九州王朝(倭国)一覧

第2735話 2022/05/02

九州王朝の権威と権力の機能分担

昨日、京都市で開催された『古代史の争点』出版記念講演会(主催:市民古代史の会・京都、注①)は過去最多の参加者で盛況でした。持ち込んだ同書も完売することができました。初参加の方も多く、古田説や九州王朝説をどこまで詳しく説明するべきなのか少々判断に迷いましたが、概ねご理解いただけたようでした。
参加者に中世社会史を研究されているSさんがおられ、懇親会にも参加され夜遅くまで学問対話をさせていただきました。Sさんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代にあたり、それを為さしめた権威があったはずで、それはどちら側のどのようなものだったのか、なぜ九州王朝に代わって大和の天皇家が新王朝になれたのかという、本質的で鋭い質問が寄せられました。そうした対話の中で、わたしは九州王朝の両京制の思想的背景になった権威(太宰府・倭京)と権力(前期難波宮・難波京)の機能分担について説明していて、あることに気づきました。この機能分担には九州王朝内に歴史的先例があったのではないかということです。
それは『隋書』俀国伝に記された俀国の兄弟統治ともいうべき次の珍しいシステムです。

「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝

古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘されていました(注②)。更にそれに先立って、『三国志』倭人伝に記された邪馬壹国の女王卑弥呼と男弟による姉弟統治、隅田八幡人物画像鏡銘文に見える大王と男弟王の兄弟統治の事例も指摘されました。この兄弟(姉弟)統治の政治体制こそ、権威と権力の都を分けるという七世紀中頃に採用した両京制の思想的淵源だったのではないでしょうか。
昨夜、ようやくこのことに気づくことができました。初めてお会いしたSさんとの夜遅くまでの学問対話の成果です。Sさんと講演会を主催された久冨直子さんら市民古代史の会・京都の皆さんに感謝いたします。

(注)
①『古代史の争点』出版記念講演会。主宰:市民古代史の会・京都、会場:プラザ京都(JR京都駅の北側)。講師・演題:古賀達也「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」「海を渡った万葉歌人 ―柿本人麻呂系図の紹介―」、正木裕「大化改新の真実」。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2734話 2022/05/01

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (3)

 『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」が藤原定家の筆跡になるものとする大久間喜一郎氏の論文(注①)を紹介しましたが、仮名序には柿本人麿についての不思議な記述があります。それは人麿の位階を「おほきみつのくらゐ」(正三位のこと)としていることです。

 「(前略)いにしへより、かくつたはるうちにも、なら《文武天皇》の御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、哥のこゝろをしろしめたりけむ。かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。(後略)」日本古典文学大系『古今和歌集』仮名序、98~99頁

 正三位は諸王・諸臣の位階に相当し、臣下としては高位です。『万葉集』に見える人麿の姓(かばね)は朝臣(柿本朝臣人麿)であり、天武紀に見える八色の姓(注②)の真人に次ぐ2番目の姓です。真人であれば正三位は妥当かもしれませんが、朝臣である人麿にはやや不適切な位階ではないでしょうか。ちなみに、日本古典文学大系『古今和歌集』の頭注では仮名序の「おほきみつのくらゐ」に対して次のように解説しています。

 「おほきみつのくらゐ ― 正三位。柿本人麿は、万葉集では、持統天皇・文武天皇の時代の人で、身分は六位以下であったろうと考えられている。」日本古典文学大系『古今和歌集』98頁

 このように朝臣姓の人麿は六位以下と考えられています。従って、仮名序に記された正三位という位階は『万葉集』の朝臣姓とは異なる情報に基づいたものと思われます。また、この「おほきみつのくらゐ」の部分には傍注は付されていませんから、定家も特に疑問視していなかったのではないでしょうか。
 ここで注目されるのが、「洛中洛外日記」(注③)で紹介した『柿本家系図』の系譜冒頭の「柿本人麿真人」と由緒書中の「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」という記事です。この「真人」姓であれば、正三位は妥当です。例えば天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人天皇とされています。また遣唐使として唐に派遣された粟田朝臣真人も名前に真人を有しており、最終的な位階は正三位まで上り詰めています。
 ここからは全くの推測ですが、人麿の没年記事(注④)が九州年号の大長四年丁未(707)で記されていることから、真人の姓(かばね)や正三位の位階は九州王朝(倭国)から与えられたものかもしれません。そうした九州王朝系史料に遺された人麿伝承が、『古今和歌集』仮名序の「おほきみつのくらゐ」や『拾遺和歌集』の渡唐伝承(注⑤)のように、平安時代になると世に出始めたのではないでしょうか。そして、そのような九州王朝系伝承に基づいて記されたのが『柿本家系図』かもしれません。

