九州王朝(倭国)一覧

第2888話 2022/12/05

『隋書』俀国伝「秦王国」の位置と意味

 北山背の渡来系氏族とされる秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えていますが、最初に秦王国についての古田説について紹介します。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について古田先生は筑後川流域とされました。それは次のようです。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

 筑後川流域に「秦王の国」があったとする古田説にわたしは賛成ですが、「筑後川流域」という表現ですと、久留米市や大川市も含まれてしまい、八分法で「東南」とは言いがたくなります。そこで、〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟と表現した方が良いのではないでしょうか。この点、現在でも「秦(はた)」を名字とする人々が、福岡県うきは市に濃密分布していることが注目されます(注②)。しかしながら、現在の名字「秦さん」の分布をそのまま古代の「秦氏」の分布とすることは適切ではありませんので、この点は留意が必要です(注③)。
 また、「秦王」という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見えます。

〝太秦公宿禰
 秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)〟(注④)

 これは「太秦公宿禰」は秦の始皇帝の子孫とする記事で、「大鷦鷯天皇(仁徳天皇)」の時代(五世紀頃か)には「秦王」と呼ばれていたことが記されています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、「秦」さんの分布は次のようである。
  人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
 【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示による。本姓「秦氏」の分布調査については、別途詳述する機会を得たい。
④佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、昭和三七年(1962年)。


第2887話 2022/12/04

よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院2023年 1月21日(土)

京都の秦氏と『隋書』俀国伝の秦王国

 来年1月21日(土)の新春古代史講演会のテーマと演題が次のように決まりました。

〔テーマ〕
□よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院
〔講師・演題〕
□高橋潔氏(京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
 京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―
□古賀達也(古田史学の会・代表)
 「聖徳太子」伝承と古代寺院の謎

 高橋氏の考古学的成果の発表を受けて、わたしからは考古学と文献史学による、京都市(北山背)の古代寺院群と九州王朝(倭国)との関係について論じる予定です。
 同講演に備えて、発掘調査報告書の精査と文献史学による京都(北山背)の研究を進めていますが、わたしが最も注目しているのは、北山背の渡来系氏族とされる秦氏の存在です。七世紀の古代寺院の造営にあたり秦氏が大きな役割をはたしたと通説では説明されているのですが、この秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えています。
 この秦氏の「秦」は、「はた」あるいは「はだ」と訓まれていますが、本来は「しん」であり、渡来後のある時期に「はた」「はだ」の訓みが与えられたとする記事が『新撰姓氏録』には見えます。従って、秦(しん)氏と秦(しん)王国は関係があるのではないでしょうか。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置については諸説ありますが、わたしは古田先生が推定された筑後川流域説(注)を支持しています。そして、その地に割拠した渡来系集団としての秦氏は、太宰府条坊都市の造営に貢献したのではないでしょうか。
 その秦氏の一派が倭の五王や多利思北孤の東征に伴って、北山背にも入り、当地の古代寺院群の創建に関わったとする仮説をわたしは検討しています。更には平安京造営にもその秦氏が深く関わったのではないかと考えています。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2886話 2022/12/01

十三弁軒丸瓦とフィボナッチ数列

 「洛中洛外日記」読者で久留米大学の公開講座にも参加されている菊池哲子さん(久留米市)から、興味深い情報を記したメールが届きました。九州王朝の十三弁菊花紋についての仮説(注①)に関する情報です。
 この十三弁紋は筑後地方から出土する軒丸瓦(注②)が十三弁蓮華紋であることとも対応しており、とても興味深いものですが、製造にあたり均等に分割しにくい十三弁にした理由が不明でした。ところが、菊池さんからのメールによれば、この13という数値は自然界によく現れるフィボナッチ数列であり、古代蓮の花弁は十三弁が基本であるとのことなのです。メールには次のような説明がありました。

