九州王朝(倭国)一覧

第2916話 2023/01/14

多元史観から見た古代貨幣「富夲銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、出土が知られているのが無文銀銭と富夲銅銭(注①)です。いずれも出土分布の中心は近畿地方であり、残念ながら九州からの出土は確認できていません。
「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』には和同開珎が大和朝廷最初の貨幣としていますから、七世紀後半の遺構から出土(注②)している富夲銭は九州王朝の貨幣と考えざるを得ません。この考古学的出土事実と対応する記事が『日本書紀』天武紀に見えます(注③)。

○「夏四月の戊午の朔壬申(15日)に、詔して曰く、「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を用ゐること莫(なか)れ」とのたまふ。乙亥に、詔して曰く、『銀用ゐること止むること莫れ』とのたまふ。」天武十二年(683年)四月条。

この「銀銭・銅銭」記事が時期的に富夲銭に相当しますが、そうであれば出土した富夲「銅銭」の他に富夲「銀銭」もあったことになります。なお、富夲銭出土以前は同記事の「銀銭・銅銭」の鋳造年代は未詳とされていました(注④)。また、この記事は造幣開始記事ではありませんから、九州王朝(倭国)により既に銀銭・銅銭が発行されていたことを示唆しています。しかし、天武十二年(683年)の十八年後には九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代しますから、富夲銭は広く大量に流通したわけではないようです。(つづく)

(注)
①「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
②飛鳥池遺跡や上町台地の細工谷遺跡、藤原宮跡などから富夲銭が出土している。
③日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。
④日本古典文学大系『日本書紀 下』(457頁)頭注には「これらの銀銭・銅銭の鋳造年代は未詳。」とある。


第2911話 2023/01/08

九州王朝の末裔、「筑紫氏」「武藤氏」説

九州王朝研究のテーマの一つとして、その末裔の探索を続けてきました。その成果として高良玉垂命・大善寺玉垂命が筑後遷宮時の九州王朝(倭国)の王とする研究(注①)を発表し、その末裔として稲員家・松延家・鏡山氏・隈氏など現代にまで続く御子孫と遭遇することができました。他方、七世紀になって筑後から太宰府に遷都した倭王家(多利思北孤ら)の末裔については調査が進んでいませんでした。
古田説によれば、筑紫君薩野馬などの「筑紫君」が倭王とされていますので、古今の「筑紫」姓について調査してきました。調査途中のテーマですが、筑紫君の末裔について記した江戸期(幕末頃)の史料『楽郊紀聞』を紹介します。同書は対馬藩士、中川延良(1795~1862年)により著されたもので、対馬に留まらず各地の伝聞をその情報提供者名と共に記しており、史料価値が高いものです。そこに、「梶田土佐」(未詳)からの伝聞情報として、筑紫君の後裔について次の記事が見えます。

「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞こえたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子共をつれて黒田長政殿にも嫁ぎし由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上(梶田土佐話)。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁。(注②)

ここに紹介された筑紫上野介は戦国武将として著名な筑紫広門のことです。この筑紫氏が「往古筑紫ノ君の末」であり、その子孫が筑前黒田藩に仕え、「只今二軒ある」としています。この記事に続いて、校注者鈴木棠三氏による次の解説があります。

「*筑紫広門。椎門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。両度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁

この解説によれば、「中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した」とあることから、現在、九州地方での「武藤」さんの分布が佐賀市や柳川市にあり(注③)、この人達も九州王朝王族の末裔の可能性があるのではないかと推定しています。これまで九州王朝の末裔調査として「筑紫」さんを探してきましたが、これからは「武藤」さんの家系についても調査したいと思います。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②『楽郊紀聞』中川延良(1795~1862年)、鈴木棠三校注、平凡社、1977年。
③「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
〔武藤〕姓 人口 約86,800人 順位 245位
【都道府県順位】
1 東京都 (約8,800人)
2 岐阜県 (約6,900人)
3 埼玉県 (約6,500人)
4 神奈川県 (約6,400人)
5 愛知県 (約6,200人)
6 福島県 (約6,000人)
7 茨城県 (約4,700人)
8 千葉県 (約4,700人)
9 北海道 (約3,700人)
10 秋田県 (約3,600人)

