九州王朝(倭国)一覧

第2963話 2023/03/13

七世紀の九州王朝都城の〝絶対条件〟

昨日は多元的古代研究会月例会でリモート発表させていただきました。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」で、藤原宮(京)は九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であるため、そこに遺された両王朝の接点としての考古学的痕跡(古代貨幣・地鎮具・造営尺・土壇)の視点から王朝交代の実態に迫りました。更に、「七世紀の九州王朝都城論」という最新研究テーマも追加発表しました。
この新テーマは同会の和田事務局長から打診されていた、本年11月の〝八王子セミナー2023〟での発表のために研究していたものです。その論旨は、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な条件を提示し、その条件を満たしてる都城はどこであり、仮説の当否はこの〝絶対条件〟と整合する必要があるとするものです。その〝絶対条件〟とは少なくとも次の五点です。

《条件1》約八千人の中央官僚(注①)が執務できる官衙遺構の存在
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道・水運の存在
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設(注②)や地勢的有利性の存在

これらの条件を満たせない地を、律令制時代(七世紀)の九州王朝の王都とする仮説は〝空理空論〟との批判を避けられないでしょう。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②「逃げ城」としての山城は、厳密な意味での王都の「防衛」施設とは言いがたい。この点、大野城や基肄城は太宰府防衛の羅城(水城・土塁)と一体化しており、王都防衛施設と見なし得る。


第2955話 2023/03/01

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)

 九州王朝研究に残された大きな課題に、大宰府政庁Ⅰ期の造営年代がありました。政庁Ⅲ期は藤原純友の乱(天慶四年、941年)で政庁Ⅱ期が焼亡した後に再建された礎石造りの朝堂院様式の宮殿です。Ⅱ期も礎石造りの建造物で、ほぼⅢ期と同規模同様式です。言わば、Ⅱ期の真上にⅢ期が再建されたことが調査により判明しています。Ⅱ期造営年代は通説では八世紀初頭とされ、その根拠はⅡ期築地塀の下層から出土した木簡が八世紀初頭前後のものと判断されたことによります(注①)。次の通りです。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀初頭頃とする通説に対して、わたしは観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学の研究結果を重視し、観世音寺の創建瓦(老司Ⅰ式)と同時期の創建瓦(老司Ⅱ式)を持つ政庁Ⅱ期も670年頃としました(注②)。

 掘立柱建造物の政庁Ⅰ期については七世紀前半であり、九州年号「倭京元年(618年)」頃が有力とわたしは考えてきましたが(注③)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟(注④)を発表し、より踏み込んだ理解を示しました。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「太宰府条坊と宮域の考察」(『古代に真実を求めて』第十三集、明石書店、2010年)。
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2669話(2022/01/27)〝政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)〟
同「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
④正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。


第2954話 2023/02/28

3月12日(日)、

「多元の会」でリモート発表します

3月12日(日)の「多元の会・発表と懇談の会」でリモート発表させていただきます。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」。午後2時から開催で、会場(文京区民センター)とSkypeによるハイブリッド形式です。
藤原宮(京)は大和朝廷による初めての本格的都城であり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であったと思われ、両王朝の接点とも言えます。そうであれば、その考古学的痕跡が遺っているはずです。その舞台裏を明らかにすべく、古代貨幣や地鎮具、王都造営尺などの視点から王朝交代の実態に迫ります。
なお、「多元の会」での発表に寄せられるご批判やご質問などを参考にして、一般の古代史ファンにもわかりやすい内容に修正し、4月2日(日)に奈良県橿原文化会館で開催されるシンポジウム「徹底討論 真説・藤原京」(主催:古代大和史研究会 原幸子会長)でも同テーマを発表します。というわけで、現在、パワーポイント資料作成の真っ最中です。


第2951話 2023/02/24

筑紫の月神「高良玉垂命」

過日の「多元の会」リモート研究会で「月読命」が話題に上りました。そのおり、筑後国一宮の高良大社(久留米市)は「月神」と呼ばれていることを紹介しました。同神社のご祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)ですが、『古事記』や『日本書紀』にも記されていない謎の神様です。わたしはこの玉垂命を九州王朝(倭国)の天子のこととする論稿「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」(注①)を発表したことがありますが、この神がなぜ「月神」と呼ばれているのかは知りませんでした。そこで、高良大社研究の碩学、古賀壽(こがたもつ、注②)氏の論文を精査したところ次の解説がありました(注③)。

