九州王朝(倭国)一覧

第2853話 2022/10/05

宮名を以て天皇号を称した王権(4)

 古田先生は、船王後墓誌に見える乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇とする通説を批判されました(注①)。次の通りです。

〝(一)敏達天皇は、日本書紀によれば、「百済大井宮」にあった。のち(四年)幸玉宮に遷った。それが譯語田(おさだ)の地とされる(古事記では「他田宮」)。
 (二)推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田(おはりだ)宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。
 (三)舒明天皇は「岡本宮」(飛鳥岡の傍)が火災に遭い、田中宮(橿原市田中町)へ移り、のちに(十二年)「厩坂(うまやさか)宮」(橿原市大棘町の地域か)、さらに「百済宮」に徒(うつ)った、とされる。
 (四)したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。(後略)〟

 この古田先生の指摘への反証を拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」(注②)で行いましたが、今回、推古天皇の宮についての古田先生の指摘が適切ではないことに気づきました。
 〝推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田(おはりだ)宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。〟とされ、〝したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。〟と批判し、これら三天皇は近畿天皇家ではないとする根拠の一つにされたわけです。ところが、この三つの地名「乎裟陁(おさだ)」「等由羅(とゆら)」「阿須迦(あすか)」の所在地について、湊哲夫さんの『飛鳥の古代史』(注③)によれば、阿須迦(飛鳥)は明日香村内の飛鳥川流域の小地域、等由羅(豊浦)は明治二十二年に飛鳥と合併して飛鳥村になっていることから阿須迦(飛鳥)の近隣(すなわち「飛鳥」内ではない)、乎裟陁(訳田)は桜井市戒重付近とされています。
 従って、現在の行政地名「奈良県高市郡明日香村豊浦」に基づき、豊浦宮を飛鳥内と理解し、推古天皇を差し置いて舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶはずがないとした古田先生の批判は根拠を失うのです。古代地名としての飛鳥と豊浦が近隣の別の場所であれば、むしろ船王後墓誌の三天皇を敏達・推古・舒明とする通説の方が適切な理解となります。
 なお、アスカを筑前から筑後にかけての広域地名とする正木裕さんの研究(注④)があります。わたしの見るところ、仮説として成立しており、『日本書紀』や金石文・木簡に見える「飛鳥」との関係をどのように解釈するのかが注目されます。

(注)
①古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
③湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
④正木裕「『筑紫なる飛鳥宮』を探る」『古田史学会報』103号、2011年。


第2852話 2022/10/04

宮名を以て天皇号を称した王権(3)

 通説では、船王後墓誌(注①)に見える乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としており、いずれも奈良盆地南辺付近の宮名を以て天皇号に称したと見なしています。「阿須迦宮治天下天皇」については「阿須迦天皇」とも記されており、いわば地名「阿須迦」を以て天皇号としています。この三つの地名「乎裟陁(おさだ)」「等由羅(とゆら)」「阿須迦(あすか)」の所在地については諸説ありますが、湊哲夫さんは次のように解説しており、通説に立てば概ね妥当なものと思います(注②)。

 「飛鳥の範囲については、ほぼ現在の明日香村域とするのが今日の通年であろう。これによれば、平田の高松塚古墳や阿部山のキトラ古墳も飛鳥の地域内ということになる。しかし、このような通念は現在の行政区画に災いされたもので、明らかに古代の飛鳥とは異なっている。現在の明日香村は昭和三十一年飛鳥・高市・坂合山村が合併して成立したが、その飛鳥村は明治二十二年飛鳥・八釣・小原・東山・豊浦・雷・小山・奥山の八村が合併して成立したものである。」
 「(雷丘東方遺跡から「小治田宮」墨書土器が出土した)結果飛鳥の地域がさらに限定され、北限を飛鳥寺付近、南限を伝飛鳥板蓋宮跡付近とする、南北一㌔㍍程の飛鳥川流域一帯とする見解が現在有力となっている。そして、飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮など飛鳥を冠する宮室はすべてこの地域内におさまることになる。」
 「敏達天皇の他田(おさだ)宮・訳語田(おさだ)幸玉宮は『日本霊異記』上巻第三に「磐余訳語田宮」とあるので、磐余に含まれることは確実である。その場所は『太子伝玉林抄』の「磐余訳語田宮者有人云今ノ大仏供ノ東開智(戒重)ノ里ヲ号訳田」から、桜井市戒重付近と推定される。」