(注)
①大久間喜一郎「平安以降の人麿」『人麿を考える』万葉夏季大学13、上代文学会編、昭和61年(1986)。
②天武十三年条に見える八色の姓(やくさのかばね)は、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八つの姓の制度。
③古賀達也「洛中洛外日記」2699~2711話(2022/03/14~04/03)〝柿本人麻呂系図の紹介 (1)~(8)〟
④『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2707話(2022/03/26)〝柿本人麻呂系図の紹介 (6) ―人麻呂の渡唐伝承―〟


第2732話 2022/04/29

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (2)

 『古今和歌集』には仮名漢字書きによる仮名序と漢文による真名序があり、いずれにも柿本人麿の名前が見えます。わたしが人麿研究において注目したのが仮名序にある不思議な傍注でした。日本古典文学大系『古今和歌集』によれば、仮名序の次の記事中の「ならの御時」部分に「文武天皇」という傍注(《文武天皇》の部分)があります。

 「(前略)いにしへより、かくつたはるうちにも、なら《文武天皇》の御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、哥のこゝろをしろしめたりけむ。かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。(後略)」日本古典文学大系『古今和歌集』98~99頁

 その傍注「文武天皇」の解説が同書頭注に記されています。

 「ならの御時よりぞ ― あとの方の『かの御時よりこの方、としはもゝとせあまり、世はとつぎになむなりにける』という『かの御時』が、この『ならの御時』であるとすると、第五十一代平城天皇ということになるが、柿本人麿や山部赤人のいた時代ということになると、持統天皇・文武天皇・聖武天皇などを考えなければならなくなる。」同書98頁頭注

 延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』の仮名序に「ならの御時」とあれば、それは平城天皇(治世806~809年)の御時となるのですが、柿本人麿・山部赤人の頃であれば、持統天皇・文武天皇・聖武天皇などの御時と考えなければならないという解説です。これと同様の理解をした後代の人物が、「ならの御時」の天皇に対して「文武天皇」と傍書したものと思われます。その傍書した人物についての説明が見当たらないので、わたしは気になっていました。
 確かに「平城の御時」とあれば普通は平城天皇を思い浮かべます。これが奈良時代(平城京の時代)であれば、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁と桓武の各天皇が対象となり、傍注の「文武天皇」は含まれません。従って、この傍注の筆者は「ならの御時」を柿本人麿の時代のことと認識したうえで、その時代の天皇として「文武天皇」と注記したと思われます。すなわち、人麿の生きた時代の代表的天皇、あるいは没したときの天皇が文武と認識していたのではないでしょうか。わたしは後者の可能性が高いと考えています。というのも、『古今和歌集』や『万葉集』の読者であれば、人麿の歌が詠まれた時代の天皇は文武だけではなく持統も含まれていると知っていたはずだからです。従って、「持統天皇 文武天皇」ではなく、「文武天皇」とだけ注記していますから、人麿が没したときの天皇として注記したのではないでしょうか。
 ところが人麿の没年については『日本書紀』『続日本紀』をはじめ『万葉集』や『古今和歌集』にも記されておらず、現代の通説でも没年は不明とされています。ですから傍注筆者は文武天皇の時代とする情報を持っていたと考えざるを得ません。わたしは人麿の没年を九州年号の大長四年丁未(707)と考えていますので(注①)、この年であれば文武天皇の最晩年(慶雲四年)ですから、傍注筆者の認識は正しいことになります。もう少し正確に言いますと、大長四年三月十八日没(注②)であり、同年六月に文武は崩御していますから、人麿の没年を文武天皇の治世のときとする傍注筆者の認識は正確だったわけです。
 そこで、このような情報を持っていた傍注筆者とはどのような人物なのかが気になっていたのです。ところが昨日、偶然にもご近所の古書店で入手した『人麿を考える』(注③)に収録された大久間喜一郎氏の「平安以降の人麿」にこの傍注のことが触れられており、その筆者について「恐らく定家の筆跡と見られる」とされていたのです。『明月記』の作者としても著名な藤原定家(1162~1241年)は『古今和歌集』の校訂者としても知られています。日本古典文学大系『古今和歌集』の解説には、「定家本は定家の校訂した本であるが、世間に広く用いられている。」(61頁)とあります。もし、大久間氏の推定が正しければ、定家は人麿の没年を知っていたことになり、もしかすると九州年号による「大長四年丁未」という史料を見ていたのかもしれません。(つづく)

(注)
①『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
②古賀達也「洛中洛外日記」2711話(2022/04/03)〝柿本人麻呂系図の紹介 (8) ―石見国益田家の「柿本朝臣系図」―〟
③『人麿を考える』万葉夏季大学13、上代文学会編、昭和61年(1986)。