 〝自然界によく表れてくる[フェボナッチ数列]というのがあり、「どんな花であっても花弁は3,5,8,13,21枚…のようになる」ことが多いとか。直前の2つの数の和が次の数となり、隣り合う数の比は限りなく黄金比に近づく…のだとか。花弁も品種で付き方に法則性があって、アサガオは1枚、ユリ3枚、サクラ5枚、コスモス8枚、キク科13・21・34・55枚など、花占いはだいたい初めから結果はわかっているそうです。13はこれだったのかなと思います。(中略)調べると古代のハスは、今の品種改良が進んだものと違い花弁が少なく、13枚が基本のようです。〟

 フィボナッチ数列とはイタリアの数学者フィボナッチ(1170~1259年頃)が紹介したもので、1・1・2・3・5・8・13・21・34・55・89・144~のように、前の2つの数字を足した数字という規則の数列です。この数値が自然界、中でも植物によく見られることは知っていましたが、まさか古代蓮が13弁だったとは知りませんでしたし、このフィボナッチ数列が九州王朝の家紋や筑後地方の十三弁蓮華紋軒丸瓦と関係するというアイデアなど思いもつきませんでした。これらが偶然の一致なのか、因果関係があるのかは分かりませんが、こうした視点にも留意して研究を進めたいと思います。菊池さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」992話(2015/07/03)〝九州王朝の家紋「十三弁の菊」説〟
②同「洛中洛外日記」1180話(2016/05/04)〝犬塚さんから十二弁、十三弁紋の調査報告〟
 同「洛中洛外日記」1181話(2016/05/04)〝十二弁、十三弁蓮華紋瓦の調査報告〟
 同「洛中洛外日記」1188話(2016/05/16)〝十三弁花紋と五十猛命と九州王朝〟
 同「九州王朝の家紋(十三弁紋)の調査」『古田史学会報』138号、2017年


第2880話 2022/11/20

『隋書』夷蛮伝の「山河」画像の迫力

 先週開催された〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟(注①)に参加して、最も印象に残ったのが大越邦生さんの発表「そうだったのか『日出づる処の天子』」でした。『隋書』俀国伝に記された九州王朝の姿や都への行程記事などについて、画像と音声により、わかりやすく、しかも迫力ある映像で説明されたものです。なかでも阿蘇山が俀国の中心にある代表的な山であることの証明に、夷蛮伝に見える他の国々の山河を大画面映像で紹介することにより成功されていました。
 そこで紹介された国とその中心的名山・大河・大湖について大越さんに問い合わせたところ、古田先生の『邪馬壹国の証明』(注②)に列記・解説されていることを教えていただきました。その解説は次の通りです。

《第一》高麗〔東夷〕「浿(はい)水。平壌城に面する。あたかも中国の洛陽・長安の都域を貫流する黄河のように、高句麗中、代表的な河川だ。」
《第二》靺鞨〔東夷〕「徒太山。(中略)靺鞨全体の風俗として、この山を神聖な山として『敬畏』しているさまがのべられている。」
《第三》俀国〔東夷〕○阿蘇山有り。其の石、故無し、火起り、天に接する者なり。
《第四》真臘〔南蛮〕「陵伽鉢婆山。都に近い所にあり、国王がその『神祠』を兵をもって守衛しているさまがのべられている。」
《第五》吐谷渾〔西域〕「青海(蒙古語でココノールと呼ばれる)。青海省の東北部にあり、面積四四五六平方キロ。従って、この吐谷渾にとって〝中心的かつ象徴的な存在の大湖〟であることは当然である。この地の龍種伝承が書かれている。」
《第六》高昌〔西域〕「赤石山・貪汚山。高昌国は現在の新疆省、吐魯番(トルファン)県。シルク・ロードの中枢地の一つである。このトルファンの地が、北は山嶺を以て鉄勒(匈奴の苗裔。回紇等)の界と相接し、南は凄絶な、不毛の大砂漠と相接している様子が活写されている。」
《第七》漕国〔西域〕「葱嶺山。漕国は、『漢書』西域伝でその特異の存在を詳記された、『ケイ賓国』の後身だ(『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版二九〇ページ参照)。西域地方の西限をなし、葱嶺の北に当たる。天山山脈、崑崙山脈の起点として知られているこの葱嶺山で、国王が華美を尽くして祭事をおこなっているさまが描かれている。(後略)」
《第八》〔北狄〕「金山。阿爾泰(アルタイ)山を言い、『突厥』の国号の起こりとなった、と説かれている。当然、突厥の中枢、シンボルをなす高山だ。」

