九州王朝(倭国)一覧

第3061話 2023/07/05

『隋書』俀国伝に記された

       都の位置情報 (3)

 前話で挙げた『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する(1)~(5)の記事(注①)のなかで、(3)が重要であると指摘しました。このことについて説明します。

 (3)の記事には、俀國の都のある場所は「邪靡堆」であり、それは『三国志』魏志倭人伝に言うところの「邪馬臺」であるとする情報が記されています。それを読んだ読者は次のように認識します。

(a) 俀國とは倭人伝など歴代史書に見える倭国のことである。
(b) 現在(『隋書』編纂時、七世紀中頃)は邪靡堆を都としているが、その地は倭人伝にある女王の都「邪馬臺」(実際は邪馬壹国)のことであり、同じ位置にある。

 すなわち、俀國は中国と交流してきた日本列島の代表王朝とする歴史認識と、その都の位置は三世紀から七世紀まで変化していないとの位置認識に読者は至ります。この認識は現代の古代史学界でも同様に持たれ、大和朝廷一元史観の通説を形成する上で、重要な史料根拠となっています。それは次のような等式で表せます。

 七世紀の俀國の都「邪靡堆」=三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)=七世紀の俀國も畿内の王権=『日本書紀』に記された大和朝廷
従って中国史書も『日本書紀』も通説(一元史観)と対応しており、これは歴史事実と見なして良い。すなわち、『隋書』俀国伝は通説(邪馬台国畿内説・大和朝廷一元史観)を支持する史料根拠である。

 この一連の論理構造が一元史観という岩盤規制を支えているのですが、同時に、二番目の等式「三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)」が崩れると、一元史観という結論(不動の信念)が瓦解するという構造でもあります。そのため、学界内で「邪馬台国」九州説が発表されると、その論者に対して手厳しい批判がなされます。たとえば「邪馬台国」北部九州説を著書(注②)で発表した小澤毅氏に対して、寺崎保広氏は書評(注③)で次のように批判しています。

 「ただし、邪馬台国を論じた部分には違和感を覚えた。その所在地を巡っては膨大な研究史があるが、著者は北九州説をとるべきだと主張する。(中略)先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎているのではないか。近年では纏向遺跡の調査をはじめとして、邪馬台国畿内説がかなり優勢となっている状況にあって、著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いことであり、そうであれば、邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたいものである。」

 一見、学問的な批判のように見えますが、その内実は「先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎている」「著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いこと」の表現からわかるように、あまり本質的な批判になっていません。従来の畿内説が妥当ではないとする著者に対して、慇懃無礼な対応(冷静な判断力で先行研究に目配りせよ)のようにも映ります。また、「邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたい」と言うからには、「邪馬台国」大和説はあり得ず、北部九州説をとる関川尚功さん(注④)の著書『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(梓書院、2020年)にも書評で応答していただきたいものです。

 関川さんは先の等式中の「三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)」が成立しないことを、大和盆地を40年以上発掘してきた考古学者として証言したものであり、それは決定的な指摘です。

 他方、古田先生は文献史学の立場から、「七世紀の俀國の都「邪靡堆」=『日本書紀』に記された大和朝廷」が成立しないことを繰り返し指摘してきたことは著名です。すなわち、次の等号否定式などを提示され、「俀国≠大和朝廷」を論証しました。

『隋書』俀国伝の多利思北孤(男性)≠『日本書紀』の推古天皇(女性)
『隋書』俀国伝の多利思北孤(天子)≠『日本書紀』の聖徳太子(摂政)

 すなわち、古田先生は一元史観の論理構造の最も〝痛いところ〟を突かれたのです。(つづく)

