九州王朝(倭国)一覧

第2701話 2022/03/16

柿本人麻呂系図の紹介 (3)

 「柿本人麻呂系図」には人麻呂の伝承に続いて「實子」の「男玉」の事績が記されています。次の通りです。

(e) 「人麿ノ 實子 柿本男玉 三條? 鍛冶師トナリ 聖武天皇奈良大佛建立ノ 際 鍛頭トナリ 之レ 則チ 三條小鍛冶ナリ」

 ここに記された「柿本男玉」は東大寺二月堂の過去帳(注①)にも見え、実在の人物です。東大寺のホームページ(注②)には次の記事があり、柿本男玉が大仏建立に鍛冶師ではなく鋳師(※印を付した。古賀)として参画しています。

 「お松明で有名な東大寺の修二会(しゅにえ)で読み上げられる過去帳の初めの部分を紹介しましょう。ここには大仏さまと大仏殿の造営に関わった人々の名前が挙げられています。
(中略)
 大伽藍本願 聖武皇帝
 聖母皇大后宮 光明皇后
 行基菩薩
 本願孝謙天皇
 不比等右大臣 諸兄左大臣
 根本良弁僧正 当院本願 実忠和尚
 大仏開眼導師天竺菩提僧正 供養講師隆尊律師
 大仏脇士観音願主尼信勝 同脇士虚空蔵願主尼善光

 造寺知識功課人
 大仏師 国公麻呂(だいぶっし くにのきみまろ)
 大鋳師 真国(おおいもじ さねくに)
 高市真麿(たけちのさねまろ)
※鋳師 柿本男玉(いもじ かきのもとのおだま)
 大工 猪名部百世(だいく いなべのももよ)
 小工 益田縄手(しょうく ますだのただて)
 材木知識(ざいもくのちしき)五万一千五百九十人
 役夫知識(やくぶのちしき)一百六十六万五千七十一人
 金知識(こがねのちしき)三十七万二千七十五人
 役夫(やくぶ)五十一万四千九百二人」

 『柿本家系図』に人麿の實子と記された柿本男玉は東大寺建立に関わった人物のようですが、同系図には「三條」の「鍛冶師」であり、大仏建立には「鍛頭」として参画したとしています。他方、東大寺二月堂の「過去帳」には「鋳師柿本男玉」とあり、鍛冶師ではありません。また、「大鋳師真国」という人物名もあることから、「大」が付かない「鋳師」である「柿本男玉」と系図の「鋳頭」という職掌についても対応が不明です。この不一致がいずれかの誤記誤伝なのか、祖先の格を上げるための系図編纂者の作意なのか、慎重な検討が必要ですが、著名な東大寺の過去帳に見える「鋳師柿本男玉」に基づいて系図を作成したとするのであれば、それとは異なる「鍛冶師」と記すことも考えにくいものです。
 また、系図に見える「三條小鍛冶」は奈良市に企業(注③)として現存していますが、それは「鍛冶」であり、東大寺建立に関わった「鋳師柿本男玉」との関係は今のところ見当たりません。この点も調査検証が必要なようです。
 希代の歌人であり晩年は石見國(注④)の官吏でもあった人麿と、奈良の鋳物師の男玉との関係性にも違和感がありますが、系図では「實子」とわざわざ記しており、系図編纂者としては両者の〝親子関係〟こそ最も強調したかったことではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、3月5日夜とお水取りの行事が行われる3月12日夜に読み上げられる。
②http://www.todaiji.or.jp/contents/qa/qa.html
③三條小鍛冶宗近本店(奈良市雑司町)。同社ホームページに「明治初期まで現奈良市尼ヶ辻町にて作刀す。右、記念碑現存す。」とある。
https://www.sanjyokokajimunechika.com/
④通説では人麿は石見で没したとされており、『柿本家系図』の記事「後 伯耆國ニ 閉居シ」とは異なる。この点も留意が必要である。


第2700話 2022/03/15

柿本人麻呂系図の紹介 (2)

 古田先生からいただいた「柿本人麻呂系図」コピーには、人麻呂の伝承について次の興味深い記事が見えます。

(a) 「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」
(b) 「柿本人麿ノ 祖ハ 日本足彦國押人尊 又一名ヲ 天足彦國押人尊ト 奉穪ス」
(c) 「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」
(d) 「後 伯耆國ニ 閉居シ 専ラ 和歌ニ 力ヲ 盡シ 世ニ 和歌聖人? 穪セリ」