 大越さんはこれらの名山・大河・大湖を大画面の映像で紹介されたのです。まさに古田史学も〝映像の世紀〟に入ったようです。

(注)
①八王子市の公益財団法人大学セミナーハウスが主催している一泊二日のセミナーで、21018年から毎年開催されている。「八王子セミナー」と通称されており、古田説支持者による研究発表と外部講師による講演を中心とするセミナーである。2022年は大山誠一氏の講演があった。
②古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2879話 2022/11/19

大宰府政庁Ⅱ期遺構は「都督府」説

 本日はエル大阪(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月もエル大阪(大阪市中央区)で開催します(参加費500円)。来年1月の関西例会は、初めてキャンパスプラザ京都(ビックカメラJR京都店の北)で開催します。午後は恒例の新春古代史講演会を同施設で開催します。

 今回の例会では冒頭に正木裕さんから〝「九州王朝」万葉歌 バスの旅〟の報告がありました。糸島から大宰府政庁や観世音寺・水城、別府温泉など、九州王朝と深く関係する名所旧跡を三日で巡るというものです。報告の中で、大宰府政庁Ⅱ期の創建年代は、白鳳十年(670年)創建の伝承を持つ観世音寺と同時期と考えられ、そうであれば当時は「太宰府」ではなく「都督府」と呼ばれていたはずとされました。
 確かにその方が適切のように思いました。ただし、王朝交代後の八世紀になると大和朝廷の「大宰府」と称されたことが律令に見えますので、正式名称は「大宰府」となり、「都督府」「都府楼」は歴史的遺称として併用されたものと思われます。今後、論文などに書くときは、どの名称を使用すべきか、悩ましい問題も発生しそうです。同テーマはわたしも「洛中洛外日記」(注)などで論じましたので、ご参照いただければと思います。
 大原さんからは『日本書紀』垂仁紀などに見える〝トキジクノカグノコノミ〟をナツメヤシ(デーツ)とする新説が発表されました。30年前に西江碓児さん(故人)がバナナとする説を発表されて以来の新説で、有力説と思いました。『古田史学会報』での発表が待たれます。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

(注)
 古賀達也「洛中洛外日記」1386話(2017/05/07)〝都府楼は都督府か大宰府か〟
 同「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年。

〔11月度関西例会の内容〕
①〝正木裕氏と行く 「九州王朝」万葉歌 バスの旅〟の報告(川西市・正木 裕)
②田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察(大山崎町・大原重雄)
③ジョン・レノンが繰り返したナンバー9(ナイン)(大山崎町・大原重雄)
④縄文語で解く記紀の神々・第八話 イザナミ神が生んだ国々(前・後)(大阪市・西井健一郎)
⑤伊勢神宮はいつの時代に近畿王朝の聖地となったか(茨木市・満田正賢)
⑥名前だけで実体のない不改常典(京都市・岡下英男)
⑦宇治橋断碑と宇治橋(八尾市・服部静尚)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
12/17(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)
 01/21(土) 会場:キャンパスプラザ京都(京都市下京区、ビックカメラJR京都店の北)


第2872話 2022/11/05

『先代旧事本紀』研究の予察 (6)

物部氏系とされる『先代旧事本紀』に物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないことを不思議に思っていたのですが、改めて同書を読んでみると、他にも不思議なことに気づきました。石上神宮の宝剣「七支刀(しちしとう)」(注①)の記事が見えないのです。物部氏の代表的な神宝の一つと思われる七支刀は『日本書紀』神功紀五二年条に記されています。