 以上のように、阿須迦(飛鳥)は明日香村内の飛鳥川流域の小地域、等由羅(豊浦)は明治二十二年に飛鳥と合併して飛鳥村になっていることから阿須迦(飛鳥)の近隣、乎裟陁(訳田)は桜井市戒重付近とされ、奈良盆地南辺付近のそれぞれ小領域内にあった宮であり、領域が重なるなどの矛盾はありません。
 『日本書紀』にも次の記事が見え、船王後墓誌の宮名と問題なく対応しています。

◎乎娑陀宮 敏達天皇(572~585)
 「船史の祖、王辰爾ありて、よく読み釈(と)き奉(つかえまつ)る。」敏達元年五月条。
 「遂に宮を譯語田(おさだ)に営(つく)る。」敏達三年是歳条。
◎等由羅宮 推古天皇(592~628)
 「豊浦(とゆら)宮に即天皇位す。」即位前紀十二月条。
◎阿須迦宮 舒明天皇(629~641)
 「天皇、飛鳥岡の傍に遷りたまふ。これを岡本宮と謂ふ。」二年十月条。

 古田説では乎裟陁(福岡県福岡市南区曰佐)、阿須迦(福岡県小郡市井上、注③)、等由羅(山口県下関市豊浦町)に比定されており、倭京(太宰府)から離れた山口県にまで散在してはいるものの、その領域が重なるなどの矛盾点はありません。しかし、湊さんの解説によれば、古田先生の通説批判には問題が生じます。(つづく)

(注)
①船王後墓誌(三井高遂氏蔵)は大阪府柏原市の松岡山(松岳山)から出土したとされ、次の銘文が記されている。
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
③現地名は字「飛島(とびしま)」。明治期の字地名表には「飛鳥(ヒチョウ)」とある。


第2850話 2022/10/02

宮名を以て天皇号を称した王権(2)

 橘高修さんが「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」(注①)で指摘されたように、宮名が天皇号として称される制度を九州王朝が採用し、太宰府条坊都市(倭京)創建後(七世紀前半以降)も、代替わりのたびに周囲の宮を転々としていたのかという問題は重要です。この「宮名を以て天皇号を称した」という痕跡は、近畿天皇家では藤原宮や平城宮創建まで続いており、この史料事実については学界では早くから注目されてきました。たとえば藪田嘉一郎氏は「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」(注②)で次のように述べています。

 「かかる宮號を以て稱する天皇の號は崩御後の天皇、過去の天皇についてのみ用いられる慣習だったのである。奈良朝に入って平城宮が恒久的宮城となってからは、平城宮治天下天皇という號はひとり過去の天皇に稱するのみでなく現在の天皇にも稱するようになったが、奈良朝以前では過去の天皇を稱する時のみ使用したのである。これは代毎に宮が變ったからである。但し持統朝と文武朝では、持統天皇が天武天皇の飛鳥浄御原宮に居られ、のち藤原宮に遷られたため、両宮の名によって稱され、文武天皇は藤原宮に在り、持統天皇と同宮號を以て呼ばれるが、持統天皇朝で飛鳥浄御原宮治天下天皇といえば天武天皇を指し、文武天皇朝で藤原宮天皇といえば持統天皇だけを指すことになっていたのである。」