 コピーが不鮮明なため、文字の誤読はあるかもしれませんが、大意に相違はないと思います(「?」は判読不明の文字)。特に注目したのが人麿が「真人」姓を賜ったとする(a)の記事です。『万葉集』では「柿本朝臣人麿」(注①)とあり、その姓(かばね)は朝臣とされています。「朝臣」は天武紀に見える八色姓の第二位であり、系図に見える一位の「真人」よりも下位です。この差異の理由は不明ですが、同系図が著名な『万葉集』とは異なった伝承を伝えていることに興味を覚えます。
 更に注目したのが、遣唐使として二度も唐に渡ったという初めて目にした(c)の記事です。恐らくは九州王朝(倭国)が派遣した遣唐使ではないでしょうか。そうであれば、「真人」という臣下第一位の姓(かばね)も九州王朝から賜った可能性が高いように思われます。
 このような従来の史料には見えない伝承が記された「柿本人麻呂系図」は貴重です。なお、同系図には人麻呂の生没年や出身地については記されていません。従来説でも生没年未詳とされているようです。他方、わたしの研究(注②)によれば、『運歩色葉集』は人麻呂の没年を九州年号の大長四年丁未(707)と伝えており(注③)、人麻呂が九州王朝の宮廷歌人であったとする古田説(注④)を支持しているように思います。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻一、29番歌題詞に「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」とある。
②古賀達也「洛中洛外日記」600話(2013/09/28)〝九州年号「大長」史料の性格〟
 同「九州年号『大長』の考察」『古田史学会報』120号、2014年2月。
 同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
③『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
④古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2699話 2022/03/14

柿本人麻呂系図の紹介 (1)

25年ほど前のことですが、古田先生から「柿本人麻呂系図」のコピーをいただきました。この度、必要があって同系図コピーを書架の中からようやく探し出すことができましたので、紹介します。
 古田先生から聞いた話では、佐賀県に柿本人麻呂の御子孫がおられ、就職で実家を離れるときに同家系図を親御さんから受け継いだとのことでした。その方は、祖母から「もし火事にあったら、系図を持って逃げるように」と子供の頃から言われてきたそうです。
 コピーによれば同系図は巻物二巻からなっており、一つは柿本家に伝わった人麻呂の伝承と同家の由来が書かれており、もう一つが系図です。どちらにも「柿本家系圖」と表記され、系図末尾には「柿本毅 書」とあり、柿本毅さんが書写したことがわかります。系図の最後の人物が「毅」さんと「妻 淑子」さんであることから、毅さんのご子息が実家を離れるときに、ご子息のために書写されたものではないでしょうか。そうであれば、佐賀県のご実家には書写原本があるはずです。毅さんの母、「良重」さんの旁書に「昭和五十九年九月/享年六十四才」とあることから、系図の作成(書写)時期は昭和59(1984)年以後で、古田先生が写真撮影された1995年までのこととなります(注①)。
 webサイト「日本姓氏語源辞典」(注②)で「柿本」さんの分布を調べたところ、次の通りでした。「顕著に見られる市区町村」には佐賀県神埼郡吉野ヶ里町もありますので、この系図の柿本さんは同地域の住民の可能性があります。また、久留米市に柿本さんが多いことも、注目されます。(つづく)

【都道府県順位】
1 大阪府(約2,000人)
2 兵庫県(約1,400人)
3 福岡県(約1,000人)
4 広島県(約800人)
5 長崎県(約600人)
6 京都府(約600人)
7 熊本県(約600人)
8 北海道(約600人)
9 岡山県(約500人)
10 東京都(約500人)

【市区町村順位】
1 兵庫県 加古川市(約200人)
2 石川県 金沢市(約200人)
3 福岡県 久留米市(約200人)
4 岡山県 備前市(約200人)
5 広島県 尾道市(約200人)
6 鹿児島県 鹿児島市(約200人)
7 大阪府 吹田市(約200人)
7 長崎県 長崎市(約200人)
9 大阪府 堺市(約200人)
10 高知県 高知市(約140人)

【小地域順位】
1 広島県 尾道市 向東町(約110人)
1 岡山県 備前市 日生(約110人)
3 鹿児島県 日置市 伊作田(約90人)
4 高知県 室戸市 羽根町乙(約70人)
4 大阪府 吹田市 垂水町(約70人)
4 福井県 大飯郡おおい町 久保(約70人)
7 鹿児島県 鹿児島市 上福元町(約60人)
7 大分県 日田市 山田町(約60人)
9 大阪府 守口市 梶町(約50人)
9 長崎県 五島市 岳郷(約50人)

