミカ」としており、驚きました。卑弥呼=ヒミカ説は古田先生も発表されていますが、その濫觴(らんしょう)が松本清張氏だったことを知りました。松本氏の論旨は次のようです。

 〝そこで、私は「卑弥呼」も「台与」も、「卑弥弓呼素」(そう読むとして)も、やはり地名からきている名ではないかと思うのである。
そう考えるなら、卑弥呼は「ヒミカ」と訓んでもよさそうである。
「呼」の正確な訓みようはない。大森説では前記のように「ヲ」をあげているが、八世紀の読み方を私はあまり信用しない。通説では「コ」と訓んでいるが、あるいは「カ」という音を写した文字かも分からないのである。「ヒミカ」と訓んでも「ヒミコ」と訓んでも同じような気がする。
もし「ヒミカ」なら、すなわち「ヒムカ」(日向)になる。つまり卑弥呼は日向にいた巫女かもしれないのである。「ヒムカ」といっても八世紀に区分された日向国ではない。当時の九州のどこかにヒミカといわれる土地があったのではあるまいか。〟83頁

 このように、松本説は「ヒミカ」地名淵源説とでもいうべきものです。一つの解釈(作業仮説・思いつき)としては成立していますが、そう考えざるを得ない(他の仮説は成立しない)、あるいは他の仮説よりも有力とする〝論証の末に成立した仮説〟とまでは言い難いものです。

 この点、古田先生のヒミカ説は次のような論証と傍証により、他の説よりも優れた仮説として成立しています。松本説との違いは、学問の方法(論証の優越性とエビデンスの確かさ)に関することであり、この点重要です。

 〝俾弥呼(注①)の訓み

 では、この「俾弥呼」の“訓み”は何か。これは、通説のような「ヒミコ」では「否(ノウ)」だ。「ヒミカ」なのである。このテーマについて子細に検証してみよう。

 第一に、「コ」は“男子の敬称”である。倭人伝の中にも「ヒコ(卑狗)」という用語が現れている。「対海国」と「一大国」の長官名である。この「コ」は男子を示す用語なのである。明治以後、女性に「~子」という名前が流行したけれど、それとこれを“ゴッチャ”にしてはならない。古代においては女性を「~コ」とは呼ばないのである。

 第二に、倭人伝では、右にあげたように「コ」の音は「狗」という文字で現している。だから、もし「ヒミコ」なら「卑弥狗」となるはずである。しかし、そのような“文字使い”にはなっていないのである。

 「ヒミカ」とよむ

 では、「俾弥呼」は何と“訓む”か。――「ヒミカ」である。

 「呼」には「コ」と「カ」の両者の読み方がある。先にのべたように、「コ」の“適用漢字”が「狗」であるとすれば、こちらの「呼」はもう一方の「カ」音として使われている。その可能性が高いのである。
「呼(カ)」とは、何物か。“傷(きず)”である。「犠牲」の上に“きずつけられた”切り口の呼び名なのである。中国では、神への供え物として“生身の動物”を奉納する場合、これに多くの「切り口」をつける。鹿や熊など、“生き物”を神に捧げる場合、“神様が食べやすい”ようにするためである。それが「呼(カ)」である。古い用語である。そして古代的信仰の上に立つ、宗教的な用語なのである。「鬼道に事(つか)えた」という、俾弥呼にはピッタリの用語ではあるまいか。

 「ヒミカ」の意味

 「ヒミカ」とはどういう意味か。
「ヒ」は当然「日」、太陽である。次の「ミカ」は「甕」。“神に捧げる酒や水を入れる器”である。通例の「カメ」は、人間が煮炊きする水の入れ物である。日用品なのである。これに対して「ミカ」の場合、“神に捧げるための用途”に対して使われる。こちらの方が「ヒミカ」の「ミカ」である。

 すなわち、「太陽の神に捧げる、酒や水の器」、それが「ヒミカ」なのである。彼女の「鬼道に事(つか)える」仕事に、ピッタリだ。「鬼道」とは、あとで詳しくのべるように「祖先の霊を祭る方法」であり、それに“長じている”女性が俾弥呼だったのである。〟(注②)

 松本氏のヒミカ地名起源説よりも、古田先生のヒミカ論が際立っている。このことがご理解いただけるのではなないでしょうか。(おわり)

(注)
①『三国志』倭人伝では「卑弥呼」の字が使われ、本紀では「俾弥呼」が使われている。古田説では「俾弥呼」が本来の用字、すなわち自署名とする。
②古田武彦『俾弥呼』ミネルヴァ書房、平成二三年(二〇一一)。


第3180話 2023/12/13

律令に遺る多元的「天皇」号 (3)

 九州王朝時代の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えているのですが、大和朝廷の律令にもその痕跡が遺っていることに気づきました。『養老律令』儀制令の次の条文中に見える「太上天皇」です(注①)。

『養老律令』儀制令 天子条
天子。祭祀に称する所。
天皇。詔書に称する所。
皇帝。華夷に称する所。
陛下。上表に称する所。 太上天皇。譲位の帝に称する所。 乗輿。服御に称する所。 車駕。行幸に称する所。

 大和朝廷において、天子・天皇・皇帝・陛下の使い分けを規定した条文です。そこには、譲位した天皇に「太上天皇」という天皇号の使用を認めています。しかし、「太上天子」や「太上皇帝」「太上陛下」という使用は定めず、天皇号にのみ「太上天皇」を認めているのです。すなわち、譲位された天皇と譲位した太上天皇という、複数の「天皇」の併存を律令で想定しているのです。これは不思議な規定であり、七世紀における複数の天皇の併存、すなわち「天皇」は複数いてもよいという政治思想を背景を持つことによるのではないでしょうか。