〝五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。〟『日本書紀』神功紀五二年条

百済王から遣わされた久氐等が七枝刀や七子鏡などを献じた記事です。「七枝刀」という特異な形状やその銘文(注②)から、百済王が倭王に贈った石上神宮の七支刀のことと思われます。そうであれば、『先代旧事本紀』「天皇本紀」神功皇后条にも七支刀記事があってもよいと思われるのですが、それらしい記事は見当たりません。他方、「大神」や「(石上)神宮」に奉納された剣・刀が「天孫本紀」に見えます。

○「布都主神魂刀」「布都主剣」〔「天孫本紀」宇摩志麻治命〕
○「(大刀千口)裸伴剣。今蔵在石上神寶。」〔「天孫本紀」十市根命〕

古田説(注③)によれば、石上神宮にある七支刀は、泰和四年(369年)に百済王から九州王朝(倭国)の「倭王旨」(当時、筑後に遷宮していた。注④)へ贈られたもので、その後、大和の石上神宮に移されたようです。その七支刀記事が『先代旧事本紀』に見えない理由として、同書編纂者が石上神宮に七支刀があることを知らなかった、あるいは石上神宮にはまだ七支刀がなかったというケースが考えられます。わたしは後者の可能性が高いと思います。『先代旧事本紀』が物部氏系の古典であることから、前者のケースはありにくいのではないでしょうか。この推定が正しければ、七支刀が筑後(九州王朝)から大和(石上神宮)に遷ったのは『先代旧事本紀』が成立した9世紀頃よりも後のことになりそうです。
しかし、『日本書紀』神功紀には百済から七支刀献上記事があり、『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいるはずなので、この記事を知っていたが採用(転載)しなかったことにもなります。その理由は、物部麁鹿火の磐井討伐譚が採用されなかったことと関係しているのではないでしょうか。たとえば、『先代旧事本紀』を著した近畿の物部氏と百済伝来の七支刀を護ってきた筑後の物部氏とは別系統の物部氏であった。そして、磐井を伐った物部氏は近畿の物部氏(麁鹿火)とは別の物部氏だったという場合です。すなわち、〝多元的物部氏伝承〟という歴史理解です。(つづく)

(注)
①七支刀は奈良県天理市にある石上神宮の神宝の鉄剣(全長74.8㎝)。金象嵌の銘文を持ち、国宝に指定されている。
②七支刀の銘文は次のように判読されている(諸説あり)。「泰和四年」は東晋の年号で、369年に当たる。
〈表〉泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
〈裏〉先世以来未有此刀 百濟王世□奇生聖晋 故為倭王旨造 傳示後世
③古田武彦『古代史六〇の証言』(駸々堂、1991年)「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
同「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年。
古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2870話 2022/11/03

『先代旧事本紀』研究の予察 (5)

 『先代旧事本紀』に『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えず、その名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」とあるのですが、「帝皇本紀」の継体天皇条には〝磐井の乱〟記事も〝磐井〟という人物も登場しません。今回、『先代旧事本紀』の本格的研究を進めるにあたり、同書を精読したところ、巻十「国造本紀」に〝磐井〟が記されていることに気づきました。
 『先代旧事本紀』巻十の「国造本紀」は他に見えない史料であり、偽作説があっても、「国造本紀」は史料価値が高いとされ、古代史論文にもよく引用されています。同巻冒頭の解説文には「總任國造百四十四國」(注①)とありますが、実際に掲載されているのは「大倭國造」(大和国)から「多褹島造」(種子島)までの百三十五国で、九国が漏れているようです。その百三十二番目の「伊吉島造」(壱岐島)に次の記事がありました。

 「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」『標註 先代旧事紀校本』

 継体天皇の時代に、石井に従う新羅の海辺の人を伐った天津水凝の後裔の上毛布直(カミツケヌノアタヒ)を造(みやっこ)とす、という記事ですが、この「石井」は筑紫国造磐井、「上毛布」は近江毛野臣(『日本書紀』継体紀)と考えられます。『古事記』では「竺紫君石井」と表記されていますから、「国造本紀」のこの記事は『古事記』か『古事記』系史料に依ったものと思われます。