(注)
①コピーには撮影年月日を示す「95.3.5」のデジタル文字が映っている。
②「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/fn/%E6%9F%BF%E6%9C%AC.html


第2689話 2022/02/26

東宮聖徳と利歌彌多弗利

 本日は東京古田会の月例会にリモート参加させていただきました。今回は、同会々員の新保高之さん(調布市)による、『日本書紀』に記された「聖徳太子」の名称についての研究発表がありました。同研究は「聖徳太子は異名王」(注①)として『東京古田会ニュース』に発表されていたもので、発表当初から注目していた論考でした。
 新保稿では、『日本書紀』に見える「聖徳太子」を指す多くの異名を抽出し、その中のキーワードから見えてきた〝「東宮聖徳」「厩戸皇子」「上宮太子」という、三つの人物像の重ね合わせ〟が「聖徳太子」記事であるとされました。簡明な方法論から導かれた穏当な仮説と思います。新保さんの発表を聴講して、「東宮聖徳」という名称とその人物像について次のような見通し(史料根拠に基づく論理展開)を抱きました。

(1) 九州年号史料に見える「聖徳」年号は利歌彌多弗利の法号とする正木裕説(注②)が有力であり、『日本書紀』に見える「東宮聖徳」は、利歌彌多弗利の呼称や伝承を転用した可能性がある。
(2) 「東宮」は皇太子を指す言葉であることから、「東宮聖徳」は皇太子時代の利歌彌多弗利の呼称だったのではあるまいか。
(3) 『二中歴』「年代歴」の「倭京」年号の細注にある「倭京二年(619) 難波天王寺を聖徳が造る」の「聖徳」も皇太子時代の利歌彌多弗利の事績と考えられる(注③)。「倭京」年間(618~622年)は多利思北孤(上宮法皇)の治世期であるため。
(4) 多利思北孤が「上宮法皇」であり、利歌彌多弗利が「東宮聖徳」であれば、「上宮」「東宮」は両者が居住した宮殿名ではあるまいか。
(5) そうであれば、「東宮」とは九州王朝の都(太宰府、倭京)に対して、その東の難波(大阪市上町台地)にあった利歌彌多弗利の宮殿名とする理解も可能。
(6) 『二中歴』「年代歴」の「白鳳」(661~683年)年号の細注「観世音寺東院造」(注④)も、太宰府の観世音寺を東院が造ったと解すれば、この「東院」も当時の皇太子が居た宮殿名に由来する呼称とできそうである。

 以上のような見通しを持っていますが、本格的な検証や論証はこれからの仕事です。

(注)
①新保高之「聖徳太子は異名王」『東京古田会ニュース』201号、2021年。
②正木裕「利歌彌多弗利の法号『聖徳』の意味と由来」古田史学の会・関西例会で発表、2014年12月。
 正木裕「盗まれた『聖徳』」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1391話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(4)〟
 古賀達也「『二中歴』九州年号研究の紹介 ―九州王朝史復元研究の成果―」『東京古田会ニュース』183号、2018年。
④古賀達也「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1392話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(5)〟


第2688話 2022/02/24

九州王朝(倭国)の「社稷」

 「洛中洛外日記」26632676話(2022/01/16~02/05)〝難波宮の複都制と副都(1)~(5)〟において、九州王朝(倭国)が採用した複都制は、権威の都(太宰府・倭京)と権力の都(前期難波宮・難波京)の両京制とする仮説を提起しました。この拙稿を読まれた山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)から、権威の都・太宰府を指し示す記事が『日本書紀』に見えることを過日のリモート勉強会で教えていただきました。
 「壬申の乱」での筑紫大宰府・栗隈王の発言中に「社稷(しゃしょく)」という言葉があり、これは九州王朝の社稷であり、その地が「権威の都」であることを示しているというご指摘です。このことが山田さんのブログ「sanmaoの暦歴徒然草」にて詳述されましたので、一部省略して転載させていただきました。山田さんに指摘されるまで、この「社稷」の持つ深い意味に気づきませんでした。ご教示に感謝します。

【以下、関係部分を要約転載】
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/
sanmaoの暦歴徒然草
社稷、権威の都 ―副都「倭京(太宰府)」

