九州王朝(倭国)一覧

第3003話 2023/05/02

多元的「天皇」併存の新試案 (4)

 九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案により、「袁智天皇」「仲天皇」(注①)、「中宮天皇」(注②)、そして西条市の字地名「紫宸殿」「天皇」など(注③)の説明が可能になると考えたのですが、念のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)に意見を求めました。日野さんは、九州王朝下の役職としての「天皇」がいたのではないかとする構想を持たれていたこともあり、わたしの試案について批評を要請したものです。日野さんの批評は概ね次のようなものでした。

(a) 倭国(九州王朝)の天子は「法皇」であり、その下の役職として「天皇」がいた、というのが私(日野)の仮説なので、その点では古賀説と大きな違いはない。

(b) 「中宮天皇」の用例からも判るように「天皇」は「中宮」クラス、つまり「皇后レベル」の地位であると考えられ、そのような地位の役職に同時に何人もいたとは考えにくい。

(c) 「越智天皇」は越智氏であると思うが、越智氏が世襲していたという根拠は乏しいのではないか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると「難波宮」時代の大和政権の大王(例:孝徳)が「天皇」とは呼ばれておらず、純粋に「難波宮時代は(大和大王家ではなく)越智氏が天皇であった」という解釈も可能である。

 以上の指摘がありました。七世紀の「天皇」銘金石文(船王後墓誌)の三名の天皇に対する捉え方などにも差があり(注④)、(b)(c)については見解がわかれました。まだ、思いついたばかりの新試案ですので、引き続き慎重に検討します。(おわり)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』天平十九年(747)作成。
②野中寺彌勒菩薩像台座銘。
③合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのこと。
④日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。


第3002話 2023/05/01

多元的「天皇」併存の新試案 (3)

七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)にのみ許されていたとする従来の理解では説明しにくい史料情況があります。その最たるものが、愛媛県東部の今治市・西条市に遺存する「天皇」「○○天皇」地名でした。
合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」があり、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、須賀神社祭神は「中河天皇」とのことです。言わば「天皇」だらけなのです。なぜこのような現象が当地域にのみ遺存しているのか、ずっと不思議に思ってきました。〝後代造作〟にしても、度が過ぎていると思ったのです。大和朝廷の時代になってから、そのような地名を造作することが許され、後の世まで伝わるということが果たしてあり得るのでしょうか。
こうした問題意識を持っていたのですが、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「袁智天皇」に解決の糸口を見いだしました。この「袁智天皇」を文字通り袁智(越智)氏が天皇号を称したものではないかと考えたのです。

「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像
右袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢、即請者」『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』

袁智天皇が難波宮に坐していた、庚戌年(650年)冬十月から始め、辛亥年(651年)春三月に造り畢わったという仏像の説明に登場する「袁智天皇」こそ、四国の大豪族で白村江戦にも参戦した越智氏(注①)が天皇号を許されたのではないでしょうか。その理由は次のようです。

(1) 「袁智天皇」の袁智を越智氏のこととする理解は自然で無理がない。
(2) 越智氏は天孫降臨以来の天孫族であることが系図などに記されており(注②)、近畿天皇家と同様に、九州王朝(倭国)配下の有力豪族であり、その臣下としての「天皇」号を許されていたとしても不自然ではない。
(3) 「袁智天皇」が難波宮にいたとする庚戌年(650年)や辛亥年(651年)は前期難波宮の建設時期(創建は652年)であり、「袁智天皇」は前期難波宮建設に関わっていた人物ではあるまいか。この点、『日本書紀』に見える孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではなく、「難波宮」とされていることにも説明がつく(注③)。
(4) そうであれば越智氏の勢力下にある伊予大三島の大山祇神社の『伊予三島縁起』に見える「番匠の初め」「常色二年(648)」の記事と対応する。この記事は「袁智天皇」が前期難波宮造営の番匠を送ったことを伝えたものと解することができる。
(5) 九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではあるまいか。

以上のような理解により、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」を伊予の越智氏のことと考えました。すなわち、九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案です。(つづく)

(注)
①伊豫国越智郡大領の先祖である越智直(おちのあたい)が白村江戦で捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、寺を建立したという説話が『日本霊異記』上巻「兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬し、現報を得る緣 第十七」に見える。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮は、『続日本紀』には「難波宮」とされている。前期・後期難波宮は大阪市中央区法円坂、長柄豊碕は北区豊崎にあり、両者は位置が異なる。