【市区町村順位】
1 岐阜県 岐阜市 (約2,100人)
2 福島県 二本松市 (約1,200人)
3 岐阜県 関市 (約800人)
3 秋田県 秋田市 (約800人)
5 岐阜県 郡上市 (約800人)
5 山梨県 富士吉田市 (約800人)
5 茨城県 常陸太田市 (約800人)
8 秋田県 大仙市 (約800人)
9 群馬県 高崎市 (約800人)
10 佐賀県 佐賀市 (約700人)

【小地域順位】
1 山梨県 富士吉田市 小明見 (約300人)
2 群馬県 太田市 龍舞町 (約300人)
3 山梨県 富士吉田市 下吉田 (約300人)
4 茨城県 常陸太田市 春友町 (約300人)
5 福岡県 柳川市 明野 (約200人)
6 千葉県 印西市 和泉 (約200人)
7 群馬県 北群馬郡吉岡町 下野田 (約200人)
8 神奈川県 逗子市 桜山 (約200人)
8 岐阜県 郡上市 相生 (約200人)
8 茨城県 那珂市 本米崎 (約200人)


第2904話 2022/12/31

『多元』No.173の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.173が届きました。同号には拙稿「宮名を以て天皇号を称した王権」を掲載していただきました。同稿は、『東京古田会ニュース』二〇六号(二〇二二年九月)に掲載された橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」での重要な指摘を受けて著したものです。それは次の指摘です。

「(古田説によれば、船王後墓誌に見える)宮は天皇ごとに違うので、九州王朝は国王が変わるたびに中心となる宮の場所が変わる制度をもっていたことになるわけです。国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。『天皇の坐す宮』と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか」 ※()内は古賀による補記。

この橘高さんの問題提起を受けて、九州王朝(倭国)が七世紀前半頃に恒久的都城・宮として「太宰府」条坊都市(名称はおそらく「倭京」)を造営した後、そこで即位・君臨した天子は何と呼ばれたのかについて考証したものです。関東の研究者たちとの学問的交流により、わたしの問題意識が深められました。
当号には和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)による「一年を顧みて」が掲載されています。そこで七世紀の太宰府の編年研究について次のように述べています。

 「太宰府は九州王朝の首都の有力候補地と考えられます。しかし、その首都機能の成立年代はなかなか確定しません。(中略)新たな論拠、新たな物証が見つかった時点で議論を前に進めることが賢明なのではないかと愚考します。」

太宰府成立研究におけるエビデンス(出土物など)に基づく新たな研究を示唆されたものです。既存エビデンスの精査をはじめ、新たなエビデンスや視点に基づいた研究を進めたいと思います。


第2900話 2022/12/25

「正税帳」に見える「番匠」「匠丁」

 吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)による、上田市に遺る神科条里と当地に遺存する「番匠」地名の研究(注①)に触発され、古代史料中の「番匠」記事を調べましたので紹介します。
 『寧楽遺文 上』(注②)を精査したところ、次の「番匠」とその構成員である「匠丁」を見いだしました。

○尾張國正税帳 天平六年(734年)
 「番匠壹拾捌人、起正月一日盡十二月卅日、合參伯伍拾伍日 單陸阡參伯玖拾人」

○駿河國正税帳 天平十年(738年)
 「匠丁宍人部身麿從 六郡別半日食爲單參日從」

○但馬國正税帳 天平十年(738年)
 「番匠丁粮米壹伯陸斛肆斗 充稲貳仟壹伯貳拾捌束」
 「匠丁十二人、起正月一日迄九月廿九日、合二百六十五日、單三千百八十日、食料米六十三斛六斗、人別二升」