 ブログ記事「両京制」への疑問―いつから「太宰府」になったか―(2022年1月25日(火))で、古賀達也さまに次のような疑問(要旨)を提出させていただきました。
………………………………………
 「牛頸窯跡群の操業」が、「六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し」「七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少する」ということが、「太宰府条坊都市造営の開始時期」と「前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)」の考古学的痕跡であるならば、これは九州王朝が難波に「遷都」したといえるのではないでしょうか。
………………………………………
 この批判に対して、古賀さんはご自身のブログ「古賀達也の洛中洛外日記」で「難波宮の複都制と副都」と題するシリーズでお答えいただきました。なかでも2676話 2022/02/05難波宮の複都制と副都(5)において、村元健一さんの指摘「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」)を引用され、「権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」」という都の性格付けには、先に提示した疑問が見事に解消されました。ありがとうございました。
 そこで、私も納得したことを確かめようと『日本書紀』にあたってみました。すると古賀さんの見解を見事に裏付ける記事が、天武天皇元年(六七二)六月丙戌(26日)条にありました。「壬申の乱」の記事です。
 筑紫大宰の栗隈王に対して、「近江朝側に立って大宰帥麾下の軍を発動しろ」との命令を受けた時、栗隈王が拒絶する返答です。

《天武天皇元年(六七二)六月》
 男(※)、筑紫に至る、時に栗隈王、苻(おしてのふみ)を承(う)けて對(こた)へて曰(まう)さく、「筑紫國は、元より邊賊(ほか)の難を戍(まも)る。其れ城を峻(たか)くし隍(みぞ)を深くして、海に臨みて守らするは、豈(あに)内賊(うちのあた)の爲(ため)ならむや。今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を發(おこ)さば、國空(むなし)けむ。若し不意之外(おもひのほか)に、倉卒(にはか)なる事有らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾きなむ。(後略)

 ※この「男」というのは、大友皇子の命令書を持って筑紫大宰府にやって来た「佐伯連男(さへきのむらじをとこ)」。
………………………………………
 筑紫大宰の栗隈王は「社稷」という言葉を用いています。

 「社」も「稷」も祭祀に関わる字であることがわかります。「社稷」を古代では「国家」を指すともありますが、この「国家」は近代でいう「国家」(主権・領域・領民をもつ)ではありません。近代でいう「国家」は領域や領民を拡大していくこともできる「権力機構」のことですが、「社稷」は限られた人達だけが衛守する祭祀の領域(祖先を祀る宗廟のある地とも言える)です。つまり「社稷」は支配を正当化する祭祀権(古代の権威)です(それが存在する地域のことでもあります)。
 筑紫大宰の栗隈王は、「筑紫国」は九州王朝の「社稷」があり、それを守るのが大宰帥(大宰府に常駐する軍隊)であるから、近江朝のために大宰府の兵を動かすことはできないという理由で命令を拒否したのです。(以下、略)


第2685話 2022/02/17

古田先生の「紀尺」論の想い出 (3)

古田先生が「紀尺(きしゃく)」を採用して論証に成功された高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)を始め高良玉垂命系図である「稲員家系図(松延本)」や「物部家系図」(明暦・文久本、古系図)についての論考があります。それは「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」という論文(注②)で、次のような書き出しで始まります。

〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。
この古系図は、すでに久しく、貴重な文書としてわたしたちの認識してきていた「古系図」(稲員・松延本)と、多くの共通点をもつ。特に、今回の主たる考察対象となった前半部に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができよう。
しかしながら、古文書研究、歴史学研究にとって「同型・異類」写本の出現は重大だ。ことに当本のように、従来の古代史研究において、正面から採り上げられることの少なかった当本のような場合、このような別系統本の入手の意義はまことに決定的だ。しかも、当本は「高良山の大祝家」の中の伝承本であるから、先の「稲員・松延本」と共に、その史料価値のすぐれていること、言うまでもない。〟

そして、「紀尺」による論証結果が次に示されています。

〝第二、〈その二〉の高良玉垂命神は、この「古系図」内の注記に
「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」
とあるように、「仁徳五十五(三六七)」に当山(高良山)に来臨した、という所伝が有名である。(高良大社の「高良社大祝旧記抜書」〈元禄十五年壬午十一月日〉によって分析。古田『九州の真実 六〇の証言』かたりべ文庫。のち、駸々堂刊。注③)
中国の南北朝分立(三一六)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳五十五〈皇暦〉」(三六七)だ。
それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。〟