 このように、過去の天皇のことを称する場合に「○○宮治天下天皇」と宮名を使用し、恒久的宮城(平城宮)となってからは「平城宮治天下天皇という號はひとり過去の天皇に稱するのみでなく現在の天皇にも稱するようになった」という藪田氏の解説は貴重です。すなわち、代替わりしても恒久的宮城に居るのであれば、同じ「平城宮治天下天皇」という称号を採用せざるを得ないとするわけです。
 この大和朝廷での宮名を以て天皇号を称するという制度は、九州王朝での先例に倣ったのではないでしょうか。そうであれば、倭京(太宰府)創建後の九州王朝では、代替わりしても「倭京の○○宮天子(あるいは天皇)」と称したことになります。残念ながら九州王朝が倭京の宮殿をなんと称していたのかは不明です。
 従って、倭京(太宰府)の造営年代・遷都年代がいつかということが次に問題となるのですが、九州王朝の太宰府遷都は倭京元年(618年)とする説(注③)が有力ですから、船王後墓誌に見える「阿須迦宮治天下天皇」の「末歳次辛丑」が641年に相当しますから、これは九州王朝の恒久的宮城である倭京(太宰府)への遷都後です。そうであれば、墓誌に見える「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」を通説通り近畿天皇家の舒明とするか、倭京(太宰府)内の「阿須迦宮」と呼ばれた宮殿に居た九州王朝の天皇とするのかということになります。
 通説では、乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としており、いずれも奈良盆地南辺付近での遷宮と見なしています。
 他方、古田先生はこれらの天皇は九州王朝の天子のことであり、その宮は福岡県(乎裟陁・阿須迦)や山口県(等由羅)にあるとされました。そうすると、全国支配のための王都倭京(太宰府)から離れた山口県の「等由羅宮」で「治天下」していたことにもなりかねず、かなり不自然であることは否めません。ですから、橘高さんの疑問点、〝国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。「天皇の坐す宮」と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか〟は、とても重要な指摘だと思います。

(注)
①橘高修「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」『東京古田会ニュース』206号、2022年9月。
②藪田嘉一郎「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」『仏教芸術』7号、昭和25年(1950)。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。


第2849話 2022/10/01

宮名を以て天皇号を称した王権(1)

 『東京古田会ニュース』206号(2022年9月)に掲載された橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」で重要な問題点の指摘がありました。同墓誌は大阪府柏原市の松岡山(松岳山)から出土したとされ、次の銘文が記されています。

 「船王後墓誌」(大阪、松岳山出土、三井高遂氏蔵)
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

《訓よみくだし》
 「惟(おも)ふに舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏中祖 王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀(おさだ)の宮に天の下を治(し)らし天皇の世に生れ、等由羅(とゆら)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦(あすか)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦(あすか)天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故(ありこ)の刀自(とじ)と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固(ろうこ)せんがためなり。」

 通説では、乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としますが、古田先生はこれらの天皇は九州王朝の天子のことであり、その宮は福岡県や山口県にあるとされました(注①)。わたしはその古田説に反対し、通説の理解を支持する論稿(注②)を発表しました。今回の橘高稿はわたしと同様の結論に至っていますが、その中でとても重要で興味深い問題が提起されています。

 「(古田説によれば、船王後墓誌に見える)宮は天皇ごとに違うので、九州王朝は国王が変わるたびに中心となる宮の場所が変わる制度をもっていたことになるわけです。国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。『天皇の坐す宮』と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか」※()内は古賀による補記。

 このご指摘は重要で、宮名が天皇号として称されるという制度を九州王朝が採用していたのか、太宰府条坊都市(倭京)という王都王宮創建後(七世紀前半以降)も、それとは無関係に代替わりのたびに周辺の宮を転々としていたのかという問題に発展するからです。(つづく)

(注)
①古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。


第2845話 2022/09/27

九州王朝説に三本の矢を放った人々(5)

 通説側からの「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)への反論として考えた前期難波宮九州王朝複都説でしたが、通説側でも論争が続いていました。それは、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかというものでした。それぞれに根拠を持った見解でしたので簡単に決着が付きそうもありませんでした。文献史学では、孝徳紀の大化改新詔などの文言が七世紀中頃のものではなく、孝徳紀の記事が疑わしく、出土した前期難波宮も規模や様式が七世紀中頃の宮殿にふさわしくないとする見解が出されていました。

 他方、考古学者からは出土土器編年や宮殿の北西部の谷から出土した干支木簡(「戊申年」648年)を根拠に、孝徳期とする見解が優勢でした。しかし、少数ですが天武期ではないかと考える考古学者もいました。たとえば難波の発掘に携わってこられた大阪歴博の考古学者、伊藤純さんもそのお一人でした。2012年9月、大阪歴博で伊藤さんに前期難波宮についてのご意見をうかがったところ、次のように答えられました(注②)。

「わたしは少数派(天武朝説)です。90数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。しかし、学問は多数決ではありませんから。」