「すなわち、『高良玉垂宮縁起』(注④)の説くところを要約すれば、高良神は藤大臣という神功皇后異国征伐の際の功臣(武内宿禰と混同される理由もここにある)であるが、実は皇后の祈請に応じて筑紫に降臨した月天子=月神であったというのである。降臨の日、遷幸の日が、ともに九月十三日とされるのも月神の故である。陰暦九月十三日が「後の月」、いわゆる「十三夜」であることはいうまでもなかろう。(中略)
現在のところ、高良と月神の関わりを示す史料の初見は、文治四年(一一八八)七月の『高良社施入帳』(後白河院のため、醍醐寺座主主勝賢権僧正が高良社に大般若経一部六百巻を施入した際の表白文)に、
右高良大明神ハ、内証ヲ金刹ノ雲ニ秘シ、応用ヲ西海ノ月ニ垂レテヨリ以降、久シク百王ノ洪業ヲ護リ、已ニ万代ノ霊祠ト為リタマフ(原漢文)。

とあるものである。この神を月神とする信仰が、古代以来のものであることが知られよう。」(高良山〈筑紫の月神〉)

古賀壽氏によれば、古代から高良神は月神とされていたようです。同稿の末尾には次の言葉が見え、氏の多元的な歴史認識と研究姿勢がうかがわれますので、最後に紹介します。

「高良大社が、その鎮座の地、歴史からしても、古代以来の筑後地方の宗祀であることは疑いを容れぬところである。その主祭神高良玉垂命が月神なのであるから、古代筑紫の最高神は、大和の日神天照に対する、月神玉垂だったのではあるまいか。」
「地方の神社の縁起など、正史を基に創作・捏造されたものと極めつけるのは、もはや時代遅れの中央集権的史観といわねばならないだろう。
本稿に於て私が最も主張したかったのは、実にこの一点に尽きるのである。」

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 — 高良玉垂命考」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2740話(2022/05/14)〝高良大社研究の想い出 (1) ―古賀壽先生からの手紙―〟
③古賀寿「高良山〈筑紫の月神〉」『高良山の文化と歴史』第3号、高良山の文化と歴史を語る会、平成四年(1992年)。
④鎌倉時代後期の成立とされる。


第2950話 2023/02/23

九州王朝(筑後)の日下部(草壁)氏

「洛中洛外日記」前話(注①)で、「古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか」としました。そして、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っていたことを紹介しました。たとえば、平成九年に広川町郷土史研究会より発刊された『稲員家文書』五一通(近世文書)には、佐々木四十臣氏(同会顧問)による「稲員氏の歴史と文書」に次の解説があります。

「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。」

康暦二年(一三八〇年)の奥書を持つ高良大社蔵書『高良玉垂宮大祭祀』にも「三種之神宝者、自草壁党司之事」「草壁者管長先駈諸式令職務也」とあり、稲員家が草壁を名乗っていた当時から三種の神宝を司る高良大社でも中心的な家柄であったことがわかります。
また、『周防国天平十年正税帳』にも筑後国介従六位上の「日下部宿禰古麻呂」の記事が見えます。

「四日、向従大宰府進上御鷹部領使筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂、将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭(以下略)」

大宰府からの献上品(持鷹、御犬)とともに御鷹部領使の日下部宿禰古麻呂という人物が記されています。この筑後国の日下部氏は、高良大社官長職の日下部氏(草壁とも記される稲員家の祖先)と同族の可能性が高く、九州王朝王家一族の一人と思われます。
五〇年に一度執り行われる高良大社御神期大祭御神幸では、稲員家を中心に「三種の神器」などとともに、羽の付いた冠を被った「鷹鳶」と呼ばれる一団が行列に加わります。これも、九州王朝の天子、玉垂命らが鷹狩りをしていた名残ではないでしょうか。拙稿「九州王朝の鷹狩り」(注②)に関連史料を紹介しましたので、ご覧ください。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
②古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復原」『新・古代学』第5集、新泉社、2001年。