 「この御世に、竺紫君石井、天皇の命に從はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき。」『古事記』「継体紀」(注②)

 「国造本紀」の「伊吉島造」記事で注目されるのが、そこにも物部麁鹿火の活躍が記されていないことと、石井に従う新羅の海辺の人を伐った「上毛布直」の名前と姓(かばね)が『日本書紀』の「近江毛野臣」とは異なることです。「直」と「臣」とでは地位が違いますし、「上」と「近江」も地理的に異なっています。どちらが本来の伝承かは今のところ判断できませんが、継体紀の〝磐井の乱〟関連記事は近畿天皇家により改竄・脚色されている可能性が高く、まずは史実かどうかを疑ってかかる方が良いように思います(注③)。
 また、「国造本紀」によれば、石井(磐井)の從者新羅海邊の人と戦った上毛布直が伊吉島造になったとありますが、壱岐島は九州王朝の勢力圏であり、その「伊吉島造」が九州王朝(倭国)の王の敵対勢力であったとは考えにくいのではないでしょうか。従って、「国造本紀」の記事もそのまま歴史事実とするのは危ういと思われます。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。
②倉野憲司校注『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。
③継体紀に見える近江毛野臣の記事と磐井の記事が入れ替えられているとする正木裕氏の一連の論稿がある。
 「磐井の冤罪 Ⅰ」『古田史学会報』106号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅱ」『古田史学会報』107号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅲ」『古田史学会報』109号、2012年。
 「磐井の冤罪 Ⅳ」『古田史学会報』110号、2012年。
 「『壹』から始める古田史学・17 「磐井の乱」とは何か(1)」『古田史学会報』151号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・18 「磐井の乱」とは何か(2)」『古田史学会報』152号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・19 「磐井の乱」とは何か(3)」『古田史学会報』153号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・20 磐井の事績」『古田史学会報』154号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・21 磐井没後の九州王朝1」『古田史学会報』155号、2019年。


第2859話 2022/10/15

信州上田に濃密分布する「番匠」地名

 昨日、「多元の会」主宰「古代史の会」にリモート参加させていただきました。吉村八洲男さん(上田市)により、上田市に遺る神科(かみしな)条里の成立が七世紀前半に遡り、九州王朝の進出と関係するのではないかとの研究が発表されました(注①)。吉村さんは、当地の古代製鉄の痕跡などを発見した研究者です。「古田史学の会」の会員でもあり、古代における九州と信州の密接な関係についての研究(注②)を進めるうえで、当地の歴史について何かと教えていただいています。
 今回の吉村さんの発表では、驚くべき史料事実が報告されました。江戸期の地名史料によれば、上田市に「番匠」やそれに類する地名が濃密分布(一村に一個所ほど)しているとのこと。他地域にはそのような地名分布は見えないようで、この「番匠」地名が古代に淵源するのであれば、九州王朝による信濃遷都計画に伴って派遣された「番匠」の痕跡ではないかとされました。
 九州王朝による前期難波宮(難波京)造営のために番匠の派遣が開始されたとする『伊予三島縁起』の記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申(九州年号、648年)、日本国御巡歴給」が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)により発見されていることもあり(注③)、九州王朝との関係が予想される興味深い「番匠」地名分布ではないでしょうか。吉村さんの研究の進展が期待されます。

(注)
①吉村八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会、2022年10月14日。
②古賀達也「多元的『信州』研究の新展開」『多元』136号、2016年。
 同「古代の九州と信州の接点」『東京古田会ニュース』190号、2020年。
 次の「洛中洛外日記」でも、九州と信州の関連について論じた。
 422話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
 483話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
 484話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
1065話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
1240話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
1248話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
1720話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布
2050話(2019/12/04) 古代の九州と信州の諸接点
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第2858話 2022/10/14

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(2)