 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学出土物(土器編年・634年伐採木樋年輪年代・「戊申年」648年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。

 伊藤さんの答えは明瞭でした。「もし、宮殿平面の編年というものがあるとすれば、前期難波宮の規模・様式は孝徳朝では不適切であり、天武朝にこそふさわしい。」というものでした。すなわち、孝徳期では大和朝廷の王宮の発展史から前期難波宮は外れてしまい、天武期と考えると適切ということなのです。それと同時に、出土した土器の編年からみると、「孝徳期説の方がすわりが良い」とも正直に述べられました。この発言を聞いて、自説に不利なことも隠さずに述べられる伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。

 この伊藤さんの〝前期難波宮の規模・様式は大和朝廷の王宮の発展史と整合しない〟とする見解こそ、前期難波宮は近畿天皇家(後の大和朝廷)の宮殿ではないとする、九州王朝複都説の根拠の一つでしたので、伊藤さんの見解を知り、わたしは自説への確信を深めました。(つづく)

(注)
①九州王朝説への《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」
②古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟


第2844話 2022/09/26

九州王朝説に三本の矢を放った人々(4)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の中で最も深刻なものが《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」でした。
 《一の矢》の巨大前方後円墳や《二の矢》の古代寺院群については、〝お墓やお寺の存在は必ずしも列島の代表王朝がその地に存在した根拠とは言えない〟とする解釈で反論することもできないわけではありません(説得力を感じませんが)。しかし、列島随一の規模と最新の建築様式(朝堂院)を持つ前期難波宮の存在は、難波に列島を支配した王権・王朝が7世紀中頃に存在したという理解に至らざるを得ません(注①)。この圧倒的な実証力には解釈論で逃げ切るという方法が通用しないのです。
 わたしはこの《三の矢》を九州王朝説批判に使用されたら、反論が困難ではないかと苦慮してきましたが、幸いというか、通説側からは《三の矢》による九州王朝説批判はありませんでした。おそらく、通説側も、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかで論争が続いていましたから、九州王朝説批判どころではなかったのかもしれません。しかし、わたしは九州王朝説の在否に関わる重要問題と認識していましたので、苦心の末に前期難波宮九州王朝副都説(後に複都説に変更)へ至り、その仮説を発表しました(注②)。そして、この仮説の重要性を古田学派研究者に訴えたのですが、反対意見が古田先生から出され、それに同調する見解が古田学派内から出てきたのです。
 当時、拙論への批判が身内からなされるなど、わたしにはその理由が理解できませんでした。通説通り、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿とするのであれば、7世紀中頃には大和朝廷が列島の代表者として難波宮に君臨し、全国に評制を施行したことになるからです。白村江戦(663年)で九州王朝が唐・新羅連合軍に大敗する以前に、大和朝廷と王朝交代していたとでも言わない限り、成立しない批判だからです。(つづく)

(注)
①古賀達也「前期難波宮九州王朝副都説の新展開」『東京古田会ニュース』(171号、2016年)で、わたしは次のように訴えた。
〝「副都説」反対論者への問い
 「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えています。ですから前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論を歓迎しますが、その場合は次の四点について明確な回答を求めたいと思います。
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。
 これらの質問に答えていただきたいと、わたしは繰り返し主張してきました。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した前期難波宮である、と答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。残念ながら、この四つの質問に明確に答えられた「副都説」反対論者をわたしは知りません。
 七世紀中頃としては国内最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「郡制による全国支配」のための規模と朝堂院様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「評制による全国支配」のための九州王朝の宮殿と考えるべきというのが、九州王朝説に立った理解なのです。〟
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第2843話 2022/09/24

九州王朝説に三本の矢を放った人々(3)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《二の矢》(注①)を強く意識したのは、駒澤大学仏教学部名誉教授の石井公成さんのブログ「聖徳太子研究の最前線」を拝見したことによります。同ブログには聖徳太子研究に関する幅広い知見が記されており、多元史観ではないものの勉強になりました。これまでも「洛中洛外日記」で紹介したことがありました(注②)。
 6~7世紀、九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最密であるはずです。ところが考古学的出土事実は〝6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿〟なのです。これを九州王朝説に突き刺さった《二の矢》としたのですが、わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのが、石井さんのブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって反論されている記事を読んだときでした(注③)。
 この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。(つづく)