第2949話 2023/02/20

甲斐国造の日下部氏と九州王朝

甲斐国造と但馬国造を日下部氏とする諸説(注①)を知り、わたしは赤渕神社史料のことを思い出しました。朝来市にある同神社調査については「洛中洛外日記」などでも報告したように(注②)、九州年号「常色」「朱雀」などを持つ『赤渕神社縁起』の成立は天長五年(828年)で、現存する九州年号史料としては最古級です。
『赤渕神社縁起』によれば、表米宿禰(ひょうまいのすくね)という人物の伝承が記されており、それは常色元年(647年)に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰は孝徳天皇の第二皇子という伝承もありますが、『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えません。そこで、これは九州王朝の王族に関する伝承ではないかと考えています。
この表米宿禰は現地氏族の日下部氏の祖先とされています。他方、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っています。もしかすると、古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関晃「付編1、甲斐国造と日下部」『関晃著作集二 大化改新の研究 下』吉川弘文館、1996年。
古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」『研究紀要 26』山梨県立考古博物館 山梨県埋蔵文化財センター、2010年。
②古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。


第2946話 2023/01/16

『古田史学会報』174号の紹介

 『古田史学会報』174号が発行されました。一面には日野智貴さんの論稿「菩薩天子と言うイデオロギー」が掲載されました。近年の『古田史学会報』に掲載された論稿としては、政治思想史を主題としたもので異色、かつ優れた仮説です。

 九州王朝の天子、阿毎多利思北孤を〝海東の菩薩天子〟と古田先生は述べられましたが、なぜ多利思北孤が「菩薩天子」として君臨したのかを政治(宗教)思想から明らかにしたのが日野稿です。すなわち、天孫降臨以降、日本列島各地に侵出割拠した天孫族(天神の子孫)に対して、多利思北孤は菩薩戒を受戒することにより、仏教思想上で「天神」よりも上位の「菩薩天子」として、全国の豪族を統治、君臨したとするもので、独創的な視点ではないでしょうか。

 当号には、もう一つ注目すべき論稿が掲載されています。正木さんの〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟です。同稿は、大宰府政庁Ⅰ期とⅡ期の成立年代について、文献史学と考古学のエビデンスに基づく編年を提起したものです。太宰府の成立年代としては北部の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも南部の条坊造営が先行し、両者の創建時期を八世紀初頭と七世紀末とする井上信正説(注①)が最有力視されていますが、観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学のエビデンス(注②)と整合していませんでした。

 正木稿では、飛鳥編年に基づく太宰府の土器編年が不適切として、政庁Ⅱ期を670年頃、政庁Ⅰ期を前期難波宮と同時期の七世紀中頃、そして条坊都市の中心にある通古賀(王城神社)が多利思北孤と利歌彌多弗利時代の遺構として「太宰府古層」と命名し、条坊造営と同時期の七世紀前半成立としました。この正木説は有力と思われます。

 拙稿〝九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―〟も大宰府政庁遺構の造営尺と造営時期を論じていますので、併せてお読み頂ければと思います。
上田稿〝九州王朝万葉歌バスの旅〟は『古田史学会報』デビュー作、白石稿〝舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地〟は久しぶりの投稿です。

 174号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』174号の内容】
○菩薩天子と言うイデオロギー たつの市 日野智貴
○九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」― 京都市 古賀達也
○舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地 今治市 白石恭子
○九州王朝万葉歌バスの旅 八尾市 上田 武
○「壹」から始める古田史学・四十
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度会費未納会員へのお願い
○『古代に真実を求めて』26集発行遅延のお知らせ
○編集後記

(注)
①井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
②古賀達也「観世音寺考」119号、2013年。


第2945話 2023/02/15

山梨県の鳳皇山と奈良法皇伝説

山梨県の地誌『甲斐叢記』(注①)に興味深い現地伝承が記されています。同書巻之七に「鳳皇山」の項目があり、次のような説明がなされています。

(1) 鳳皇山 駒岳の東南にて葦倉の北少し西に在り
(2) (その頂に)鳳皇權現の祠あり
(3) 土人云ふ 昔 奈良法皇當國に流され玉ひて此山に登り都を戀ひ玉ひしより法皇が嶽と云となん
(4) 委しくは前編奈良田の條に記せり 併せ見るべし
(5) 峡中紀行に曰く。鳳皇山を問へば、則ち神鳥来り栖し處。字、或は法王に作る。法王大日也。端を山上に現す。
(6) 或いは曰く、法王、東に謫(なが)せらるる時 此山に陟(のぼ)り京師を望む。予、其れを道鏡と爲すを疑う也