○出雲國計會帳 天平六年(734年)
「  一二日進上下番匠丁幷粮代絲價大税等數注事」
 「三月
    一六日進上仕丁厮火頭匠丁雇民等貳拾陸人逃亡事
      右差秋鹿郡人日下部味麻充部領進上、」
 「四月
    一八日進上匠丁三上部羊等參人逃亡替事
      右差秋鹿郡人額田部首眞咋充部領進上、」

 これらの記事によれば、尾張国・駿河国・但馬国・出雲国から都(平城京)へ「番匠」「匠丁」が送られたことがわかります。都でどのような工事に携わったのかは未調査です。
 「番匠」の最初が九州年号の常色二年(648年)頃であったとする記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」が『伊予三島縁起』に見えます(注③)。九州年号の白雉元年(652年)に大規模な前期難波宮が完成していることから、このときの番匠は難波に向かい、九州王朝の複都難波宮の造営に携わったと考えられます。こうした九州王朝による「番匠」制度を大和朝廷も採用したのであり、その痕跡が上記史料に遺されていたわけです。

(注)
①吉川八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会主催「古代史の会」、2022年10月。
②竹内理三編『寧楽遺文 上』昭和37年版。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第2899話 2022/12/24

筑紫舞「翁」成立年代の考察

 倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります。「翁」には「三人立(だち)」「五人立」「七人立」「十三人立」がありますが、西山村光寿斉さん(注①)によれば「十三人立」は伝わっていないとのこと(注②)。この翁の舞は、諸国の翁が都(筑紫)に集まり、その国の舞を舞うという内容です。その国とは次の通りです。

《三人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」
《五人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」
《七人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「夷(えびす)の翁」

 古田先生の解説によれば、翁の舞の原初形は「三人立」で、倭国(九州王朝)の領域拡大とともに「五人立」「七人立」と増え、それぞれの成立年代を次のように推定されました。

《三人立》弥生時代前期。筑紫を原点(都)として、東の辺境を越(後の加賀)、南の辺境を肥後とする時代。
《五人立》六世紀。翁の舞の中心人物が「三人立」では「都の翁」だが、「五人立」「七人立」では「肥後の翁」が中心となっていることから(注③)、肥後で発生した装飾古墳が筑紫(筑後)へ拡大した時代。
《七人立》七世紀前半。「夷の翁」(蝦夷国あるいは関東地方)が現れることから、多利思北孤の「東西五月行、南北三月行」(『隋書』俀国伝)の領域の時代。

 筑紫舞の「翁」の〝増加〟が倭国(九州王朝)の発展史に対応しているとする古田先生の理解に賛成です。また、その成立時期についても概ねその通りと思いますが、現在の研究状況を踏まえると次の諸点に留意が必要と思われます。

(1) 筑紫舞と呼ばれることから、「都の翁」の都とは筑紫であることは古田先生の指摘通りだが、「筑前の翁」でも「筑後の翁」でもないことから、多利思北孤による六十六国分国の前に成立した「舞」である。
(2) そうであれば、弥生時代や六世紀の成立とする「三人立」「五人立」に登場する「肥後の翁」の「肥後」の本来の国名は「火の国」であったと思われる。
(3) 同様に「加賀の翁」の「加賀」も分国後の名称であり、「三人立」「五人立」での本来の国名は「越の国」となる。
(4) 「五人立」になって登場する「難波津より上りし翁」は、倭の五王時代の九州王朝による難波進出に対応している。大阪市上町台地から出土した古墳時代の国内最大規模の大型倉庫群が考古学的史料根拠である。
(5) 分国後に成立したとされる「七人立」の「夷の翁」の「夷」は蝦夷国(陸奥国)とするのが穏当と思われる。
(6) 弥生時代成立の「三人立」に、天孫降臨の中心舞台の一つである「出雲国」(当時の「大国」)が登場しないことは、「出雲国」はまだ独立性を保っており、九州王朝への「舞」の奉納をしなていかったのではないか。
(7) 古墳時代に至り(倭の五王の時代か)、「出雲国(大国)」は九州王朝の傘下に入り、「五人立」「七人立」には「出雲の翁」が登場することになったと思われる。