(注)
①《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
②古賀達也「洛中洛外日記」465話(2012/09/10)〝中国にあった聖徳太子書写『維摩経疏』〟
 同「洛中洛外日記」471話(2012/09/23)〝韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読〟
 同「洛中洛外日記」476話(2012/10/01)〝「三経義疏」国内撰述説〟
 同「洛中洛外日記」477話(2012/10/02)〝「三経義疏」九州王朝撰述説〟
③同「洛中洛外日記」1223話(2016/07/07)〝九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)〟で紹介した。


第2842話 2022/09/23

九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)

 わたしには、「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)の存在をはっきりと意識した瞬間やきっかけがありました。たとえば《一の矢》については、ある科学者との対話がきっかけでした。その科学者とは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法の開発者、中塚武さんです。
 2016年9月9日、わたしは服部静尚さんと二人で、京都市北区にある総合地球環境学研究所(地球研)を訪問し、中塚武さんにお会いしました。中塚さんは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法を用いて、前期難波宮出土木柱の年輪が7世紀前半のものであることや平城京出土木柱の伐採年が709年であったことなどを明らかにされ、当時、もっとも注目されていた研究者のお一人でした。
 2時間にわたり、中塚さんと意見交換したのですが、理系の研究者らしく、論点がシャープで、九州王朝存在の考古学的事実の根拠や説明を求められました。たとえば、巨大古墳が北部九州よりも近畿に多いことの説明や、7世紀の北部九州に日本列島の代表者であることを証明できる考古学的出土事実の説明を求められました。これこそ、「九州王朝説に刺さった《一の矢》」に相当するものでした。中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
 巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。

 「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」

 中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。(つづく)

(注)
①《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。
②酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は、樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。この酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。この方法は年輪年代測定のように特定の樹種に限定されず、原理的には年輪がある全ての樹木の年代測定が可能となる。


第2841話 2022/09/22

九州王朝説に三本の矢を放った人々(1)

 古田史学・多元史観、なかでも九州王朝説に対する強力な実証的批判を「九州王朝説に刺さった三本の矢」と名付けて、「洛中洛外日記」を初め諸論文で解説してきました(注①)。「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの考古学的出土事実のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《一の矢》については古田先生からの反論がなされており、その要旨は〝朝鮮半島へ出兵していた九州王朝に巨大古墳を造営できる余裕はなく、むしろ畿内の巨大古墳は当地の権力者(近畿天皇家)は朝鮮半島に出兵していた倭国ではないことの証拠である。〟というものでした。また、古田説支持者のなかからは「巨大古墳だから列島の代表王朝の墳墓だとは言えない」という意見もありました。
 しかし、わたしはこの主張では、九州王朝説支持者には納得してもらえても、通説支持者を説得できないと考えていました。列島内最大規模の古墳群を造営できる権力者は、それを可能とできる生産力や権威・権力を有していたと考えるのは、決して無茶なものではなく、むしろ合理的な理解だからです。また、ヤマト王権の命令で九州の豪族を朝鮮半島へ派兵したとする通説も解釈上成り立ち、否定しにくいと思います。
 《二の矢》については、九州王朝の都があった北部九州(筑前・筑後)には廃寺跡が多く、それらが九州王朝による古代寺院群とする意見もありました。しかし、畿内や近畿にも多くの廃寺跡があり、単純比較ではやはり畿内・近畿が古代寺院の最密集地とする通説は揺るぎそうにありません。
 《三の矢》に至っては、わたしが問題視するまでは古田学派内で注目もされてきませんでした。古田先生も前期難波宮を「『日本書紀』に記載されていない天武の宮殿ではないか」とする理解にとどまっておられました。それに沿った論稿も九州王朝説支持者から発表されてきました(注②)。
 この三本の矢は多元史観・九州王朝説にとって避けがたい〝弱点〟を突いており、戦後実証史学(大和朝廷一元史観)を支える強力な考古学的根拠と考え、わたしは古田学派内に警鐘を打ち鳴らしてきました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟
 同「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135136137号。2016年。
②大下隆司「古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった」「古田史学会報」107号、2011年。