 ちなみに唐の儀式書『大唐開元礼』(732年成立)には次の規定があります。

『大唐開元礼』巻三、「序例、雑制」
「皇帝。天子。夷夏通じて之を称す。 陛下。対揚咫尺上表通じて之を称す。 至尊。臣下内外を通じて之を称す。 乘輿。服御称するところ。 車駕。行幸称するところ。」

 『養老律令』儀制令に似ていますが、決定的に異なるのは、唐では最高権力者としての皇帝・天子はただ一人で、譲位した前皇帝は〝凡人〟となります。比べて『養老律令』では、太上天皇として権力の座に留まります。後代には、上皇として〝院政〟を行い、ときに天皇を超える権力者として振る舞うこともありました。これはわが国の特徴的な制度であり(注②)、七世紀における九州王朝下の〝天子の臣下としての多元的「天皇」の併存〟に淵源を持つものと思われるのです。

 更に、『大唐開元礼』「序例、雑制」には見えない天皇号の規定を持つことや、皇帝ではなく天子を冒頭に置き、その役割を「祭祀に称する所」に限定していることも注目されます。この点についても検討を続けたいと思います。(おわり)

(注)
①『養老律令』儀制令 天子條【原文】
天子。祭祀所稱。
天皇。詔書所稱。
皇帝。華夷所稱。
陛下。上表所稱。 太上天皇。讓位帝所稱。 乘輿。服御所稱。 車駕。行幸所稱。
②滝川政次郎『律令の研究』(昭和六年、1931年)に同様の指摘があり、本稿執筆に当たり示唆を受けた。


第3177話 2023/12/11

律令に遺る多元的「天皇」号 (2)

 今日は、娘の仕事の日程調整ができたので、定年退職して初めての家族旅行です。城崎温泉に向かう特急きのさき5号の車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 王朝交代(701年)前の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えた理由は、『日本書紀』に見えない天皇名(◎印)を含む次の「天皇」号史料の存在でした。

○用明~推古期(「歳次丙午年」586年) 「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」 法隆寺薬師如来像光背銘(注①。七世紀第4四半期頃の刻字か)
「大王天皇」という古い表現(大王)を持つ表記から、原文の成立は七世紀前半まで遡るものと思われる。

○敏達天皇(572~585年)「乎娑陀宮治天下天皇」 船王後墓誌(注②。戊辰年、668年成立)
墓誌の成立が七世紀第3四半期であり、当時、近畿天皇家は「天皇」号を九州王朝から許されていたことがわかる。

○推古天皇(592~628年)「等由羅宮治天下天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

○舒明天皇(629~641年)「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

◎650・651年 「越智天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年成立) ※『日本書紀』に見えない。
「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像 右袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者」とあり、「越智天皇」は、652年(壬子)に完成した前期難波宮造営に関わった有力者と思われる。『伊予三島縁起』に「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(六四八)、日本国をご巡礼したまう。」という記事があり、伊予国(越智氏の本拠地)から、九州年号の常色二年(684)に難波に番匠(王宮などの造営技術者)を派遣したのが「袁智天皇」ではあるまいか。また、前期難波宮跡から「戊申年」木簡が出土しており、この記事の「常色二年戊申」と関係があるのではないかとする正木裕氏の指摘がある。(注③)

◎661年 「仲天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(同上) ※『日本書紀』に見えない。
同縁起の次の記事に「仲天皇」が見える。
「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺、司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」 ※〔〕内は小字。

 ここに見える「後岡基宮御宇天皇」は斉明、「近江宮御宇天皇」は天智とされる。「仲天皇」は自らを「妾」と称していることから、天智の皇后倭姫王とする説を喜田貞吉は唱えている。

 『養老律令』儀制令皇后条に「皇后・皇太子以下、率土の内は、天皇・太上天皇に上表するときには、臣妾名称すること(「臣」ないし「妾」と自称し、続けて自分の名を言う)。対揚(対面して称揚)するときには、名称すること。皇后・皇太子は太皇太后・皇太后に対して、率土の内は三后・皇太子に対して、上啓するときには、殿下と称すること。自称するときには、みな臣妾とすること。」とある。

◎666年 「中宮天皇」 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注④) ※『日本書紀』に見えない。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇~」の文字が見える。年代や名前から判断して、先の「仲天皇」と「中宮天衲」は同一人物の可能性がある。

○天武期 「天皇」木簡 飛鳥池遺跡(天武期の層位)出土
同遺跡から天武の子ら「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女)木簡も出土しており、この「天皇」は天武と解するのが妥当。

○697年 「大八島国所知天皇」「遠天皇祖御世」「天皇御子」「倭根子天皇命」「天皇大命」「天皇朝廷」 『続日本紀』文武天皇即位の宣命

 これら七世紀の「天皇」号史料によれば、近畿天皇家に限らず、天子の臣下としての「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする仮説(多元的「天皇」の併存)に至ったのです。(つづく)

(注)
①法隆寺薬師如来像光背銘文。
「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
②船王後墓誌銘文。
(表) 「惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
(裏) 「三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自 同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊其牢固永劫之寶地也」
③正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。
④野中寺彌勒菩薩像台座銘文(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」