 『隋書』俀国伝に記された、百済から俀国の都へ向かう裴世清の行程記事について、古田先生は主線行路「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と、傍線行路「又十余国を経て海岸に達す」に分けられたのですが、その理解を支えた根幹の論証がありました。それは、「又東して秦王国に至る」の直後にある「その人、華夏と同じ。以て夷洲と爲すも、疑ひて明らかにする能(あた)はざるなり」の記事に関するものです。この記事を古田先生は次のように理解されました(注①)。

〝この俀国の人々は、中国の人々とそっくりだ(よく似ている)。だから、〝ここは東夷の洲(しま)だ〟といわれても、中国人とはっきり区別できないほど、よく似ている。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、259~260頁

 古田先生は「その人」の「その」が、直前の「秦王国」ではなく、「俀国」を指すことを『隋書』夷蛮伝の用例を根拠として論証され、主線行路は「秦王国」で終了し、その後の記事は俀国の風俗(その人、華夏と同じ)や地勢(十余国を経て海岸に達す)に関する情報であるとされました。この「その人」の「その」が俀国を指すという論証が、行路を主線と傍線に分けて理解するという古田説成立の根幹となっているのです。
 なお、主線行路について、古田先生は次のように推定されています。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向〈四分法〉指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)。
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。(中略)首都圏「竹斯国」に一番近く、その東燐に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟同、275~276頁

 この裴世清が向かった行路については、古田学派内でも諸説が発表され、古田先生亡き後も活発な議論が続いています。これこそ、〝師の説にな、なづみそ〟の精神ではないでしょうか。ちなみに、古田説と同じく筑後川流域(筑後)から阿蘇山へと進む説は、わたしや谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)が発表しています(注②)。いずれ、真摯な論争の末に最有力説へと収斂するものと信じています。学問研究とはそのようなものですから。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
「『肥後の翁』と多利思北孤 ―筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解―」『古田史学会報』136号、2016年。
 谷本茂「『隋書』俀国伝の「俀の都(邪靡堆)」の位置について」『古田史学会報』158号、2020年。
 俀国の都を「肥」(肥前・肥後・筑後を含む広域)とする説が阿部周一氏(古田史学の会・会員、札幌市)から出されている。
 阿部周一「『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 ―行程記事から見える事―」『古田史学会報』148号、2018年。


第2856話 2022/10/08

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(1)

 『三国志』倭人伝に見える邪馬壹国への行程記事について、古田先生は名著『「邪馬台国」はなかった』(注①)で、倭人伝原文の一字一句も改訂することなく見事に博多湾岸へと至る解読を明示されました。たとえば短里説(1里約76m)、韓国内陸行説、対海国(対馬)・一大国(壱岐)半周読法、部分里程の和は総里程(万二千余里)説などです。
 倭人伝の里程記事ほどではありませんが、『隋書』俀国伝にも百済から都への行程記事(注②)があり、古田学派内でも諸説が発表されています。古田先生は俀国の都をヤマトとする通説を次のように批判しています(注③)。

〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
 しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
 ①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
 ②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
 ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。

 この古田先生の批判は強烈です。隋使が向かった相手国(俀国)の都への途中地名(固有名詞)が記されていないことになる、「又十余国を経て海岸に達す」を主線行路と見なす理解はあまりに恣意的です。国使であれば、何をおいても相手国の首都への行路地名(固有名詞)を一つ一つ確認し、本国に報告しなければならないはずです。従って、「十余国」もの個別国名やそれらを経て達した海岸名が全く記されていないのですから、この記事を地形上の補足説明(傍線行路)と見なす古田先生の理解は妥当です。そして、この理解を確証づけた根幹の論証があります。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②次の行程記事が見える。
 「度百濟行至竹島南望*タン羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。」 ※「*タン」は偏が「身」、旁が「冉」の字。
③古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2855話 2022/10/07