第2808話 2022/08/12

『旧唐書』『新唐書』地理志の比較

 「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介した足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)には、唐代里単位の大程(1里約530m)と小程(1里約440m)について次の説明があります。

「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。」(44頁)
「舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 足立氏によれば、「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較しました(注②)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(887~946)、『新唐書』は北宋の宋祁(998~1061)による編纂です。
 『新唐書』地理志を一瞥して驚いたのですが、『旧唐書』には京師(長安)や洛陽(東都)から各主要都市や地域への距離、たとえば「天寶元年、改東都為東京也。(略)在西京之東八百五十里。」というように東京(洛陽)と西京(長安)間の距離が850里と記述されていますが、『新唐書』には各地域の戸数や人口、地名の変遷などは記されているものの、両都からの距離(里数)が書かれていないのです。これで正史の地理志として役に立つのだろうかと思うような「省略」ぶりです。ただし、国土の全領域については両書とも地理志冒頭に里数値を記しています。

〔『旧唐書』地理志〕
○漢 東西 9,302里 南北 12,368里
○隋 東西 9,300里 南北 14,815里
○唐 東西 9,510里 南北 16,918里

〔『新唐書』地理志〕
○漢 不記
○隋 東西 9,300里 南北 14,815里
○唐 東西 9,511里 南北 16,918里

 『新唐書』の里数値が、『旧唐書』の小程による里数値にほぼ基づいていることがわかります。それならば同様に各地域までの里程も『旧唐書』に基づいて記せばよいように思うのですが、それができなかった事情があるのではないでしょうか。おそらく、『新唐書』が成立した北宋代の里単位(大程)による国内各地の実測里数値と、小程により記された『旧唐書』地理志の里数値が異なっていたため、『新唐書』編者はあえて記さなかったのではないでしょうか。
 というのも、一旦、小程から大程へ里数を換算してしまうと、その影響が地理志冒頭の全国領域里数値にまで及び、果ては地理志以外の里程記事、たとえば夷蛮伝の里程まで書き改める必要が発生します。編纂時(11世紀)よりも数百年前の交流情報に基づく里数値の再検証など困難と判断したのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。
②『旧唐書』は中華書局本(1987年版)、『新唐書』はwebの「維基文庫」を使用した。


第2805話 2022/08/09

足立喜六訳注『入唐求法巡礼行記』を再読

 足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)を「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介しましたが、わたしは足立氏のお名前に見覚えがありました。それは東洋文庫に収録されている円仁の『入唐求法巡礼行記』(注②)の訳注を施された人物として記憶していたのです。
 今から二十数年前に、『三国志』倭人伝の行程(里数)表記の様式が後代史料(主に旅行記)にどのような影響を与えているのかを調べたことがあります。そして『海東諸国紀』(注③)や『老松堂日本行録』(注④)などに倭人伝の行程記事の影響や関連性を見つけたりしました。そのときに『入唐求法巡礼行記』も読み、訳注者の足立氏の名前に触れたのです。今回、唐代の1里の調査をしていたら、懐かしい足立喜六氏のお名前に出会い、同書を久しぶりに読みました。
 同書は円仁(794~864年)の唐の五台山・長安への巡礼日記です。各旅程間の里数が事細かに記されており、唐代の里程研究にも使用できる史料です。こうした中国内の里数を日本から来た円仁に実測できるはずもありませんから、当時の中国人から聞いた、当地の里程認識が記されたものと考えざるをえません。当時の唐里は足立氏の研究によれば1里約440mの「小程」であり、円仁が記した里程もこの「小程」での値と思われます。ところが、この「小程」による里数が後の「大程」(1里約530m)での里数と異なるため、そのことを疑問視する記事が塩入良道氏による同書補注に見えます。

 「西京から二千来里については、〈小野本注〉では千三百―千六百の諸説を挙げ、実際は千五、六百里であろうとする。」(『入唐求法巡礼行記2』112頁)