第3001話 2023/04/29

多元的「天皇」併存の新試案 (2)

七世紀(九州王朝時代)での「天皇」号研究を始めてから、いくつもの難題に突き当たっています。その一つが『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲天皇」と「越智天皇」でした。「洛中洛外日記」でも考察の一端を発表しましたが(注①)、未だ自信が持てる仮説提起には至っていません。とは言え、「天皇」史料を概観して、ある試案を思いつきました。七世紀、九州王朝の時代には近畿天皇家に限らず、多元的に「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする作業仮説(多元的「天皇」併存試案)です。

この試案に至った背景には、次の史料事実を多元史観・九州王朝説の立場からは、どのような説明が可能だろうかという問題意識がありました。

(a) 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注②)にある「中宮天皇」は近畿天皇家の天皇とは考えにくく、九州王朝系の女性天皇ではないか(注③)。

(b) 筑紫大宰府の他に「吉備大宰石川王」が『日本書紀』天武紀に見えるが、吉備にも「大宰」を名のることを九州王朝から許された「有力者(石川王)」がいた。そうであれば筑紫大宰と吉備大宰が併存していたことになり、「大宰」という役職が九州王朝下に多元的に併存していたことになる。

(c) 愛媛県東部の今治市・西条市に、「天皇」「○○天皇」地名や史料が遺っている(注④)。管見では、このような情況は他地域には見られず、この地域に「天皇」地名などが遺存していることには、何らかの歴史的背景があったと考えざるを得ないのではないか。

このような疑問に突き当たっていたとき、『大安寺伽藍縁起』の「仲天皇」と「袁智天皇」を考察する機会を得て、多元的「天皇」併存試案であれば説明できるのではないかと気付いたのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
②同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟
同「洛中洛外日記」2332話(2020/12/24)〝「中宮天皇」は倭姫王か〟
④合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのことである。


第2998話 2023/04/27

「九州王朝律令」復元研究の予察 (6)

古田先生は七世紀の九州王朝律令について、次のように考察しています(注)。本テーマの締めくくりとして紹介します。

〝その半世紀余りあとの多利思北孤の時代、中国の天子のみならず、新羅王も律令制のもとにあった。そのような東アジアの世界の中で、「天子」を自称した多利思北孤が、律令をもたぬはずはない。「天子―年号」と同じく、「天子―律令」もまた、いわば必然のセットだったのである。(中略)
『隋書』俀国伝によると、次のようにのべられている。
其の俗、人を殺し、強盗及び姦するは皆死し、盗む者は贓(ぞう)を計りて物を酬(むく)いしめ、財無き者は、身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す。……争訴罕(まれ)に、盗賊少なし。
(中略)
また右の文中には「死」「贓」「没」「流」「杖」といった用語が点綴されている。これらはいずれも律令用語だ。すなわち俀国の律令なのである。〟(ミネルヴァ書房版 153~154頁)

史料に見える九州王朝律令の断片を紹介されたものですが、もっとも重要な指摘は、中国南朝律令の影響下に九州王朝律令が成立したとする次の指摘です。

〝以上と対照すれば、中国側の法概念と同類の法概念が倭国側にもまた存在したこと、それを疑うことはできにくい。(俀国側は、磐井系列であるから、南朝系の法概念であろう)。
すなわち北朝系の「日没する処の律令」と同じく、南朝系の「日出づる処の律令」もまた、筑紫の地に存在していたのである。〟(ミネルヴァ書房版 154~155頁)

〝このような新視点に立つとき、唐制に依拠したはずの「大宝律令」に南朝系の条句が見られるという、法制史上著名の難問も、何の苦もなく解決しうるであろう。なぜなら、九州王朝系の律令は、当然ながら南朝系の律令を核心としていたからである。先にあげたように、「浄御原朝廷」(持統朝)は、九州王朝系の「令」に依存しており、大宝律令も、これを准正とした旨、『続日本紀』大宝元年項に明記されているからである。〟(ミネルヴァ書房版 317頁)

以上の古田先生の指摘によれば、九州王朝律令復元研究には中国南朝律令の研究も重要であることがわかります。(おわり)