邪馬臺国と邪馬壹国〝裴松之の証言〟

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注①)を読んで古田史学のファンになった人は少なくないと思います。かく言う、わたしもその一人です。『三国志』原文に邪馬臺(台)国という国名はなく、邪馬壹国であることに一驚し、「壹」は「臺」の誤りとしてきた通説への反証として、『三国志』中の全ての「壹」と「臺」の字を抜き出し、両者が誤って使用されていないことを実証する悉皆調査という学問の方法に二驚するという経験を読者は共通して抱かれたはずです。このとき、わたしは古代史研究において、いかに「学問の方法」が大切かということを始めて認識し、「学問の方法」というものを強く意識しながら、今日まで古代史研究を進めてきました。
 そこで、今回紹介するのは、「邪馬台国」論争における〝裴松之(はいしょうし)の証言〟という古田先生の論証方法です。この論証は古田ファンでもご存じない方が少なくないようですので、その背景も含めて論じたいと思います。
 古田先生の「邪馬壹国」説に対して、通説側からよく出される反論に、〝五世紀に成立した『後漢書』には「邪馬臺国」とあり、『三国志』版本のみに見える「邪馬壹国」は〝天下の孤称〟であり、『三国志』原本には「邪馬臺国」とあった〟とするものがありました(注②)。これに対する反証として提起された論証の一つが〝裴松之の証言〟です(注③)。
 『三国志』は三世紀に成立した同時代史料ですが、現存版本には五世紀の南朝劉宋の官僚、裴松之(372~451年)による大量の注が付されています。ちなみに『後漢書』は同じく南朝劉宋の范曄(はんよう、398~445年)により編纂されたものです。この裴松之の注について、古田先生は次のように解説されています。

〝朝命を受けて『三国志』に対する校異を行った裴松之が『三国志』と同時代の史書・資料二七二種を対比して、二〇二〇回にわたって、異同を精細に検証していながら、問題の「邪馬壹国」については何等の校異も注記していない事実。この史料事実に刮目すべきだ。裴松之は冒頭の「上三国志注表」に次のように書いている。
 「其れ、寿(『三国志』の著者、陳寿)の載せざる所、事の宜しく録を存すべき者は、則ち採取して以て其の闕(けつ)を捕はざるは罔(な)し」「或は事の本意を出し、疑いて判ずる能(あた)はざれば、並びに皆、内に抄す」「事の当否、寿の小失に及ばば、頗る愚意を以て論弁する所有り」〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、194頁。

 『後漢書』が編纂された南朝劉宋において、その官僚裴松之が『三国志』を校異したことは重要で、次のように古田先生は指摘されました。

〝つまり“『三国志』本文に問題があれば、のがさず批判を加え、異本があれば正文・異文ともに収録する”といっているのだ。しかも、これは南朝劉宋の朝廷の勅命によって行った仕事だ。当時現存の『三国志』諸本は、当然裴松之の視野内にあったはずである。しかるに、裴松之は「邪馬臺国」という異本のあったことを一切記していない。(中略)
 このような史料事実を直視する限り、従来「邪馬台国=大和」説を唱道してこられた直木孝次郎氏が「公平にみて古田説に歩(ぶ)のあることは認めなければなるまい」(「邪馬台国の習俗と宗儀」、『伝統と現代』第二十六号〈邪馬台国〉特集号)と言われるに至ったのは、不可避の成り行きである。
 後代著作をもってする「多数決の論理」で代置するのではなく、「壹」を非とし、「臺」を是とする、具体的な実証だけが必要だ。それなしにこの史料事実を恣意的に“書き変える”ことは許されない。〟同194~195頁

 この五世紀における〝裴松之の証言〟は、同一王朝内で成立した『後漢書』の「邪馬臺国」表記を根拠に「邪馬壹国」説を批判することが、学問の論理上成立しないことを明らかにしたのです。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971年)。ミネルヴァ書房より復刻。
②藪田嘉一郎「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」『歴史と人物』1975年9月。
③古田武彦「九州王朝の史料批判 ―藪田嘉一郎氏に答える―」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。初出は『歴史と人物』1975年12月。