第2731話 2022/04/28

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (1)

 柿本人麿の名前が『古今和歌集』の仮名序にあるのですが、そのことについて少し触れることにします。以前、わたしは『古今和歌集』の古写本について調査したことがありました(注①)。
 阿倍仲麻呂の有名な歌「天の原 ふりさけみれば春日なる みかさの山に いでし月かも」が、『古今和歌集』古写本(注②)では「天の原 ふりさけみれば春日なる みかさの山を いでし月かも」となっていることから、仲麻呂は「みかさの山(の上)に」出た月ではなく、「みかさの山を」とあるように、みかさ山から出た月を歌ったとする研究を古田先生と行いました。その結果、奈良の御蓋山では低すぎて(標高約283m)、月は後方の春日山連峰から出るので、仲麻呂が歌った「みかさ山」は太宰府の三笠山(宝満山、標高829m)のこととしました。
 このときの『古今和歌集』写本調査の経験もあって、柿本人麿系図の研究で気づいたのが同集仮名序に傍記されている「文武天皇」の四文字でした。(つづく)

(注)
①「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」で論じた。
 「平城宮朱雀門で観月会 — みかさの山にいでし月かも??」『古田史学会報』28号、1998年10月。
 「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年4月。
 〔再掲載〕「『三笠山』新考 — 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年6月。
 「三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-」『九州倭国通信』193号、2019年1月。
 「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の「宿痾」〈前編〉」『九州倭国通信』195号、2019年5月。
 「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の「宿痾」〈後編〉」『九州倭国通信』196号、2019年7月。
 「洛中洛外日記」第731話(2014/06/19)〝「月」と酒の歌〟
 「同」第1733話(2018/08/27)〝杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)〟
 「同」1842話(2019/02/20)〝九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)〟
②延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』は、貫之による自筆原本が三本あったとされているがいずれも現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、一一七七年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。また、教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる。


第2729話 2022/04/25

天武紀の「倭京」考 (2)

 新庄宗昭さんが指摘された天武紀の次の「倭京」記事は重要です。

 「庚子(12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮に御す。」『日本書紀』天武元年(672)九月条

 これは壬申の乱に勝利した天武が倭京に至り、嶋宮に居したという記事ですが、岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』で「詣」の字を「いたりて」と訓でいることに新庄さんは疑義を呈されました。「詣」の意味は貴人のもとへ参上する、あるいは神仏にお参りすることであり、下位者が上位者を訪れるという上下関係の存在を前提とした言葉であり、ここは「詣(もう)でて」と訓むべきとされました。そして、天武が詣でた倭京には近畿天皇家とは別の上位者がいたと理解されたわけです。
 この史料解釈により、壬申の乱のときには飛鳥には既に倭京があり、その宮殿は飛鳥浄御原宮と称され、藤原京の先行条坊が倭京の痕跡であると結論づけられました。「詣」の一字に着目された鋭い指摘です。仮説としては成立していると思いますが、学問的には次の検証作業が不可欠です。古田先生がよく用いられた史料中の全数調査です。この場合、『日本書紀』に見える「いたる」という動詞にはどのような漢字が用いられているのか、「詣」の字がどのような意味で使用されているのかという調査です。『日本書紀』の全数調査の結果、「詣」の字が上下関係を表す「もうでる」という意味でしか使用されていなければ、この新庄説は証明され、有力説となります。
 この証明は、新仮説を提起された新庄さんご自身がなされるべきことですが、取り急ぎ天武紀を中心に『日本書紀』を確認したところ、日本古典文学大系『日本書紀』で、「いたる」と訓まれている例として次のような漢字がありました。

 「至る」「到る」「及る」「詣る」「逮る」「臻る」「迄る」「及至る」

 「至る」が最も多く使用されていますが、問題となっている「詣」が他にもありました。次の通りです。

 「是(ここ)に、赤麻呂等、古京に詣(いた)りて、道路の橋の板を解(こほ)ち取りて、楯を作りて、京の邊の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。」天武元年七月壬辰(3日)条

 「甲午に、近江の別将田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を巻き鼓を抱きて、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。」天武元年七月甲午(5日)条