論文末尾は次のように締めくくられます。

〝「古系図」(稲員・松延本)に関しては、すでに古賀達也氏が貴重な研究を発表しておられる。「九州王朝の築後遷宮」(『新・古代学』第4集)がこれである(注④)。
「九躰の皇子」の理解等において、いささか本稿とは異なる点があるけれど、実はわたしも亦、本稿以前の段階では、古賀氏のように思惟していたのであった。その点、古賀論稿は、本稿にとっての貴重な先行論文と言えよう。
今、わたしは「俀国版の九州」の名称についても、この「九躰の皇子」にさかのぼるべき「歴史的名辞」ではないか、と考えはじめている。詳論の日を迎えたい。
先の稲員・松延氏と共に、今回の古賀壽氏の御好意に対し、深く感謝したい。
最後に、この「古系図」の二つの奥書を詳記し、今回の本稿を終えることとする。
(イ)明暦三丁酉年(一六五七)秋八月丁丑日
高良山大祝日往子尊百二代孫
物部安清
(ロ)文久元年(一八六一)辛酉年五月五日
物部定儀誌〟

以上のように、江戸期成立の近世文書を古代史研究の史料として採用するための方法論の一つとして、古田先生の「紀尺」論は有効性を発揮しています。江戸時代の文書や皇暦(『東方年表』)などを偽作扱い、あるいは軽視する論者があれば、この古田先生の論文を読んでいただきたいと思います。ここで示された「紀尺」を初めとする種々の方法論は和田家文書(明治・大正写本)の史料批判にも数多く採用されています。「紀尺」論は、古田先生の学問を理解する上で、不可欠のものとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年12月。
③古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
④古賀達也「九州王朝の築後遷宮–玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2684話 2022/02/16

古田先生の「紀尺」論の想い出 (2)

古田先生が提唱・命名された「紀尺(きしゃく)」という言葉をわたしなりに説明すれば、「『日本書紀』紀年に基づく暦年表記の基準尺」とでもいうべき方法と概念です。この文献史学における暦年表記の論理構造について解説します。

(1) 古代に起こった事件などを後世史料に書き留める場合、60年毎に繰り返す干支だけでは絶対年代を指定できない。
(2) そこで、年号がある時代であれば年号を用いて絶対年代を指定できる。それが六~七世紀であれば、九州王朝の時代であり、九州年号を使用することができる。八世紀以後であれば大和朝廷の年号が採用されている。
(3) 五世紀以前の九州年号がない時代の事件であれば、中国の年号を使用するか、『日本書紀』に記された近畿天皇家の紀年、いわゆる皇暦(『東方年表』等)を使用するほかない。事実、江戸時代以前の文書には皇暦が採用されるのが一般的である。明治以降は西暦や皇暦が採用されている。
(4) 以上のような時代的制約から、中近世文書に古代天皇の紀年で年代表記されている場合、記された皇暦をそのまま西暦に換算して認識することが妥当となるケースがある。
(5) こうして特定した暦年の妥当性が、他の情報により補強・証明できれば、その年次を採用することができる。

おおよそ以上のような論理構造により古田先生の「紀尺」論は成立しているのですが、この方法は皇暦を援用してはいるものの、その天皇とは、とりあえず無関係に暦年部分のみを採用することに、いわゆる「皇暦」とは決定的に異なる方法論上の特徴があります。
それではこの「紀尺」による年代判定事例を先生の著書から引用・紹介します。それは江戸期成立の高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)の史料批判と年代理解です。

〝すなわち、七支刀をたずさえた百済の国使は、当地(筑後)に来たのだ。それが、東晋の「泰和四年(三六九)」だった。
ところが、高良大明神の“当山開始(即位)”年代は、「仁徳五十五年(「皇暦」で一〇二七、西暦換算三六七)となる」。ピタリ、対応していた。平地で「こうや」、高地で「こうら」。百済・新羅に共通した、都城の在り方だったようである。〟(注②)

石上神宮(天理市)に伝わる七支刀(国宝)の銘文中に見える年代(泰和四年)と高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』に記された「仁徳五十五年」が同時期であることから、七支刀は筑後にいた九州王朝(倭国)の王「高良大明神」に百済から贈られたものであるとする仮説の証明に「紀尺」が用いられた事例です。それまで意味不明とされてきた高良大社文書中の「仁徳五十五年」という年次が、生き生きと歴史の真実(四世紀の九州王朝史)を語り始めた瞬間でした。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。


第2682話 2022/02/14

『古田史学会報』168号の紹介

 『古田史学会報』168号が発行されました。一面は正木事務局長の〝「邪馬壹国九州説」を裏付ける最新のトピックス〟です。同稿は昨年12月に開催された和泉史談会(辻野安彦代表)での講演のエッセンスです。同講演内容は奈良新聞(12月28日付)の第4面(カラー)の一頁全てを使って〝「邪馬壹国九州説」有力 考古学・科学分析で確実に〟と紹介されたもので、『古田史学会報』令和四年の冒頭を飾るにふさわしいものです。