第2854話 2022/10/06

俾弥呼と倭王武を繋いだ『南斉書』

 令和二年(2020年)八月に定年退職してから二年間、わたしは三つの課題に取り組んできました。一つは、より多くの考古学論文・発掘調査報告書を正確に読むこと。二つは、古田先生の初期の著作群をもう一度丁寧に読むこと。三つは、友好団体の例会・勉強会にリモート参加して〝異見〟を聞くことです。これらの課題はこれからも続けますが、視力と集中力が低下していますので、古田史学入門当初のようなスピード感は望むべくもありません。しかし、若い頃よりも深く考えることができるようになった気がします。
 その復習を兼ねて、初期の著作で展開された古田史学の重要な論証やテーマを「洛中洛外日記」に書き留め、皆さんに紹介したいと思います。古くからの古田ファンにはご存じのことばかりと思いますが、少々お付き合いください。
 最初に紹介するのは〝『南斉書』の証言〟と名付けられた九州王朝の継続性に関する重要な論証です。1975年に発表されたもので(注①)、『邪馬一国の証明』に収録されています(注②)。『南斉書』は南朝斉の史書で、梁の時代に成立しています。著者は蕭子顕(~537年、梁。注③)で、南斉の中枢官僚「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)です。『南斉書』には短文ですが倭伝があり、その歴史が簡潔に記されています。

○倭国。(A)帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ。(B)建元元年、進めて新たに使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ(「慕韓」は脱落。(A)(B)は古田)。

 前半部(A)は『三国志』倭人伝からの引用、後半部(B)は『宋書』からの引用です。この『南斉書』倭伝に表された倭国とは〝倭の五王の王朝は、三世紀俾弥呼の王朝の直接の後裔であり、その間において、とりたてて言うべき大きな地理的変化、つまり「東遷」などはなく、ほぼ同一領域に都をおいていた〟として、古田先生は次のように指摘されています。

 「これは次のことを意味する。〝三世紀の卑弥呼の王朝が筑紫(博多湾岸)に都していたことが決定的となったならば(古田『邪馬壹国の論理』所収の「邪馬台国論争は終わった」参照)、そのときはすなわち、倭の五王もまた筑紫の王者だ、と必ず見なさねばならぬ〟と。」『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、257~258頁。

 ここで重要なことは、〝『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物〟ということであり、『南斉書』倭伝の後半部(B)の倭王武の使者の記事は、著者が〝直接、南斉の天子のかたわらにあって、じかに目にし、直接耳にした事実と考えられ、史料としての信憑性は極度に高い〟ということです。その著者が、〝この倭王武の王朝は、『三国志』に書いてある俾弥呼や壹與の王朝の後裔だ〟と前半部(A)にはっきりと明述しているのです。
 この論理性を古田先生は〝『南斉書』の証言〟と名付け、いわゆる邪馬台国東遷説を否定するとされました。邪馬台国大和説が当地の考古学者から明確に否定されるようになった今日(注④)、一元史観を維持するため次にクローズアップされるのが、邪馬台国東遷説であることは容易に想像できます。そして、古田先生はそのような時代の到来を予見していたかの如く、〝『南斉書』の証言〟の論証を1975年時点で発表されていたのです。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『野性時代』1975年。
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。本書収録の「『謎の四世紀』の史料批判」、「古代史の虚像」、「古代船は九州王朝をめざす」に〝『南斉書』の証言〟に関する解説がみえる。
③『邪馬一国の証明』に次の紹介がある。
 「著者、蕭子顕(~五三七年、梁)もまた、南斉の中枢官僚(給事中)だった。彼は、斉の予章、文献王、嶷の子であり、「聡慧」だったため、父の文献王にことに愛せられたという。そして「王子の例」として、「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)に任命された〈『梁書』、二十九〉。(より重要なことは、『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物だ、ということである。後記。)。」(ミネルヴァ書房版、257頁)
 予章文献王蕭嶷は南斉第二代武帝の次男、従って蕭子顕は武帝の孫に当たる。
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。関川氏は元橿原考古学研究所員。