この(4)にある同書巻之一「巨摩郡 奈良田」條には次の説明があります。なお、わたしの読み取りや釈文に誤りがあるかもしれませんが、大意に影響はないと思います。

(7) その地山深くして種植熟らざる故 田租徭役を免すは里人相傅へて 昔時某の帝此所に遷幸なり 是を奈良王と称す皇居たる故に十里四方萬世無税の村ふりと云ふ
(8) 村の巽(たつみ)位に二町許りを平なる所 方三十歩なり 是を皇居の址なりと云 小詞一座を置 奈良王を祀る 然れども帝王の本州に遷座なりしこと國史諸記に見る所なし
(9) 或説に奈良法王ハ弓削道鏡なりと称すも続日本紀に道鏡法王と称せしあれど下野州に謫せられ彼所にて死(みまかり)たる事見えられし事

このように、甲斐國巨摩郡に鳳皇山(法皇山)という名前の山があり、その麓の奈良田(山梨県南巨摩郡早川町)には奈良法皇(奈良王)遷幸伝承が伝えられています。奈良法皇を弓削道鏡とする説も記されていますが、現在の早川町ホームページ(注②)などには奈良法皇を孝謙天皇のこととしています(注③)。
九州王朝説の視点から考えると、奈良法皇は上宮法皇(阿毎多利思北孤)と考えたいところですが、奈良田はかなり山深い地であり、多利思北孤が行幸したとは考えにくく、この伝承をどのような史実の反映と理解すべきかよくわかりません。いずれにしても不思議な伝承ですので、紹介することにしました。

(注)
①『甲斐叢記』大森善庵・快庵編、嘉永四年(1851年)~明治二六年(1893年)。
②早川町ホームページには「奈良王」伝承について次の解説が見える。
「奈良王とは第四十六代孝謙天皇で、奈良の都で僧道鏡と恋仲になられ、何時しか婦人病にかかられた。病気平癒を神に祈願されると一夜夢に、甲斐の国湯島の郷に、霊験あらたかな温泉があるので、奈良田の郷へ遷居するがよいとのお告げがあったので、供奉の者七、八人と供に、天平宝字二年五月、奈良田にお着きになり、王平の地に仮の宮殿を造られ、温泉に入浴されると旬日を経ずして、病は快癒されたが、都が穏やかになるまでの間八年を奈良田に過ごされ、天平神護元年還幸になられた。
なお、奈良王様(孝謙天皇)が奈良田に遷居された八年間、様々な伝説がありこれを【奈良田の七不思議】として今でも語り継がれている。」
https://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/tour/spot/legend/king.html
③小西いずみ「『方言の島』山梨県奈良田の言語状況」(『文化交流研究』2021年)によれば、孝謙天皇伝承の出典について次の紹介がある。
「孝謙天皇滞在の伝説は、奈良田にある外良寺略縁記(成立年代未詳)に記載があるもので、明治20年代には外良寺の住職・志村孝学が『更許孝謙天皇御遷居縁起鈔』と題した冊子を編集して観光客に頒布しており、昭和期にもその簡約版現代語訳が作られたという。」
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2000245/…


第2939話 2023/02/08

九州王朝(倭国)の軍事氏族

天孫降臨時(弥生時代前期末~中期初頭)から王朝交代(701年)までの九州王朝史を概観すると、それは領土拡張の歴史と言っても過言ではありません。史料上明確な例外は阿毎多利思北孤の時代(七世紀初頭頃)だけのようです(注①)。私見ですが、次の時代の領土拡張や支配強化が想定できます。

(1)〔天孫降臨・国譲り期〕弥生時代前期末~中期初頭(金属器の出現)
(2)〔神武東征期〕紀元ゼロ年頃(古田説)
(3)〔銅鐸圏(近畿地方)侵攻期〕三~四世紀
(4)〔倭の五王期〕五世紀
(5)〔仏教による統治強化期〕六世紀~七世紀初頭
(6)〔評制による中央集権期〕七世紀中頃

それぞれの時代に九州王朝(倭国)の軍事氏族が活躍したはずですが、たとえば次のようではないでしょうか。

(1)〔天孫降臨・国譲り期〕天孫族。
(2)〔神武東征期〕久米氏・大伴氏・物部氏・他。
(3)〔銅鐸圏(近畿地方)侵攻期〕南九州の氏族(未詳)・他(注②)。
(4)〔倭の五王期〕南九州の氏族(未詳)・彦狭嶋王(東山道十五國都督)・他。
(5)〔仏教による統治強化期〕秦氏〔秦王〕(注③)。
(6)〔評制による中央集権期〕高向臣・中臣幡織田連等(『常陸国風土記』)・他。