 西京(長安)から北京(太原府)まで二千里とする『入唐求法巡礼行記』原文に対して、「実際は千五、六百里であろう」と、小野本の注者(小野勝年氏)は疑っているわけです。おそらく、小野勝年氏には唐代の「小程」の認識がなく、地図上の距離を「大程」で換算したのではないでしょうか。同時に、何の説明もなく小野本の注を補注で紹介した塩入良道氏にも足立氏が提起した「小程」の認識がなかったのかもしれません。ちなみに、「小程」で里程記事を理解していた足立氏は当該部分に注をいれていません。『入唐求法巡礼行記』の里程記事は『旧唐書』地理志と同様に、「小程」で理解しなければならないのです。

(注)
①足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。
②円仁『入唐求法巡礼行記』足立喜六訳注・塩入良道補注、平凡社・東洋文庫157・442、1970年・1985年。
③申叔舟『海東諸国紀』岩波文庫、田中健夫訳注、1991年。当書と倭人伝の行程表記の類似について、次の拙稿で指摘した。
 古賀達也「洛中洛外日記」2151~2153話(2020/05/12~15)〝倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)~(4)〟
④宋希環『老松堂日本行録 ―朝鮮通信使が見た中世日本―』岩波文庫、村井章介校注、1987年。当書と倭人伝の韓国内陸行行程の類似について、次の拙稿で紹介した。
 古賀達也「洛中洛外日記」997話(2015/07/09)〝老松堂の韓国内陸行〟


第2804話 2022/08/08

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)

 唐代の1里を何メートルとするのかについて、唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里に換算するという方法がありますが、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)とがあるため、どちらの尺を採用したかで、「小里」(約430m)と「大里」(約540m)という大差が発生します。この問題の存在に気づいていましたので、『旧唐書』地理志の里程記事は「小里」で記されたのではないかと推定していました。しかし、そのことを結論づけるだけの史料根拠や正確な検証方法がわかりませんでした。そこで、京都府立図書館で先行研究論文を調査し、次の記事を見つけました。

 「唐尺に關しては徳川時代以來議論があつて、その大尺を棭齋の如く九寸七分とするものヽ外、曲尺と同じとし又は九寸八分弱とする説がある。近頃でも關野博士は後者を採り(平城考及大内裏考二二頁)足立氏は前者に與さる。(前掲書三〇頁以下)この両説に對して棭齋は本朝度考中に詳しく批判してゐるから茲には論究しない。足立氏は大尺を曲尺の一尺として、唐里は大程が曲尺の千八百尺、小程が曲尺の千四百九十九尺四寸とする。棭齋の考證より算出した里程とは五十尺前後の差があるが、小程は大約わが四町に、大程は五町に相當するといひうるであらう。而して大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。(足立氏前掲書四九頁)」森鹿三「漢唐の一里の長さ」(注①)

 ここに見える「小程」「大程」こそ、わたしが仮称した「小里」「大里」に相当します。そして、注目したのが「大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。」という指摘でした。そこで、この「小程」「大程」という概念の出典を調べたところ、足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注②)でした。そこでは次のように定義されています。

「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。」(44頁)

 そして、『旧唐書』地理志などの里程記事は小程で記されていると、次のように指摘しています。

 「兎に角唐里の長安・洛陽間の八百五十里は小程の計算であって、事實に適合することが推定せられる。なほ又他の地方に就いても、舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。同時に漢書及び舊唐書に記載した里程は決して無稽の數字でないことが知られる。
 以上の諸例に就いて考へて見ると、大程は隋若くは初唐に制定せられて、之を両京の城坊に適用したが、一般に励行せられたのではなくて、地方の里程・天文又は司馬法の如き舊慣の容易に改め難いものは、なほ舊制に近い小程が用ひられたのである。茲にも前に述べた劃一的でなく、また急進的でない支那の國民性が窺はれる。我が大寶令雑令の
  凡度地五尺為歩、三百歩為里。
も亦此の小程を採用したものだと思はれる。大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 以上のように、わたしが悩み続けて至った「小里」「大里」という概念が、昭和八年に「小程」「大程」として既に発表されていたのでした。先達、畏敬すべきです。なお、足立喜六氏(1871~1949)は土木技術者・数学の専門家で、長安遺跡の実地踏破を行った人物です。(つづく)

(注)
①森鹿三「漢唐の一里の長さ」『東洋史研究』1940年。
②足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。