(注)古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2997話 2023/04/26

多元的「祝詞」研究の画期、正木説

 昨日、奈良市で開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(注①)を拝聴しました。テーマは〝倭国から日本国へ ⑤盗まれた「広瀬神・竜田神」の祭礼、他〟で幅広いテーマを扱った講演でした。わたしが最も刮目したのが、「広瀬神・竜田神」祭礼の淵源を九州王朝(筑後・肥後)とする仮説でした。それは、「龍田風神祭」祝詞の内容「悪しき風」が、肥後地方の地名(立野)や風害(まつぼり風。穀物を枯らせ、甚大な被害を与える肥後地域〈立野火口瀬周辺〉特有の強風)に見事に対応していることなどを明らかにするものでした。

〝五穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さず、一年二年に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこ)なふ〈略〉悪しき風・荒き水に相(あ)はせつつ、〈略〉吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日隠る處の龍田の立野(たちの)の小野に、吾が宮は定め奉り〟「龍田風神祭」祝詞『延喜式』

 この正木さんの新説を知るまで、わたしは同祝詞を奈良県の龍田神社近辺で成立したものとばかり思い込んでいました。それが本来は『隋書』俀国伝に記された阿蘇山の周辺で成立したものということに驚きました。
古田史学では、古田先生による「大祓の祝詞」研究(注②)が著名です。「六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)〈十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〉」の祝詞が、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中域。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峰近辺)において作られたとする研究です。今回の正木説は、古田先生以来の祝詞研究で、画期をなすものと思いました。正木説に刺激されて、多元的祝詞研究が更に進むことと期待されます。

(注)
①古代大和史研究会(原幸子代表)主催、奈良県立図書情報館。毎月一回の開催で、今回で50回を迎えたとのこと。
②古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、一九八八年。


第2996話 2023/04/25

多元的「天皇」併存の新試案 (1)

 古田説では「天皇」号について、(A)九州王朝(倭国)の天子をナンバーワンとして、九州王朝が任命したナンバーツーとしての「天皇」(701年の王朝交代前の近畿天皇家)という概念と(注①)、(B)九州王朝の天子が別称として「天皇」を称するケースを晩年に提起(注②)されました。すなわち、九州王朝時代における天子(上位者)と天皇(下位者)という位づけ「天子≠天皇」(A)と、[天子=天皇(別称)」とする(B)の概念です。わたしは(A)の概念(旧古田説)を支持していますが(注③)、古田学派内では(B)を支持する見解(注④)もあり、まだ論議検討中のテーマです(注⑤)。
他方、古田武彦著『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』(注⑥)には、古代史料に見える「天皇」号について次のように述べています。

〝(前略)日出処天子というのは筑紫の天子です。
それに対して近畿天皇家のほうは大王です。その点については七世紀前半の史料と思われる法隆寺の「薬師仏造像記」をみると、はっきりわかります。ここでは用明天皇のことを「天皇」、推古天皇を二回にわたって「大王天皇」といっています。中国の『資治通鑑』という史料をみると唐代のところで第三代の天子の高宗は「高宗天皇」と表現されています。天皇というのは「殿下」などのような敬称なのです。その上にくるものが問題なので、高宗天皇といえば天子に対する敬称であり、大王天皇といえば大王に対する敬称となるのです。つまり「大王は天子ではない」のです。しかし七世紀前半に多利思北孤は天子を称していました。〟ミネルヴァ書房版、143頁。

 この古田先生の解説は難解です。前半では、用明や推古の「天皇」「大王天皇」号を多利思北孤(天子)の下位・ナンバーツー「天皇」表記で、古田説(A)に対応しています。ところが後半では、「天皇」は「殿下」などのような敬称とされ、天子(高宗)でも大王(用明、推古)でも使用できるとするものです。この理解ですと、位付けとは直接関係のない、「殿下」のような一般的な敬称として「天皇」号が使用できることとなり、その場合は(A)の「天皇」号とは異なる概念になるのではないでしょうか。したがって、「天子の別称」とする(B)に近いのかもしれません。いずれにしても難解な解説ですので勉強を続けます。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」朝日新聞社刊、1985年。
②古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
同『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」ミネルヴァ書房、2014年。
③古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年6月。
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
④西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」『古田史学会報』162号、2021年。
服部静尚「野中寺彌勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「九州王朝の天皇はどう呼ばれたか」『東京古田会ニュース』208号、2023年。
⑤九州王朝のナンバーワン称号を「法皇」とする次の論稿がある。
日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。
⑥古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、1993年。ミネルヴァ書房より復刊。