以上の考察は初歩的なものですから、引き続き修正と調査をすすめます。

(注)
①『隋書』俀国伝に「兵有りと雖も、征戰無し」とある。
②古田武彦「沙本城の大包囲線」『古代は輝いていたⅡ』朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房より復刻。
正木裕「神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か」『古田史学会報』156号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2892話(2022/12/11)〝秦王と秦造〟
同「洛中洛外日記」2893話(2022/12/12)〝六十六ヶ国分国と秦河勝〟


第2938話 2023/02/07

倭王に従った南九州の軍事氏族

先週末、お仕事で京都大学に来られた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅によられたので、富雄丸山古墳の出土品について意見交換を行いました。そのとき、強く印象に残ったのが、南九州の豪族達は韓半島へも進出した痕跡(前方後円墳の形状近似)が遺っているという正木さんの指摘でした。韓半島で前方後円墳が次々と発見されたこともあって、その形状が「前方・後円」というよりも、「前三角錐・後円」であり、それと同型の古墳が宮崎県に散見されることを「洛中洛外日記」などで紹介したことがありました(注①)。
こうしたことから、正木さんは南九州の氏族は九州王朝の軍事氏族ではないかと示唆されたのです。『宋書』倭国伝に見える、五世紀に活躍した〝倭の五王〟の一人、倭王武の上表文によれば、倭国(九州王朝)は東西(日本列島)と北(韓半島)へ軍事侵攻してきたことがわかります。南九州と韓半島の前「三角錐」後円墳の編年は五世紀末から六世紀頃であり、富雄丸山古墳の被葬者の時代は四世紀後半と編年されていますから、南九州の軍事氏族による侵攻は長期にわたっていることがわかります。
その痕跡が『日本書紀』の歌謡にも遺されています。推古紀の次の歌です。

「推古天皇二十年(620年)春正月辛巳朔丁亥(7日)、(中略)
天皇、和(こた)へて曰く。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」『日本書紀』推古二十年(620年)春正月条(注②)

この歌は内容が不自然で、以前から注目してきました。推古天皇が「蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」と詠んだとするのであれば、この「大君」とは誰のことと『日本書紀』編者は理解していたのでしょうか。九州王朝説では、九州王朝の天子のこととする理解が可能ですが、そうであればなおさら『日本書紀』編者はそのことを伏せなければなりませんので、やはり不可解な記事なのです。
この問題は別として、わたしが注目したのは「馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀」の部分です。優れた軍事力の象徴として「日向の駒」「呉の真刀」と歌われており、この日向が宮崎県を意味するのであれば、その地にいた九州王朝の軍事氏族の大和侵攻が、七世紀になっても伝承されていたのではないでしょうか。この理解の当否を含めて、富雄丸山古墳からの盾形銅鏡や蛇行剣の出土は、九州王朝における南九州の政治的位置づけを考えるうえで、よい機会となりました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
同「古代のジャパンクオリティー 11 韓国で発見された前方後円墳
」繊維社『月刊 加工技術』、2016年4月。
同「前「三角錐」後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年。
②日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。


第2916話 2023/01/14

多元史観から見た古代貨幣「富夲銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、出土が知られているのが無文銀銭と富夲銅銭(注①)です。いずれも出土分布の中心は近畿地方であり、残念ながら九州からの出土は確認できていません。
「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』には和同開珎が大和朝廷最初の貨幣としていますから、七世紀後半の遺構から出土(注②)している富夲銭は九州王朝の貨幣と考えざるを得ません。この考古学的出土事実と対応する記事が『日本書紀』天武紀に見えます(注③)。

○「夏四月の戊午の朔壬申(15日)に、詔して曰く、「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を用ゐること莫(なか)れ」とのたまふ。乙亥に、詔して曰く、『銀用ゐること止むること莫れ』とのたまふ。」天武十二年(683年)四月条。