 拙稿〝失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五弦琴笛」『隋書』俀国伝―〟と〝古今東西の修学開始年齢 ―『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』―〟の二編も掲載していただきました。野田稿〝『隋書』の「水陸三千里」について〟は関西例会で論争を巻き起こした仮説です。今後の検証や展開が期待されます。吉村稿と大原稿は同じく関西例会で発表された考古学論文で、いずれも興味深いテーマを取り扱ったものです。文献史学の論稿が多い『古田史学会報』にあって、こうした考古学分野の研究は貴重です。

 168号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』168号の内容】
○「壹」から始める古田史学・三十四
「邪馬壹国九州説」を裏付ける最新のトピックス 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五弦琴笛」『隋書』俀国伝― 京都市 古賀達也
○『隋書』の「水陸三千里」について 姫路市 野田利郎
○科野と九州 ―「蕨手文様」への一考察ー 上田市 吉村八洲男
○栄山江流域の前方後円墳について 京都府大山崎町 大原重雄
○古今東西の修学開始年齢 ―『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』― 京都市 古賀達也
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○編集後記 西村秀己


第2681話 2022/02/11

難波宮の複都制と副都(10)

 FaceBookでの日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)のメッセージには貴重な指摘がありました。この問題が物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうという視点です。これはわたしも気になっているテーマです。『続日本紀』によれば、道鏡を皇位につけよとの宇佐八幡神の神託事件により、習宜阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷されます。次の記事です(注①)。

 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条

 この道鏡の俗名は物部系とされる弓削であり(注②)、同じく物部系の習宜阿曾麻呂との関係が疑われれるのです。九州王朝の都だった太宰府で神を祀り、皇位継承への発言をも職掌とした大宰主神を、アマテラスやニニギではなくニギハヤヒを祖神とする習宜阿曾麻呂が担っていたということになるのですが、わたしはこのことに違和感を抱くと同時に、もしかすると歴史の深層に触れたのではないかとの感触を得ました。
 実は、九州王朝(倭国)の王と考えてきた筑後国一宮の高良大社(久留米市)御祭神の高良玉垂命を物部系とする史料があります。高良玉垂命を祖神とする各家(稲員家、物部家、他)系図には初代玉垂命の名前が「玉垂命物部保連」、その孫が「物部日良仁光連」と記されています(注③)。更に高良大社文書の一つ「高良記」(注④)には次の記事が見えます。

 「高良大并ノ御記文ニモ、五姓ヲサタムルコト、神部物部ヲ ヒセンカタメナリ、天神七代 地神五代ヨリ此カタ、大祝家のケイツ アイサタマルトミエタリ」16頁
 「一、高良大善薩御氏 物部御同性(姓カ)大祝職ナリ
  (中略)
  一、大善薩御記文曰 五性(姓カ)ヲ定ムルコト、物部ヲ為秘センカ也」79頁
 「一、大并御記文 物部ヲソムキ、三所大并ノ御神秘ヲ 多生(他姓カ)エシルコトアラハ、当山メツハウタリ」80頁
 「一、同御記文之事(※) 物部ヲサツテ、肉身神秘□他ニシルコトアラハ、此山トモニモツテ我滅ハウタリ
  一、同御記文之事(※) 物部ヲ績(続カ)セスンハ、我左右エ ヨルコトナカレ」151頁
 (※)「事」の異体字で、「古」の下に「又」。

 これらの物部記事は意味がわかりにくいところもありますが、その要旨は、高良大菩薩(玉垂命)は物部であり、このことを秘すべく五姓を定めた。他者に知られたら当山は滅亡すると述べています。なぜ、物部であることを隠さなければならないのかは不明ですが、よほどの事情がありそうです。それは九州王朝の末裔であることや、道鏡擁立に関わった習宜阿曾麻呂との繋がりを隠すためだったのでしょうか。
 代々の高良玉垂命が九州王朝の天子(倭国王)であれば(注⑤)、九州王朝の王族は物部系ということになります。この問題の存在については早くから指摘してきたところで、「洛中洛外日記」でも何度か触れたテーマでした。古田先生も同様の問題意識を持っておられました(注⑥)。今回、大宰主神だった習宜阿曾麻呂が筑後地方の出身で物部系とする仮説に至り、このテーマが改めて問われることになりました。(つづく)