第2993話 2023/04/22

「九州王朝律令」復元研究の予察 (5)

 大和朝廷と九州王朝の戸令のように類似していたと推定できるものがある一方で、恐らくは大きく異なっていたであろうと思われるものもあります。それは軍防令です。
『養老律令』には七十六条からなる「軍防令第十七」があります。それらはいわゆる陸軍・陸戦・陸地での行動などに関する条文で、海軍や海戦に関係する条文は見えません。すなわち、大和朝廷の軍事行動(戦闘行為)が陸上で行われることを前提にした律令なのです。言い換えれば大和朝廷は海上武装軍団を有していないことの証でもあります。このことは、白村江戦を戦ったのは大和朝廷ではないということを示唆しています(注①)。
それに比べると、九州王朝(倭国)は663年の白村江戦(注②)を筆頭に、『宋書』に見える倭王武の上表文に「渡平海北九十五國」とあるように朝鮮半島に何度も軍事侵攻していますから、渡海のための輸送船団や海戦のための海軍を有していたことを疑えません。あるいは『万葉集』に見える「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」(注③)の歌からも、倭国軍は海戦を戦ってきたことがうかがえます。
以上の考察により、九州王朝は強大な海軍を有していたと考えられ、そうであれば軍防令には海軍の兵士・水夫の訓練、海戦・輸送を担う船舶の維持管理に関する条文があったはずです。従って、九州王朝と大和朝廷の軍防令には大きな差異があったと思われるのです。(つづく)

(注)
①このことを中小路俊逸氏(故人、追手門学院大学元教授)からお聞きした。
②『三国史記』新羅本紀によれば千艘の倭国海軍が白村江(白沙)で唐・新羅軍と戦い、敗北を喫している。『旧唐書』劉仁軌伝には、倭舟四百艘が白江の戦いで焼かれたとある。
③『万葉集』巻十八の「賀陸奥国出金詔書歌」、大伴家持作。


第2992話 2023/04/21

「九州王朝律令」復元研究の予察 (4)

670年(白鳳十年)に庚午年籍が全国的に造籍されていることから、九州王朝律令には造籍方法を定めた戸令が含まれていたと考えられます。恐らく、律令による全国統治の都として造営された前期難波宮(難波京)創建時にはこの戸令があったはずです。戸籍は律令制統治にとって重要なシステムだからです。しかも一度造れば終わりというものではなく、定期的な造籍による人名や年齢、家族関係などの把握が必要です。ですから大和朝廷は6年ごとの造籍を戸令で規定していますが、九州王朝も同様であったと考えられます。
九州王朝が6年ごとに造籍していたことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。

「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
「甲申(十九日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)

大化二年(646)に、初めての造籍・班田収授之法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したとあり、このとき初めての造籍が開始されたことがうかがえます。この646年と庚午年籍(670年)の間隔24年が6で割り切れることから、6年ごとの造籍「六年一造」(注①)と整合します。この理解が妥当であれば、九州王朝による最初の全国的造籍は646年のこととなります。この最初の戸籍をわたしは九州年号を用いて「命長七年籍」と命名しました(注②)。
他方、大化元年(645)八月五日条の「東国国司詔」は、九州年号の大化元年(695年)のこととする正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の有力説があり(注③)、その場合は、大化二年正月条の造籍記事も大和朝廷による初めての造籍(持統十年籍・696年、九州年号の大化二年)と捉えるべきかもしれません。この問題は古田学派内でも諸説あり(注④)、やや難解ですので、別の機会に詳述したいと思います。(つづく)

(注)
①「大宝律令」戸令には「戸籍、六年一造~」とあったと復元されている。
②古賀達也「洛中洛外日記」2163~2165話(2020/05/30~31)〝造籍年間隔のずれと王朝交替(1)~(3)〟
「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立―」『古田史学会報』159号、2020年。
③正木裕「盗まれた国宰」『古田史学会報』91号、2009年。
「『東国国司詔』の真実」『古田史学会報』101号、2010年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2555~2566話(2021/09/04~13)〝古田先生との「大化改新」研究の思い出(1)~(9)〟


第2990話 2023/04/19

「九州王朝律令」復元研究の予察 (3)

「九州王朝律令」復元のためにはどのようなアプローチが有効なのか、いろいろと考えています。その発端となったのは、四月二日に橿原市で開催されたシンポジウム「徹底討論 真説・藤原京」(注①)で講演したとき、会場から「九州王朝律令とはどのようなものか」というご質問があったことです。わたしは次のように返答しました。