この「銀銭・銅銭」記事が時期的に富夲銭に相当しますが、そうであれば出土した富夲「銅銭」の他に富夲「銀銭」もあったことになります。なお、富夲銭出土以前は同記事の「銀銭・銅銭」の鋳造年代は未詳とされていました(注④)。また、この記事は造幣開始記事ではありませんから、九州王朝(倭国)により既に銀銭・銅銭が発行されていたことを示唆しています。しかし、天武十二年(683年)の十八年後には九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代しますから、富夲銭は広く大量に流通したわけではないようです。(つづく)

(注)
①「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
②飛鳥池遺跡や上町台地の細工谷遺跡、藤原宮跡などから富夲銭が出土している。
③日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。
④日本古典文学大系『日本書紀 下』(457頁)頭注には「これらの銀銭・銅銭の鋳造年代は未詳。」とある。


第2911話 2023/01/08

九州王朝の末裔、「筑紫氏」「武藤氏」説

九州王朝研究のテーマの一つとして、その末裔の探索を続けてきました。その成果として高良玉垂命・大善寺玉垂命が筑後遷宮時の九州王朝(倭国)の王とする研究(注①)を発表し、その末裔として稲員家・松延家・鏡山氏・隈氏など現代にまで続く御子孫と遭遇することができました。他方、七世紀になって筑後から太宰府に遷都した倭王家(多利思北孤ら)の末裔については調査が進んでいませんでした。
古田説によれば、筑紫君薩野馬などの「筑紫君」が倭王とされていますので、古今の「筑紫」姓について調査してきました。調査途中のテーマですが、筑紫君の末裔について記した江戸期(幕末頃)の史料『楽郊紀聞』を紹介します。同書は対馬藩士、中川延良(1795~1862年)により著されたもので、対馬に留まらず各地の伝聞をその情報提供者名と共に記しており、史料価値が高いものです。そこに、「梶田土佐」(未詳)からの伝聞情報として、筑紫君の後裔について次の記事が見えます。

「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞こえたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子共をつれて黒田長政殿にも嫁ぎし由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上(梶田土佐話)。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁。(注②)

ここに紹介された筑紫上野介は戦国武将として著名な筑紫広門のことです。この筑紫氏が「往古筑紫ノ君の末」であり、その子孫が筑前黒田藩に仕え、「只今二軒ある」としています。この記事に続いて、校注者鈴木棠三氏による次の解説があります。

「*筑紫広門。椎門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。両度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁

この解説によれば、「中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した」とあることから、現在、九州地方での「武藤」さんの分布が佐賀市や柳川市にあり(注③)、この人達も九州王朝王族の末裔の可能性があるのではないかと推定しています。これまで九州王朝の末裔調査として「筑紫」さんを探してきましたが、これからは「武藤」さんの家系についても調査したいと思います。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②『楽郊紀聞』中川延良(1795~1862年)、鈴木棠三校注、平凡社、1977年。
③「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
〔武藤〕姓 人口 約86,800人 順位 245位
【都道府県順位】
1 東京都 (約8,800人)
2 岐阜県 (約6,900人)
3 埼玉県 (約6,500人)
4 神奈川県 (約6,400人)
5 愛知県 (約6,200人)
6 福島県 (約6,000人)
7 茨城県 (約4,700人)
8 千葉県 (約4,700人)
9 北海道 (約3,700人)
10 秋田県 (約3,600人)

【市区町村順位】
1 岐阜県 岐阜市 (約2,100人)
2 福島県 二本松市 (約1,200人)
3 岐阜県 関市 (約800人)
3 秋田県 秋田市 (約800人)
5 岐阜県 郡上市 (約800人)
5 山梨県 富士吉田市 (約800人)
5 茨城県 常陸太田市 (約800人)
8 秋田県 大仙市 (約800人)
9 群馬県 高崎市 (約800人)
10 佐賀県 佐賀市 (約700人)

【小地域順位】
1 山梨県 富士吉田市 小明見 (約300人)
2 群馬県 太田市 龍舞町 (約300人)
3 山梨県 富士吉田市 下吉田 (約300人)
4 茨城県 常陸太田市 春友町 (約300人)
5 福岡県 柳川市 明野 (約200人)
6 千葉県 印西市 和泉 (約200人)
7 群馬県 北群馬郡吉岡町 下野田 (約200人)
8 神奈川県 逗子市 桜山 (約200人)
8 岐阜県 郡上市 相生 (約200人)
8 茨城県 那珂市 本米崎 (約200人)