 以上の考察の当否は今後の研究と検証に委ねますが、筑紫舞の「翁」の変遷が倭国(九州王朝)の歴史(版図)と対応しているようで、興味深く思っています。

(注)
①西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。
②古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に経緯が詳述されている。
③同②の「あとがきに代えて」に次の経緯が紹介されている。
 〝今年(一九八二)の十一月上旬、西山村光寿斉さんから電話がかかってきた。「大変なことに気がつきました」「何ですか」「今、翁の三人立を娘たちに教えていたところ、どうも勝手がちがうのです。これは、五人立や七人立とちがって、都の翁が中心なんです」「……」「前に、翁は全部肥後の翁が中心だといいましたけれど、えらいことをいうてしもて」「結構ですよ。事実だけが大切なのですから」「検校はんから三人立を習うとき、近所から習いに来てた子が、都の翁になって中心にいるので、わたし、すねたことがあるんです。今、手順を追うているうちに、ハッキリそれを思い出しました。……」〟ミネルヴァ書房版、264~265頁。


第2898話 2022/12/19

筑紫舞「翁」と六十六国分国

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝について調査したところ、正木裕さんの能楽研究に行き着きました。同研究によれば、世阿弥『風姿華傳』に見える秦河勝記事などに注目され、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」(『風姿華傳』)は九州王朝の多利思北孤(上宮太子)が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことを表現しているとされました。そして、次のように結論づけました。

〝本来、「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴、ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥のいう「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。〟(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』にも同様の記事があり、翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されています。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』

 この『明宿集』の記事で注目されるのが、「秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ」「翁一体ノ御面ナリ」とあるように、秦河勝が「翁」を舞ったという所伝です。倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります(注②)。西山村光寿斉さん(注③)により、現代まで奇跡的に伝承された舞です。正木さんが論じられたように、九州王朝の「六十六国分国」と筑紫舞の「翁」には深い歴史的背景があるようです。(つづく)

(注)
①正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
②『続日本紀』天平三年(731年)七月条に雅楽寮の雑楽生として「筑紫舞二十人」が見える。筑紫舞の「翁」には、「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」があるが、「十三人立」は伝わっていないという。
③西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に、その経緯が詳述されている。


第2897話 2022/12/18

天孫に君臨する菩薩天子

 昨日はエル大阪(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月はキャンパスプラザ京都6階(ビックカメラJR京都店の北)で開催します。午後は恒例の新春古代史講演会(注)を同施設4階で開催します。

 このところ研究ジャンルが広がり、ハイレベルの発表が続いている関西例会ですが、発表テーマをご覧になってわかるように、今月も様々な研究が発表されました。とりわけ、わたしが注目したのが日野さんの倭国(九州王朝)の政治思想についての研究です。やや説明や論理構造が難解だったこともあり、疑問意見が続出しましたが、多利思北孤が菩薩戒を受けたのは、「菩薩天子」となることにより、国内の天孫諸豪族の上位に立つためであるとする見解は鋭い指摘だと感心しました。
 仏教思想では仏や菩薩は諸天善神よりも上位であり、倭王(天子)は出家しなくても受戒できる菩薩天子となることにより、天孫降臨以来の多くの天神の末裔たちの上に宗教的にも世俗的にも君臨することができたというのが、日野説の論点です。この統治思想は隋の煬帝も持っていたとのことで、おそらく多利思北孤はそれに倣い、国内統治のために仏教を国家的に受容したことになります。ちなみに、王朝交代後の大和朝廷でも聖武天皇らにより採用されています。古代史と思想史を融合したこの日野さんの研究に注目しています。