 この二例の「詣」記事は、文脈から〝貴人に詣でる〟という主旨ではないので、普通に〝ある場所(古京、倉歴)へ至る〟の意味と解釈するほかありません。同じ天武紀の中にこのような用例がありますから、それらを除外して、天武元年(672)九月条だけを根拠に、倭京に上位者がいたとする仮説を貫き通すのは無理なように思います。また、「洛中洛外日記」(注)で紹介したように、藤原宮内下層条坊を天武期より前の造営とすることも考古学的にはやや困難ではないでしょうか。
 やはり、現時点での多元史観に於ける解釈論争としては、「倭京に詣る」の「倭京」を飛鳥宮(通説)のこととするのか、難波京(西村秀己説)とするのかに収斂しそうです。もっとも、新庄説も新たな視点や論証の積み重ねにより強化されることはありえます。いずれにしても自由に仮説が発表でき、真摯な論争による学問研究の発展が大切です。
 なお、付言しますと、天武紀の「倭京」が西村説の難波京であれば、そこには九州王朝の天子がいた可能性もあり、その場合には「倭京に詣(もう)でる」という訓みはピッタリとなります。とは言え、『日本書紀』編者がそのように認識して「詣」の字を使用したのかどうかは、別途検証が必要です。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2724~2727話(2022/04/20~23)〝藤原宮内先行条坊の論理 (1)~(4)〟


第2728話 2022/04/24

天武紀の「倭京」考 (1)

 四月の多元的古代研究会月例会での新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」をリモートで聴講し、考古学的テーマ以外に『日本書紀』の読解についても刺激を受けました。なかでも新庄さんが着目された天武紀の「倭京」記事は古田史学でも重要なワードであり、古田先生も注目されていました。まず、古田学派にとって『日本書紀』に見える「倭京」にどのような学問的意味や仮説が提示されているのかを簡単に説明します。

(1) 九州年号に「倭京」(618~622年)があり、『日本書紀』編纂者はその存在を知ったうえで使用しているはずと考え、『日本書紀』の「倭京」を理解することが求められる。

(2) 倭の京(みやこ)の意味を持つ「倭京」の年号は、新都「倭京」への遷都、あるいは新都造営を記念しての年号と理解せざるを得ない。その時代は多利思北孤の治世であり、その新都は太宰府条坊都市のことと考えられる。すなわち、九州王朝(倭国)の都の名称が「倭京」であることを『日本書紀』編者は知ったうえで、「倭京」を使用したと考えざるを得ない。

(3) 王朝交代前の列島の代表王朝(九州王朝)の国名が「倭」であることも、『日本書紀』編者は当然知っている。そのうえで『日本書紀』中に「倭」を大和国(奈良県)の意味で使用している。

(4) 七世紀末頃に大和国が「倭国」と呼ばれていた痕跡が藤原宮出土の「倭国所布評」木簡(注①)により判明しており、九州王朝の国名「倭」が大和という地域地名に使用されている史実を前提に『日本書紀』は編纂されている。

(5) 天武紀に見える「倭京」は九州王朝(倭国)の都を意味する用語であることから、その時点の都である難波京(前期難波宮)が「倭京」であると解釈すべきとの指摘が西村秀己氏よりなされており、そのことを拙稿(注②)で紹介している。

 わたしたち古田学派の論者が『日本書紀』の「倭京」を論じる際、こうした史料事実や先行研究を意識した考察を避けられないと思います。(つづく)

(注)
①藤原宮跡北辺地区遺跡から「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡が出土している。「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のこととされる。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
 同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
 同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1283話(2016/10/06)〝「倭京」の多元的考察〟
 同「洛中洛外日記」1343話(2017/02/28)〝続・「倭京」の多元的考察〟
 同「『倭京』の多元的考察」『古田史学会報』138号、2017年。

 


第2727話 2022/04/23

藤原宮内先行条坊の論理 (4)

 ―本薬師寺と条坊区画―

 藤原宮内下層条坊の造営時期を考古学的出土物(土器編年・干支木簡・木材の年輪年代測定)から判断すれば、天武期頃としておくのが穏当と思われ、そうであれば壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが〝拡大前の藤原京条坊都市〟ではないかと考えました。他方、木下正史『藤原宮』によると、木簡が出土した大溝よりも下層条坊が先行するとあります。

〝「四条条間路」は大溝によって壊されており、「四条条間路」、ひいては一連の下層条坊道路の建設が大溝の掘削に先立つことは明らかである。大溝の掘削が天武末年まで遡るとなると、条坊道路の建設は天武末年をさらに遡る可能性が出てくる。〟木下正史『藤原宮』61頁