(注)
①『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。
②『新撰姓氏録』(左京神別上)に「弓削宿禰 石上同祖」、その前に「石上朝臣 神饒賑速日命之後也」とある。
③「草壁氏系図」松延家写本による。
④『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、1972年。
⑤藤井緩子『九州ノート 神々・大王・長者』葦書房、1985年。
 同書に玉垂命の子孫を倭の五王とする説が記されている。著者は平成八年に亡くなられたが、同じ久留米出身ということもあってか、何かと励ましのお便りを頂いた。生前の御厚情が忘れ難い。
 古賀達也「玉垂命と九州王朝」『古田史学会報』24号、1998年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga24.html
 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html
⑥古賀達也「洛中洛外日記」200話(2008/12/14)〝高良玉垂命と物部氏〟
 古賀達也「洛中洛外日記」207話(2009/02/28)〝九州王朝の物部〟
 古賀達也「洛中洛外日記」275話(2010/08/08)〝『先代旧事本紀』の謎〟


第2680話 2022/02/09

難波宮の複都制と副都(9)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の出身地を筑後地方(うきは市)とする作業仮説を提起した「洛中洛外日記」2679話(2022/02/08)〝難波宮の複都制と副都(8)〟をFaceBookに掲載したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から次のご意見が寄せられました。

 「物部と杉の共通の密集地が出身地と言うのは、確かに興味深い説ですね。彼の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州ですから有り得そうです。この問題は物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうですね。」

 わたしは次のように返信しました。

 「ご指摘の通りで、岡山県でも杉さんと物部さんの地域が隣接していますし、その付近には物部神社(石上布都魂神社)もあります。杉さんと物部さんが無関係とは思えませんね。」

 杉さんと物部さんの分布が重なる地域がうきは市だけではなく、岡山県でも同様の傾向にあることは、これを偶然の一致とするよりも両者に何かしらの深い繋がりがあることを示唆しており、当仮説への実証力を強めるものです。苗字の分布データ(注①)の関連部分を再掲します。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

【物部さんの分布】
〔都道府県別〕
1 岡山県(約400人)
2 京都府(約300人)
3 福岡県(約200人)

〔市町村別〕
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)

 日野さんに次いで、西野慶龍さんからも次の情報が寄せられました。

 「高梁市に住んでいますが、近所には杉さんが住んでいたり、子供の頃のバスの運転手さんが物部さんでした。」

 こうした高梁市の西野さんからの〝現地報告〟にも接し、わたしは自説に確信を持つことができました。そして、もしやと思い、岡山県内の「杉神社」を検索したところ、やはりありました。下記の通りです(注②)。

○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡勝央町小矢田295 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町広岡647・豊沢787 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町西原1164 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 美作市安蘇686 御祭神:大己貴命,天鈿女命,少彦名命

 この最後の美作市の杉神社鎮座地名が「安蘇」であることも、習宜阿曾麻呂の名前に関係するのか気になるところです。また、勝田郡の三つの杉神社の御祭神の名前が記されていないという不思議な状況も、何か理由がありそうです(習宜阿曾麻呂との関係を憚ったためか)。なお、備前国一宮が物部氏と関係が深い石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ。赤磐市石上1448)であることも注目されます。

 日野さんのご指摘も重要な視点と論点が含まれています。なかでも、「彼(習宜阿曾麻呂)の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州」という視点は、大宰府主神と九州王朝との歴史的関係をうかがわせるものであり注目されます。『続日本紀』には次の記事が見えます(注③)。

 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麿を豊前介と為す。」神護景雲元年(767年)九月条
 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を大隅守と為す。」宝亀三年(772年)六月条

 日野さんのご指摘の通り、習宜阿曾麻呂の左遷や転任は九州内であることから、その出自も九州内とする方がより妥当と思われます。以上のことから習宜阿曾麻呂の出自を筑後地方(うきは市)とする仮説は最有力ではないでしょうか。更に、習宜の訓みは「すげ」ではなく、「すぎ」とした方がよいことも明らかになったと思われます。(つづく)

(注)
①「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
②岡山県神社庁のホームページによる。
③『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。


第2679話 2022/02/08

難波宮の複都制と副都(8)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の習宜の本籍地を調査していて気づいたことがありました。そもそも、習宜を「すげ」と訓むのは正しいのだろうか、「すげ」と訓むことは学問的検証を経たものだろうか。このような疑問を抱いたのです。
 普通に訓めば、習宜は「しゅうぎ」「しゅぎ」か「すぎ」です(注①)。「宜」の字に「げ」の音は無いように思われるからです。従って、現代の苗字であれば、「すぎ」に「杉」の字を当てるのが一般的でしょう。そこで、「杉」姓の分布をweb(注②)で調べると次のようでした。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)
3 東京都(約500人)
3 大阪府(約500人)
5 愛知県(約400人)
6 兵庫県(約400人)
7 山口県(約400人)
8 神奈川県(約400人)
8 埼玉県(約400人)
10 福島県(約300人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
2 福島県 南相馬市(約200人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
4 山口県 山口市(約130人)
4 愛媛県 西条市(約130人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
8 愛知県 稲沢市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