 12月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔12月度関西例会の内容〕
①『隋書』俀国伝の二つの都 (姫路市・野田利郎)
②常世国と非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)について ―大原重雄氏の『日本書紀』の史料批判の方法をめぐって― (神戸市・谷本 茂)
③縄文語で解く記紀の神々・第九話 カグツチ神から生じた神々 (大阪市・西井健一郎)
④消された詔と移された事情(前) (東大阪市・萩野秀公)
⑤聖地の記述に隠された王朝交代 (茨木市・満田正賢)
⑥縄掛け突起や石棺の形状の系譜 (大山崎町・大原重雄)
⑦傾斜のある石棺 (大山崎町・大原重雄)
⑧今城塚古墳の特徴から垣間見える騎馬遊牧民の姿 (大山崎町・大原重雄)
⑨十七条憲法と「菩薩天子」イデオロギーの違い (たつの市・日野智貴)
⑩同時代史料で九州王朝の天皇はどう呼ばれていたか (八尾市・服部静尚)
⑪多賀城碑から「東西5月行、南北3月行」を検証する (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 01/21(土) 会場:キャンパスプラザ京都(京都市下京区、ビックカメラJR京都店の北)

(注)
【令和5年 新春古代史講演会 よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院】
□日時 2023年1月21日(土) 午後1時開場~5時
□会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170名
□主催 市民古代史の会・京都、古田史学の会・他
□参加費 500円(資料代) ※学生は学生証提示で無料
□講師・演題
 高橋潔氏(公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
     「京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―」
 古賀達也(古田史学の会・代表)
     「『聖徳太子』伝承と古代寺院の謎」


第2893話 2022/12/12

六十六ヶ国分国と秦河勝

 聖徳太子の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝が、『隋書』俀国伝に見える秦王国の秦王に相応しいと「洛中洛外日記」で論じてきましたが、その根拠は次のようなことでした。

(1)『日本書紀』の記事の年次(推古十一年、603年)と『隋書』俀国伝の時代が共に七世紀初頭頃であること。
(2) 秦造河勝の姓(かばね)の「造(みやっこ)」が秦氏の長と考えられ、秦王国の王である秦王と同義とできる。『新撰姓氏録』にも秦氏の祖先を「秦王」と称す記事がある。
(3) 多利思北孤と秦王国の秦王、「聖徳太子」と秦造河勝という組み合わせが対応している。
(4) 古田史学・九州王朝説によれば、多利思北孤や利歌彌多弗利の事績が「聖徳太子」伝承として転用されていることが判明している。

 こうした古代文献による論証に加えて、中世の能楽書(注①)に記された聖徳太子と秦河勝の次の記事にも興味深いテーマがあります。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』

 この記事などからは、次の状況が読み取れます。

(a) 多利思北孤が上宮太子の時、天下が少し乱れていた。『隋書』によれば、多利思北孤が天子の時代の俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされており、〝天下少し障りありし時〟が太子の時代とする、この記事は妥当。
(b) その時、三十三ヶ国を六十六ヶ国とすべく、分国を秦河勝に命じた。〝上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟とあることから、「蘇我・物部戦争」において、秦河勝が活躍したことがうかがえる。また、『日本書紀』皇極三年(644年)条によれば、東国の不尽河(富士川)の大生部多(おおふべのおお)を秦造河勝が討っており、秦氏が軍事的氏族であることがわかる。分国実施に於いても秦氏の軍事力が貢献したと思われる。
(c) 分国を多利思北孤が太子の時代(鏡當三年、583年。注②)、あるいは天子即位時(端政元年、589年。注③)とする、正木裕さんやわたしの研究がある(注④)。

 上記の一連の考察(史料根拠に基づく論理展開)の結果、わたしは秦氏(秦王)を九州王朝(倭国)における軍事的実働部隊としての有力氏族と考えたのですが、秦造河勝のように、姓(かばね)に「造(みやっこ)」を持つ氏族は連姓の氏族よりも地位が低いと通説ではされているようです(注⑤)。そうした例の「○○造」があることを否定しませんが、秦氏や秦造河勝についていえば、『日本書紀』の記事や「大宝二年豊後国戸籍」に多数見える「秦部」の存在などからも、有力氏族と考えた方がよいと思います。たとえば平安京の造営も、通説では秦氏の貢献が多大と言われているのですから。(つづく)