「九州王朝律令は現存せず、内容は不明です。古田学派にとっても復元研究はこれからの課題ですが、七世紀の状況や断片史料などから推定できることはあります。例えば、670年に庚午年籍が全国的に造籍されており、従って、造籍方法を定めた戸令が九州王朝律令に含まれていると考えられます。」

このような返答にとどまったこともあり、基礎的調査だけでも行っておこうと、本テーマの連載を始めました。
『養老律令』では戸籍を6年毎に造籍することや、三十年間経過したら廃棄すること、庚午年籍だけは永久保管することなどを定めています(注②)。恐らく九州王朝律令の戸令でも同様の規定があったと考えています。なぜなら、『日本書紀』に6年毎の造籍の痕跡が見えることと(注③)、九世紀段階でも庚午年籍が全国的に保管されていることから(注④)、九州王朝戸令で永久保管を命じていたので、701年の王朝交代時まで廃棄されることなく遺っていたと考えざるを得ないからです。

(注)
①「シンポジウム 徹底討論 真説・藤原京」古代大和史研究会(原幸子会長)主催、古田史学の会後援。
②養老戸令に次の条文が見える。
「凡そ戸籍は、六年に一たび造れ。(中略)凡そ戸籍は、恒に五比(30年)留めよ。其れ遠き年のは、次に依りて除け。近江の大津の宮の庚午の年の籍は、除くことせず。」『律令』(日本思想大系、岩波書店、1976年)による。
③古賀達也「洛中洛外日記」2163~2165話(2020/05/30~31)〝造籍年間隔のずれと王朝交替(1)~(3)〟
「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立―」『古田史学会報』159号、2020年。
④『続日本後紀』承和六年(839)正月条には、諸国に「庚午年籍」の書写保管を命じ、中務省へ写本提出を命じたことが記されている。


第2989話 2023/04/18

「九州王朝律令」復元研究の予察 (2)

七世紀(九州王朝時代)の木簡・金石文に続いて、『日本書紀』に見える律令制の官司名(官職名)を紹介します。管見によれば次の通りです。律令に規定された七世紀当時の〝常設の「官」〟と思われる中央の官司・官職と〝摂津・大宰府〟を『日本書紀索引』(注①)により取り上げました。

【七世紀(九州王朝時代)の官司・官職名】《『日本書紀』》

○「内大臣」 孝徳紀・天智紀
○「右大臣」 孝徳紀・天智紀・天武紀・持統紀
○「左大臣」 孝徳紀・斉明紀・天智紀・天武紀
○「太政大臣」 天智紀・持統紀
○「大納言」 天智紀・天武紀・持統紀
○「中納言」 持統紀
○「納言」 天武紀・持統紀

○「民部省」 天武紀(注②)
○「民部卿」 天武紀(注②)
○「大蔵省」 天武紀(注②)
○「大蔵」 天武紀

○「神官」 天武紀
○「神祇官」 持統紀
○「宮内」 天武紀
○「宮内官大夫」 天武紀
○「太政官」 天武紀・持統紀
○「法官大輔」 天智紀
○「法官」 天武紀
○「判官」 孝徳紀・天武紀
○「大弁官」 天武紀
○「理官」 天武紀
○「兵政官」 天武紀
○「刑官」 天武紀
○「佐官」 天武紀
○「馬官」 推古紀
○「楽官」 持統紀
○「民官」 天武紀
○「留守官」 斉明紀・持統紀

○「春宮大夫」 持統紀
○「東宮大傳」 持統紀
○「御史大夫」 天智紀

○「左京職」 持統紀
○「右兵衛」 天武紀
○「京職大夫」 天武紀
○「兵衛」 天武紀・持統紀
○「兵庫職」 天武紀

○「外薬寮」 天武紀
○「大学寮」 天武紀・持統紀

○「留守司」 天武紀
○「鋳銭司」 持統紀
○「撰善言司」 持統紀
○「造京司」 持統紀

○「摂津」 天武紀
○「吉備大宰」 天武紀
○「大宰」 推古紀・皇極紀・天武紀・持統紀
○「筑紫大宰府」 天智紀・天武紀
○「筑紫大宰府典」 持統紀

(注)
①『日本書紀索引』吉川弘文館、昭和四四年(1969)。
②通説では、「民部省」「民部卿」「大蔵省」の「省」「卿」を大宝律令による潤色の疑いが強いとする。


第2988話 2023/04/17

「九州王朝律令」復元研究の予察 (1)