 さらに本薬師寺が条坊区画に添って造営されていることが判明し、『日本書紀』に見える天武九年(680)の薬師寺発願記事によれば、条坊計画がそれ以前からあったことがうかがえます。こうした考古学的事実や『日本書紀』の史料事実から、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として藤原京を造営しようとしたのではないかとわたしは推定しています。
 わたしは九州王朝(倭国)による王宮(長谷田土壇)造営の可能性も検討していたのですが、その時期が天武期の680年以前まで遡るのであれば、再考する必要がありそうです。というのも、九州王朝の複都制による難波京(権力の都。評制による全国統治の中枢都市)がこの時期には存在しており、隣国(大和)の辺地である飛鳥に巨大条坊都市を白村江戦敗北後の九州王朝が建設するメリットや目的が見えてこないからです。しかし、これが天武であれば、疲弊した九州王朝に代わって列島の支配者となるために、全国統治に必要な巨大条坊都市を造営する合理的な理由と実力を持っていたと考えることができます。その上で九州王朝の天子を藤原宮に囲い込み、禅譲を強要したということであれば、「藤原宮に九州王朝の天子がいた」とする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の仮説とも対応できそうです。


第2723話 2022/04/19

高良山中にもあった九州王朝の戒壇

 「洛中洛外日記」2706話(2022/03/24)〝下野薬師寺と観世音寺の創建年〟において、『東大寺要録』(巻第六「末寺章第九」)に「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」とあることから、九州年号の白鳳十年(670)に下野薬師寺が創建されており、太宰府の観世音寺創建と同年(注①)であることを紹介しました。そして、両寺院が東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされていることを考えると、両寺院は九州王朝(倭国)時代の戒壇寺院だったのではないかとしました。
 このことを古田史学リモート勉強会(注②)で発表したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、大善寺(久留米市)に戒壇があったことが『高良記』(注③)に見えるとご教示いただきました。そこで同史料が収録された『高良玉垂宮神秘書同紙背』(注④)を精査したところ、次の記事がありました。

「一、大善寺ハ、長久元年ニ、タテラレタルナリ
 一、大菩薩御法身ノ時ノ カイ チョウ エノミツノハコヲ、ソノホカ 仏タウクヲ、ヘツシユニ ヲサメラレタルナリ、カルカユエニ、天チクム子チノ池ノ水ヲナカシ、アカノミツトカウス、彼ミツノホトリニ、カイタンノ作法 キシキ ヲサメ玉也、法ミフクトク カイタンノシュ仏トサタメ、ヒシヤモンタウヲ 作ヲキ玉フ也、サレハ ホツシニナリ、行ノ時ハ、彼水ヲ アカ水トサタメクム也、コレニヨツテ、高良 出家クハンチヤウノトキ、カイタンフマスニスル也」 同書160頁

「一、三タウトハ、コマタウ クモンチタウ カイタンタウナリ
  コマタウハ 上宮ヘアリ、クモンチタウハ 北谷ニアリ
  カイタンタウハ ヘツシヨニアリ、カイタンノホンソンヲ ヒシヤモンニスルコトハ、法躰聖人ハ ヒシヤモンノケシンナリ、ホツタイシヤウニンノ 彼水本ヘ カイタンヲ オサメラレタル也、カルカユエニ、キヤウニ入ハ アカノ水ニ 彼ミツヲクム也、コレニヨツテ、高良山ノ衆僧 カイタンフマスニ、クハンチヤウセラルヽナリ」 同書161頁

 カタカナが多く難解な文章ですが、おおよそ次のようではないでしょうか。不正確かもしれませんが、古賀訳を示します。

「一、大善寺は長久元年(1040年)に建てられたるなり。
 一、大菩薩御法身の時の戒・定・慧の三の筥(はこ)、その他の仏道具を別所に納められたるなり。かかるが故に、天竺無熱池の池の水を流し、閼伽の水と号す。彼の水のほとりに、戒壇の作法 儀式 納め賜う也。法味福徳 戒壇の主仏と定め、毘沙門堂を 作り置き賜う也。されば法師になり、行の時は、彼の水を閼伽水と定め汲む也。これによって高良 出家潅頂の時、戒壇ふまずにする也。」 同書160頁
「一、三堂とは、護摩堂 求問持堂 戒壇堂なり。
  護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり、戒壇堂は別所にあり。戒壇の本尊を毘沙門にすることは、法躰聖人は毘沙門の化身なり。法躰聖人の彼の水本へ戒壇を納められたる也、かかるが故に、きやうに入らば閼伽の水に彼の水を汲む也。これによって、高良山の衆僧、戒壇ふまずに潅頂せらるるなり。」 同書161頁