(注)
①世阿弥『風姿華傳』、禅竹『明宿集』など。
②『日本略記』(文禄五年、1596年成立)に次の分国記事が見える。
〝夫、日本は昔一島にて有つる。人王十三代の帝成務天皇の御宇に三十箇國にわらせ給ふ也。其後、大唐より賢人来て言様は、此國はわずかに三十三箇國也、是程小國と不知、まことに五十二位に不足、いささか佛法を廣ん哉といふて帰りけり。其後、人王丗四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年癸卯六十六箇國に被割けり。郡五百四十四郡也。〟
③『聖徳太子傳記』(文保二年、1318年頃成立)に次の分国記事が見える。冒頭の〝太子十八才御時〟は九州年号の端政元年(589年)にあたる。
〝太子十八才御時
 春正月参内執行國政也、自神代至人王十二代景行天皇ノ御宇國未分、十三代成務天皇ノ御時始分三十三ケ國、太子又奏シテ分六十六ヶ国玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ作九ケ國、名西海道也〟
④古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤日野智貴氏のご教示による。web上でも次の解説が見える。
〝古代の姓((かばね)の一つ。その語源は、御奴、御家ッ子など諸説がある。地方的君主の尊称などといわれる。古くは、国造や職業的部民の統率者である伴造がみずから称したものであろう。姓が制度化された5世紀頃以降、造姓をもつ氏族は200ほど知られている。その大部分は天皇や朝廷に属する職業的部民の伴造か、名代、子代の部の伴造で、中央の氏族が多く、連姓の氏族よりもその地位は低かった。天武朝の八色の姓(やくさのかばね)の制定で,造を姓とする氏族のうち有力なものは連以上の姓を賜わった。〟ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「造」の解説。


第2892話 2022/12/11

秦王と秦造

 古田説によれば『隋書』俀国伝に見える「秦王国」を〝文字通り「秦王の国」〟と理解されており、わたしも同意見です。

〝では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。〟(注①)

 このように古田先生は述べています。もし現地名の表音表記であれば、「しんおう」あるいはそれに近い音の地名に「秦王」という漢字を採用したことになり、他の表音表記の「邪靡堆(やまたい、やひたい)」「都斯麻(つしま)」「一支(いき)」「竹斯(ちくし)」「阿蘇(あそ)」とは異質です。それでは秦王とは誰のことでしょうか。七世紀初頭頃に秦王と呼ばれた、あるいはそれにふさわしい人物が国内史料中に遺されているでしょうか。この問題について考えてみました。
 「秦王国」という国名表記からうかがえることは、その領域規模は不明ですが、「秦王」という名称を国名に採用することが九州王朝から許されているわけですから、秦王は多利思北孤の〝右腕〟ともいえる氏族のように思われます。そこでわたしが注目したのが秦造河勝で、その姓(カバネ)の「造(みやっこ)」が根拠の一つでした。これはある地域や集団の長を意味する姓と考えられます。たとえば「○○国造」とか「評造」(注②)などのようにです。那須国造碑や「出雲国造神賀詞」(注③)は有名ですし、氏族名の姓としても『新撰姓氏録』に「○○造」が散見され、「秦造」もあります(注④)。この理解が正しければ、秦造河勝とは秦氏の造(長)の河勝とする理解が可能となり、当時の「秦王」にふさわしい人物ではないでしょうか。その痕跡が『新撰姓氏録』の「太秦公宿禰」(左京諸蕃上)に見えます。仁徳天皇が秦氏のことを「秦王」と述べています。

〝(仁徳)天皇詔曰、秦王所獻絲綿絹帛。朕服用柔軟。温暖如肌膚。仍賜姓波多。〟『新撰姓氏録』太秦公宿禰(左京諸蕃上)

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)に見える秦造河勝の記事からも、そのことがうかがわれます。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。(後略)〟『日本書紀』皇極三年条

 葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったという記事で、その行動範囲が東国(駿河国)にまで及んでいることから、広範囲に展開する軍事集団の長のように思われます。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②『常陸国風土記』多珂郡条に「石城評造部志許」の名が見える。
③『古事記 祝詞』日本思想体系、岩波書店、1958年。
④「秦造 始皇帝五世孫融通王之後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃上。