 九州王朝律令についての指摘や考察は、古田先生をはじめ古田学派の研究者からも出されていました(注①)。しかしながら、それらは部分的なものであり、総体的な復元研究はなされて来なかったように思います。七世紀における律令制都城論を提起してきたことでもあり、この機会にその輪郭だけでも押さえておきたいと思います。

 残念ながら「九州王朝律令」そのものは遺っていませんから、九州王朝時代の七世紀における諸史料中に見える、律令制の断片史料を検討することにします。最初に木簡や金石文に見える官司名(官職名)を紹介します。

【七世紀(九州王朝時代)の官職名】《木簡・金石文》

○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(辛巳年・621年)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃、注②)
○「太政官兼刑部」 小野毛人墓碑(丁丑年・677年)
○「大弁官」 采女氏榮域碑(己丑年・689年)
○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「御史官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、平成五年(1993)。ミネルヴァ書房より復刻。
増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。
古賀達也「洛中洛外日記」100話(2006/09/30)〝九州王朝の「官」制〟
同「洛中洛外日記」1978話(2019/08/31)〝「九州王朝律令」による官職名〟
②古賀達也「洛中洛外日記」97話(2006/09/09)〝九州王朝の部民制〟


第2986話 2023/04/14

前期難波宮と藤原宮の官僚群の比較

 数学・論理学などの公理(研究者が事実と考えても良いと合意できる命題)を歴史学というあいまいで不鮮明な分野に援用して、古代史研究における「公理」として論証に使用できないものかとわたしは考えてきました(注①)。今回は七世紀の律令制都城の絶対的な存立条件として〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在(注②)〟を「公理」として位置づけるために、大宝律令(701年)で規定した中央官僚と同規模の官僚群を九州王朝(倭国)律令でも規定していたとする理由を説明します。
わたしは次の根拠と論理構造により、七世紀後半の九州王朝にも同規模の中央官僚群がいたと考えています。

(1) 前期難波宮(九州王朝時代、七世紀(652~686年)に存在した列島内最大の朝堂院様式の宮殿)の規模が、大宝律令時代の王宮・藤原宮の朝堂院とほぼ同規模であり、そこで執務する中央官僚群もほぼ同規模と見なすのが妥当な理解である。

(2) 同様に、約八千人の中央官僚を規定した『養老律令』成立時代の平城宮の朝堂院も藤原宮とほぼ同規模であり、そこで執務した中央官僚群の規模も同程度と考えるのが妥当。

(3) 従って、九州王朝時代の王宮・前期難波宮で執務した中央官僚群の規模を約八千人と見なしても、大きく誤ることないと考えて良い。

(4) 701年を境に、出土木簡の紀年表記が干支から年号(大宝元年~)へと全国一斉に変更されていることから、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代は、事前に周到に準備(各国・各評への周知徹底)されていたはずであり、王朝交代はほぼ平和裏に行われたと考えられる。同様の変更は行政単位(「評」から「郡」へ)でも見られる。

(5) 上記の史料事実は「禅譲」の可能性を示唆し、従って、王朝交代時(701年)の倭国と日本国の版図はほぼ同範囲と見なしてよい。おそらくは九州島から北関東・越後までか。この時期の東北地方は蝦夷国である。

(6) 701年に成立した大宝律令は、七世紀最末期の九州王朝時代に編纂を開始したと考えられ、その時点での九州王朝(倭国)領域の統治を前提に編纂されたことを疑えない。このことは(4)(5)とも整合する。

 以上のことから、わたしが「公理」と見なした〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在〟は、七世紀の律令制都城存立の絶対条件と考えています。なお、前期難波宮創建時(652年)時点の律令と王朝交代直前の律令とでは、官職数や官僚人数に差があったことは推定できますが、前期難波宮の規模を考慮すると、大きくは異ならないのではないでしょうか。この点、九州王朝律令の復元研究が必要です。(つづく)

(注)
①歴史研究に「公理」という概念や用語を使用することに、数学を専攻された加藤健氏(古田史学の会・会員、交野市)や哲学を専攻された茂山憲司氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、その難しさや危険性について、注意・助言を得た。留意したい。
②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。