 「戒壇」記事の直前に「大善寺建立」記事があるため、戒壇が大善寺にあったようにも読めますが、「護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり 戒壇堂は別所にあり」に見える「上宮」(高良大社のこと)「北谷」「別所」はいずれも高良山中にある地名ですので、この「戒壇」「戒壇堂」は高良山中にあったように思います。また、同書付録の「高良玉垂宮神秘書参考地図(1)」にも「別所」に「毘沙門堂」「戒壇」という記載があります。
 『高良記』など高良大社文書によれば、「高良玉垂命」の〝御発心〟を九州年号の白鳳十三年癸酉(673年)、あるいは天武元年を「白鳳元年」とする後代改変型九州年号の「白鳳二年癸酉」(673年)のことと記されています(注⑤)。こうした伝承が正しければ、筑後の高良山に戒壇が設けられ、僧侶の受戒儀式が行われたこととなります。真偽のほどは不明ですが、九州王朝の戒壇寺院研究において検討すべき伝承と思われました。同書「戒壇」記事の存在をご教示いただいた日野さんに感謝します。

《追記》本稿執筆後にブログ「ひもろぎ逍遙」に『高良記』の「戒壇」を紹介した記事「『神秘書』「別所」に天竺から流れて来る水と戒壇があった」があることに気づきました。同ブログのアドレスを記しておきます。ご参考まで。https://lunabura.exblog.jp/30574108/

(注)
①『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」とする記事が見える。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
②各地の研究者と情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を行っている。
③筑後一宮の高良大社(久留米市御井町)に伝わる文書(巻物一巻)。
④『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年(1972)。
⑤『高良玉垂宮神秘書同紙背』に次の記事が見える。本来の九州年号「白鳳」(661~683年)と後代改変型「白鳳」(元年は672年)が混在した珍しい史料である。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁


第2721話 2022/04/16

卑弥呼がもらった「尚方作」鏡

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月、5月21日(土)もドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。また、会場は未定ですが、6月18日(土)の関西例会は午前中だけとなり、午後は『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)出版記念講演会と会員総会を開催することになりました。

 今回の例会では、重要な研究発表が続きました。なかでも服部静尚さんの、福岡県平原遺跡から出土した「尚方作」の銘文をもつ21面の銅鏡が鉛同位体分析から中国産であり、中国の天子の工房である尚方で造られたことを意味する「尚方作」銘文は倭国(卑弥呼)への下賜品にふさわしい〝しるし〟とする考察は見事でした。ただし、それらの鏡が出土した平原1号墳は方形周溝墓であるため、倭人伝に「径百余歩」(円墳を意味する)と記された卑弥呼の墓とは形状が異なることから、壹與の墓かも知れないとされました。同2号墳からの出土土器(庄内式)編年など精緻な年代判定が待たれるところですが、「尚方作」銘文鏡の分布(福岡県が最多)や「尚方作」の銘文が持つ意味の考察は画期的と思われました。
 正木裕さんの万葉歌に見える「大王」研究は、わたしが「洛中洛外日記」〝万葉歌の大王〟で続けている考察と関連するもので、199~202番歌などの「大王」「王・皇子」を具体的に検討され、199番歌の「わが大王」を九州王朝の天子「伊勢王」のこととされました。わたしの考察よりもさらに具体的で進んだ内容であり、興味深いものでした。

 発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①倭国の滅亡(姫路市・野田利郎)
②伊吉連博徳書の捉え方について(茨木市・満田正賢)
③「オホゴホリ」は大宰府の旧名(東大阪市・萩野秀公)
④九州年号の分布(京都市・岡下英男)
⑤銅鏡の分布と卑弥呼の鏡(八尾市・服部静尚)
⑥天智紀の工人と水城山城造営記事(大山崎町・大原重雄)
⑦万葉歌の「大王」は誰か(川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 05/21(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 06/18(土) 10:00~12:00 会場:未定 ※午後は出版記念講演会と会員総会

 


第2720話 2022/04/14

万葉歌の大王 (8)

 ―「遠の朝庭」と「筑紫本宮」―

 本シリーズの発端となった人麿の歌「大王の遠の朝庭(みかど)」(注①)について、わたしは次のように理解しました。

(ⅰ) 「朝庭」を筑紫の朝庭とする古田先生の理解(注②)は正しい。
(ⅱ) 「大王」は「遠の朝庭」(太宰府)から遠く離れた地にいる。
(ⅲ) 「大王の遠の朝庭」とあるからには、「遠の朝庭」は「大王」の「朝庭」である。
(ⅳ) この歌の時代が七世紀であれば、「大王」も「遠の朝庭」も九州王朝(倭国)のことと考えざるを得ない。
(ⅴ) 八世紀の歌であれば大和朝廷の「大王」(天皇)のこととなるが、筑紫(太宰府)に大和朝廷が自らの「朝庭」を置いたことはない。
(ⅵ) 従って、「遠の朝庭」は筑紫にある九州王朝の「朝庭」のことであり、「大王」は九州王朝の天子であり、このとき筑紫から遠くはなれた〝近つ朝庭(みかど)〟とでも言うべき所に九州王朝の「大王」(天子)はいたと考えられる(注③)。
(ⅶ) 以上ような、この歌の解釈に整合するのが九州王朝の両京制(注④)という概念である。