第2891話 2022/12/09

『風姿華傳』『明宿集』

    に記された秦河勝

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を創建したとされる秦河勝は、〝申楽(さるがく)の祖〟として世阿弥(1363-1443年)の『風姿華傳』にも名を遺しています。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。上宮太子、末代の爲、神楽なりしを、神といふ文字の片を除けて、旁を残し給(ふ)。是日暦の申なるが故に、申楽と名付く。すなはち、楽しみを申(す)によりてなり。又は、神楽を分くればなり。
 彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉る。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』には、荒唐無稽とも思われる翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されており、その記事の一部を紹介します。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』(注②)

 これらの能楽書の秦河勝記事で注目されるのが、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」に見える「上宮太子」と「六十六番」という表記です。というのも、九州王朝の多利思北孤が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことが、わたしたちの研究により判明しているからです(注③)。能楽書に基づいて、このテーマを詳述した正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による優れた研究もあります(注④)。
 こうした伝承も、「蜂岡寺」(後の広隆寺)が倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の多利思北孤とすることを示唆しています。従って、七世紀の京都市の廃寺群は九州王朝の進出の痕跡と考えることができます。従って、『日本書紀』はこれら廃寺(注⑤)の存在を記さなかったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『歌論集 能楽論集』日本古典文学大系、岩波書店、1961年。
②『世阿弥 禅竹』日本思想体系24、岩波書店、1974年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤北野廃寺(北区)、樫原廃寺(西京区)、北白川廃寺(左京区)、大宅廃寺(山科区)など。
 北野廃寺は北山背最古(七世紀初頭頃)の寺院で、国内でも最古級。樫原廃寺は七世紀で唯一の八角仏塔をもち、創建年代も八角殿を持つ前期難波宮(652年)と同時期。北白川廃寺は吉備池廃寺に次ぐ巨大金堂基壇を持つ。大宅廃寺の瓦は藤原宮の瓦と同范で、大宅廃寺が先行する。


第2890話 2022/12/08

『日本書紀』に記された秦造河勝

 西日本を中心とした秦氏の分布は、倭国(九州王朝)の領域拡大、たとえば〝倭の五王〟時代の東方進出(注①)や、『隋書』に見える多利思北孤時代の河内進出(注②)と六十六ヶ国分国(注③)に伴ったものではないかと推察しています。そうした秦氏の一人に、「聖徳太子」の命により蜂岡寺(京都の広隆寺とされている)を創建したと、『日本書紀』で次のように伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。

 『日本書紀』推古天皇十一年(603年)
〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
 「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
 「私が拝み祭る。」
 すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟

 この推古11年条(603年)に見える蜂岡寺が京都市右京区太秦蜂岡町にある広隆寺のこととされています。同寺の推定旧域内からは七世紀前半の飛鳥時代に遡る瓦が出土しており、考古学的にも妥当な有力説です。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺と考える考古学者や研究者もあります。
 もう一つわたしが注目しているのは、皇極紀三年条に見える次の秦造河勝の記事てす。

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)
〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
 太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
 この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟

 これは不思議な記事です。葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったというもので、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」記事です。〝常世の虫〟を都の人までもが崇めているというのですから、事実とすれば、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことになります。しかも現在の京都市の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのですから、九州王朝説の視点からすれば、倭国(九州王朝)による東国制服譚の一端と捉えなければなりません。その時代が『日本書紀』の記述の通りであれば、多利思北孤の時代ですから、都とは倭京(太宰府)のことと考えられます(注④)。
 しかしながら、『隋書』俀国伝によれば、俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされていますので、『日本書紀』の年次をそのまま信用しても良いのか疑問が残ります(注⑤)。いずれにしても、葛野の秦造河勝は近畿天皇家ではなく、倭国(九州王朝)の臣下と考えた方がよさそうです。そうであれば、「蜂岡寺」(後の広隆寺)も倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の天子である阿毎多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のこととする仮説が成立しそうです。(つづく)