 この分布データによれば、福岡県の筑後地方(うきは市、久留米市、三潴郡)が最濃密地域であることがわかります。筑後地方であれば太宰府に近く、大宰府主神の出身地としても違和感はありませんし、阿曾麻呂という名前の「阿曾」も阿蘇山を連想させます。そして、阿蘇神社は筑後地方にも散見します(注③)。
 また、『新撰姓氏録』(右京神別上)によれば「中臣習宜朝臣」の祖先を「味瓊杵田命」(うましにぎたのみこと)としており、これは『先代旧事本紀』によれば饒速日命(にぎはやひのみこと)の孫に当たる物部系の神様です。あるいは『新撰姓氏録』(右京神別上)の「采女朝臣」に「神饒速日命六世孫大水口宿禰之後也」とあり、それに続く「中臣習宜朝臣」に「同神孫味瓊杵田命之後也」とあることからも、物部系の氏族であることがわかります。そして、うきは市(旧浮羽郡)には物部郷があったことが知られており(注④)、今でも物部さんが多数分布しています。次の通りです(注②)。

【物部さんの分布】
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
4 京都府 京都市左京区(約80人)
5 京都府 京都市北区(約50人)
6 京都府 京都市西京区(約50人)
7 島根県 松江市(約40人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)
9 兵庫県 洲本市(約30人)
10 静岡県 浜松市(約30人)

 以上のように、いずれも傍証の域を出ませんが、習宜阿曾麻呂の出身地を現うきは市付近とすることは、「大和国添下郡」説よりも有力ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①わたしが子供の頃、「せ」を「しぇ」と発音する地域(主に佐賀県)があった。古くは、「す」も「しゅ」と訛ることがあったのではあるまいか。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
③管見では次の阿蘇神社がある。
 阿蘇神社 久留米市田主丸町(旧浮羽郡田主丸町)
 阿蘇神社 八女市立花町
 干潟阿蘇神社 小郡市干潟(旧三井郡立石村)
 筑後乃国阿蘇神社 みやま市高田町
④『和名抄』「筑後国生葉郡」に「物部郷」が見える。


第2678話 2022/02/07

難波宮の複都制と副都(7)

 大宰府主神、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)の習宜について、「大和国添下郡の地名」とする解説が岩波書店『続日本紀』の補注で紹介されています(注①)。この解説によれば習宜氏は大和国出身のように思われますが、webで「習宜」姓の分布を調査したところ、現在は存在していないようで検索できません。そこで、「すげ」の訓みも持つ「菅」「管」を検索したところ、次のようになりました(注②)。

【菅(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 愛媛県 今治市(約3,300人)
2 愛媛県 松山市(約1,900人)
3 秋田県 湯沢市(約1,700人)
4 山形県 最上郡最上町(約1,000人)
5 愛媛県 西条市(約1,000人)
6 大分県 佐伯市(約600人)
7 愛媛県 上浮穴郡久万高原町(約600人)
8 大分県 大分市(約500人)
9 愛媛県 新居浜市(約400人)
10 長崎県 島原市(約400人)

【管(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 大分県 佐伯市(約200人)
2 福島県 会津若松市(約110人)
2 大分県 大分市(約110人)
4 山形県 西村山郡河北町(約90人)
5 熊本県 菊池市(約70人)
6 熊本県 熊本市(約60人)
7 愛媛県 松山市(約50人)
8 長崎県 長崎市(約30人)
9 山形県 山形市(約30人)
9 宮崎県 延岡市(約30人)

 「菅」「管」姓は豊予海峡を挟んで愛媛県と大分県、特に愛媛県に最濃密分布があります。しかし、その訓みの大半は「かん」であり、「すげ」は極めて少数と説明されていることから、「すげ」姓分布のエビデンスに採用するのには不適切なデータのようです。他方、「大和国添下郡」の出身と推定し得る分布も示していませんので、習宜阿曾麻呂の本籍地について、「菅」「管」姓の分布データからは推定できそうにありません。(つづく)

(注)
①『続日本紀 二』岩波書店、新日本古典文学大系、465頁。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。