 この両京制の両京とは、筑紫太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)のことですが、朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡後は太宰府(倭京)と藤原京になるのかもしれません。ここで思い起こされるのが、「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟などで紹介(注⑤)した『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」〈古賀訳〉

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としています。
 また、ここに見える「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記であり、「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えました。しかし、「本宮」に対応するのは「新宮」とした方がよいことに気づきました。たとえば、「本薬師寺」と「新薬師寺」のようにです。七世紀前半(九州年号の倭京元年、618年)に造営された太宰府条坊都市(倭京)が「筑紫本宮」であれば、七世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)に造営された前期難波宮(難波京)を「難波新宮」とするのは極めて妥当です。
 なお、この両京制は、首都とその代替・予備都市としての副都というよりも、権威の都(倭京・筑紫本宮)と権力の都(難波京・難波新宮)のように、評制による全国統治のための機能分離によるものとわたしは理解しています。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻三 304
 大君(大王)の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
[題詞] 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文] 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」、「近つ淡海」「遠つ淡海」のように、「遠」に対応するのは「近」であることから、「遠の朝庭」に対応するのは「近つ朝庭」である。すなわち、「近つ朝庭」の存在がなければ、「遠の朝庭」という表現は成立し難いのではあるまいか。
④古賀達也「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(1)~(10)〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 同「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 同「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2719話 2022/04/13

万葉歌の大王 (7)

 ―八世紀の「大王」と「天皇」―

 万葉歌には「天皇」が使用されている歌があります。次の人麿の歌です。題詞によれば、日並皇子(草壁皇子)が亡くなったときに詠んだもので、持統三年(689)のことになります。

【『万葉集』巻二 0167】(注①)
 天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろき(天皇)の 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が君(王) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]

「すめろきの 敷きます国」の原文は「天皇之 敷座國」です。また、「飛ぶ鳥の 清御原の宮に」(飛鳥之 浄之宮尓)とありますから、大和の飛鳥が歌の舞台です。更に「高照らす 日の御子」(高照 日之皇子)や「我が大君 皇子の命」(吾王 皇子之命)、「皇子の宮人」(皇子之宮人)とあり、「飛鳥」の「浄之宮」に「天皇」や「皇子」がいたとことがわかります。この「天皇」「皇子」呼称は、飛鳥宮遺跡から出土した「天皇」「○○皇子」木簡(注②)と対応しており、七世紀後半の飛鳥宮にいた天武や持統らがナンバーツーとしての「天皇」を名のっていたことを人麿の歌も証言していたことになり、貴重です。
 ちなみに、この歌に対する古田先生の解釈は変化しています。当初、『人麿の運命』(1994年)ではこの歌の「天皇」を持統天皇とし、舞台も大和飛鳥とされていましたが、『壬申大乱』(2001年)では九州王朝の「筑紫飛鳥」での歌とし、「天皇」を「あまつ、すめろぎ」と解し、通例の用法の「天皇」ではないとされました。この古田新説も有力ですので、別途、検証したいと思います。
 そして九州王朝から大和朝廷の時代(八世紀)となり、大和朝廷は公的にはナンバーワンとしての「天皇」や「天子」「皇帝」(『養老律令』「儀制令第十八」、注③)を称します。他方、同じ八世紀成立の万葉歌には、それらナンバーワン「天皇」に対して「大王」が使用されています。

【『万葉集』巻一 0077】(注④)
 吾が大君(大王) ものな思ほし皇神の 継ぎて賜へる 我なけなくに

【『万葉集』巻六 0956】(注⑤)
やすみしし 我が大君(大王)の 食す国は 大和(日本)もここも 同じとぞ思ふ

【『万葉集』巻六 1047】(注⑥)
 やすみしし 我が大君(大王)の 高敷かす 大和(日本)の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君(皇)の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも

【『万葉集』巻六 1050】(注⑦)
 現つ神 我が大君(皇)の 天の下 八島の内に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山なみの よろしき国と 川なみの たち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺も繁に 巌には 花咲きををり あなあはれ 布当の原 いと貴 大宮所 うべしこそ 吾が大君(大王)は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも

 このように近畿天皇家が日本国のナンバーワン「天皇」や「天子」「皇帝」を称していたとき、万葉歌では伝統的な古称「大王(おおきみ)」を歌人たちは使用していることがわかります。ここには、古田先生が主張した「大王≠天子(天皇)」という〝基本ルール〟は採用されていないのです。
 万葉歌には「おおきみ」という倭語に対して「大王」という表記が使用され、その伝統は九州王朝時代に遡るものと思われます。そして八世紀の大和朝廷の歌人たちは、この古称「大王」表記の伝統を受け継いだわけです。(つづく)