(注)
①『宋書』倭国伝の〝倭王武の上表文〟に、倭国の侵攻による支配地拡大がの様子が見える。
②冨川ケイ子「河内戦争」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
 正木裕「倭国の城塞首都『太宰府』」、「よみがえる『倭京』大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
⑤日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)によれば、『日本書紀』に見える九州王朝記事は年次をずらして転用するのが常であるとのこと。


第2889話 2022/12/07

「大宝二年豊前国戸籍」の秦部氏

 『隋書』俀国伝の秦王国の位置を〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟とわたしは考えており、現代の名字でも「秦」さんがうきは市に濃密分布していることに注目しています。しかしながら、明治時代に近代的な戸籍制度が施行されたとき、古来から続いた本姓を名字とすることを明治政府が禁止(注①)しているので、古代からの「秦」姓ではなく別の名字や同音の別字(注②)に置き換えて戸籍登録したと考えられ、現代の「秦」さんの分布実態がそのまま古代の「秦氏」の分布を示しているとは限りません。しかしながら、地域差もあるようで、明治政府の命令を厳格に適用した地域と、そうではなかった地域もあるようです(注③)。
 そのため、古代史料に基づいて秦氏の分布状況を調べなければなりません。たとえば、「大宝二年(702)豊前国戸籍」(注④)に「秦部」姓が多数見えることは著名です。「秦部」は秦氏の部民とされており、同戸籍には316名の「秦部」が記載されています。次の通りです。

「豊前国戸籍(大宝2年)」の秦部(注⑤)
 仲津郡丁里  217
 上三毛郡塔里  63
 加目久也里  26
 某里     10
 計  316

 この他、多くの史料中に「秦」の名が散見され、西日本を中心に各地に分布していたことがうかがえます(注⑥)。おそらく、この秦氏の分布は九州王朝(倭国)の進出に伴ったものではないかと推察していますが、その一人に、京都の広隆寺を創建したと伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。(つづく)

(注)
①管見によれば、明治政府は名字(苗字)に関わる下記の布告を発しており、この中の「姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号)」が「本姓」使用禁止の布告である。
〈発布年次 太政官布告 内容〉
○明治3年(1870)9月19日 平民苗字許可令(太政官布告第608号) 平民も自由に苗字を公称できる。
○明治3年(1870)11月19日 国名・旧官名使用禁止令(太政官布告第845号) 名前に国名(例えば但馬守や阿波守)や旧官名(衛門や兵衛)の使用禁止。
○明治4年(1871)4月4日 全国統一の「戸籍法(壬申戸籍)」制定(大政官布告第170号)
○明治4年(1871)10月12日 姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号) 日本人は公的に本姓を名乗ることはできない。
○明治5年(1872)5月7日 複名禁止令(太政官布告第149号) 公的な本名が一つに定まる。
○明治5年(1872)8月24日 改名禁止令(太政官布告第235号) 登録済みの苗字(約12万種)の変更と屋号の改称を禁止。
○明治8年(1875)2月13日 平民苗字必称令(太政官布告第22号) 国民はすべて苗字を公称せねばならぬ義務。
②羽田、波田など。日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示を得た。
③日野智貴「近代の本姓」古田史学リモート勉強会(2022年7月9日)で発表。
④『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)。
⑤「みやこ町歴史民俗博物館 WEB博物館『みやこ町遺産』」による。
⑥『ウィキペディア』には次の秦氏が紹介されている。
 秦氏の系統(一覧)
○豊前秦氏 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上群)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都群みやこ町付近)の秦部や氏名が横溢している。
○葛野秦氏 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公、秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
○深草秦氏 拠点は山城国紀伊郡深草。上宮王家が所有する深草屯倉を管理経営したとされる。大蔵の財政官人を務めた秦大津父(おおつち)、秦伊侶具(伏見稲荷大社の建立)など。
○播磨秦氏 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。
○近江依知秦氏 依知や近江など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
○若狭秦氏 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
○越前秦氏 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
○東国秦氏 駿河国、甲斐国、相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
○信濃秦氏 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる。
 ※主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。