(注)
①[題詞] 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
 [原文] 天地之初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
②古賀達也「洛中洛外日記」2356話(2021/01/23)〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟において、「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」と記された木簡の出土を紹介した。
③『養老律令』「儀制令第十八」に次の規定がある。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
④[題詞](和銅元年戊申 / 天皇御製)御名部皇女奉和御歌
 [原文] 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
⑤[題詞] 帥大伴卿和歌一首
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
⑥[題詞] 悲寧樂故郷作歌一首[并短歌]
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀※塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
 [左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
 ※塊の字は、元暦校本では山偏に鬼とする。
⑦[題詞] 讃久邇新京歌二首[并短歌]
 [原文] 明津神 吾皇之 天下 八嶋之中尓 國者霜 多雖有 里者霜 澤尓雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合郷跡 山代乃 鹿脊山際尓 宮柱 太敷奉 高知為 布當乃宮者 河近見 湍音叙清 山近見 鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響尓 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁尓 巌者 花開乎呼理 痛怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曽 吾大王者 君之随 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜
[左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)


第2717話 2022/04/11

万葉歌の大王 (6)

 ―万葉仮名「キミ」の変遷―

 万葉歌に見える「オオキミ」表記に次いで、今回は「キミ」について考察します。キミが倭王やその妃の呼称とされていたことが『隋書』俀国伝に見えます。
多利思北孤のことを「號阿輩雞彌」(阿輩のキミ=わが君)、妻を「王妻號雞彌」(雞彌=キミ)としており、王や妃をキミと呼んでいたことがわかります。すなわち、倭国では高貴な人物をキミと呼んでいたわけです。その中でも最高権力者にはオオを付してオオキミと呼び、その漢字表記として「於富吉美」「大王」が万葉歌に見えることを紹介してきました。キミも同様で、一字一音表記として次の用例が『万葉集』にあります。

【『万葉集』巻五 0860】
 「松浦川 七瀬の淀は淀むとも 我れは淀まず 君をし待たむ」
[題詞] (娘等更報歌三首)
[原文] 麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武

【『万葉集』巻五 0865】
 「君を待つ 松浦の浦の娘子らは 常世の国の 海人娘子かも」
[題詞] 和松浦仙媛歌一首
[原文] 伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可忘

【『万葉集』巻五 0867】
 「君が行き 日長くなりぬ奈良道なる 山斎の木立も 神さびにけり」
[題詞] (思君未盡重題二首)
[原文] 枳美可由伎 氣那我久奈理奴 奈良遅那留 志満乃己太知母 可牟佐飛仁家里
[左注] 天平二年七月十日

このようにキミに、「吉美」「伎弥」「枳美」の字をあてています。訓読みとしては「君」が多く使用されていますが、「公」も見えます。他方、オオキミのキミ部分に「皇」を使った「大皇」という表記も見えます。

【『万葉集』巻三 0441】
 「大君の 命畏み大殯の 時にはあらねど 雲隠ります」
[題詞] 神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首
[原文] 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座

【『万葉集』巻三 0460】
「栲づのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り来まして 大君の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして 敷栲の 家をも作り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに たもとほり ただひとりして 白栲の 衣袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや」
[題詞] 七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首[并短歌]
[原文] 栲角乃 新羅國従 人事乎 吉跡所聞而 問放流 親族兄弟 無國尓 渡来座而 大皇之 敷座國尓 内日指 京思美弥尓 里家者 左波尓雖在 何方尓 念鷄目鴨 都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓 哭兒成 慕来座而 布細乃 宅乎毛造 荒玉乃 年緒長久 住乍 座之物乎 生者 死云事尓 不免 物尓之有者 憑有之 人乃盡 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山邊乎指而 晩闇跡 隠益去礼 将言為便 将為須敝不知尓 徘徊 直獨而 白細之 衣袖不干 嘆乍 吾泣涙 有間山 雲居軽引 雨尓零寸八
[左注] (右新羅國尼名曰理願也 遠感王徳歸化聖朝 於時寄住大納言大将軍大伴卿家 既逕數紀焉 惟以天平七年乙亥忽沈運病既趣泉界 於是大家石川命婦 依餌藥事 徃有間温泉而不會此喪 但郎女獨留葬送屍柩既訖 仍作此歌贈入温泉)

この二首はいずれも八世紀の大和朝廷の時代(神亀六年、天平七年)に詠まれた歌ですが、近畿天皇家が「天皇」を称していたこともあって、オオキミのキミの字に「皇」の字を使用したのかもしれません。(つづく)