(注)
①『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識の記事。
(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2) 其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4) 古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。
②小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
③寺崎保広「書評 小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』」『日本歴史』2019年。
④元橿原考古学研究所の考古学者。著書『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』で、次のように指摘した。詳細は拙稿「『邪馬台国』大和説の終焉を告げる ―関川尚功著『考古学から見た邪馬台国大和説』の気概―」(『古代史の争点』2022年、明石書店)を参照されたい。
〝『魏志』に描かれているような、中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この奈良盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特に、それが証明できるような遺物も、見当たらないからである。〟一~二頁
〝弥生時代後期には瀬戸内・山陰・北陸など、その中でも特に西日本地域では、丘陵上に築かれる各種大型の墳丘墓が発達することはよく知られている。しかし、大和地域ではこのような、大型墳丘墓については未だに確認されないばかりか、墳丘墓自体がほとんどみられず、むしろ、その空白地帯といえるのである。(中略)
さらに、方形周溝墓などを含めた弥生墳墓全体をみても、副葬品はほぼ皆無という状態である。〟三二~三三頁
〝最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。
また、鉄器の出土も周辺地域に比べるとかなり少量であり、青銅器自体の出土や、その生産遺跡も近畿の中で特に多いということはない。〟六七頁
〝大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されてないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。(中略)
このような大和の銅鐸や銅鏡が示す実態からも、大和と邪馬台国との接点を見出すことはできないのである。〟六九~七一頁
〝今日までの長い調査歴にもかかわらず、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にある。
その一方で、北部九州や吉備・山陰・北陸などでは、多くの副葬品を保有する、あるいは大型の墳丘をもつような墳墓などから、弥生時代の有力首長墓の存在はすでに明らかになっているのである。(中略)考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しえないことを示しているといえよう。〟一四一~一四二頁


第3060話 2023/07/03

『隋書』俀国伝に記された

     都の位置情報 (2)

 『隋書』俀国伝などの中国正史の夷蛮伝を読む際に留意すべき事があります。それは、想定された第一読者が、史書編纂時の王朝の天子であることです。『隋書』の場合は唐の天子(第三代高宗)です。従って他国の歴史の専門家でもない天子が読んで、普通に理解できる文章で書かれているはずです。

 次に大切なことが、読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するということです。これはフィロロギーという学問(注①)に於いて重要な視点で、当時の読者が史書から得た認識を、現代の研究者が同じように辿り、同じように再認識するための大切な留意点といえます。これらのことを踏まえた上で、『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置情報を記載順にピックアップします。次の通りです。論者によっては訳が異なる場合がありますので、まずは関連部分を原文で紹介します。

(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2) 其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4) 古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 上記をまず簡単に説明します。(1)は俀國が百濟・新羅の東南方向の水陸三千里先にあり、大海中の島国であるとしています。(2)は、その国の規模が「東西五月行、南北三月行」であり、それぞれ海に至るとあります。これは(1)の大海中の島国とする記事に整合しています。この二つの記事を読んだ当時の読者は、〝俀國は朝鮮半島から三千里先の東南方向にある大きな島国〟であると認識したことでしょう。

 (3)では、俀國の歴史と都の位置情報が具体的に紹介されます。都のある場所は「邪靡堆」であり、それは『三国志』魏志倭人伝に言うところの「邪馬臺」であると説明します。倭人伝には「邪馬壹国」とあり、この「邪馬臺」は五世紀に成立した『後漢書』倭伝の「その大倭王は邪馬臺国に居す」に基づいたものと思われます。この位置情報は重要で、この記事を読んだ読者は次の認識に至ったはずです。

(a) 俀國とは倭人伝など歴代史書に見える倭国のことである。
(b) 現在(『隋書』編纂時)は邪靡堆を都としているが、その地は倭人伝にある女王の都「邪馬臺」(実際は邪馬壹国)のことであり、同じ位置にある。

 すなわち、俀國は古くから中国と交流した日本列島の代表王朝であるとの歴史認識と、その都の位置は三世紀(『三国志』編纂時)から七世紀(『隋書』編纂時)まで変化していないとの位置認識に至ったことでしょう。この(3)の情報は重要ですので後述します。そしてこの認識を(4)の記事で読者は再確認します。すなわち、「古に云う」として俀國の位置情報「去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。」が記され、俀國が倭人伝や『後漢書』等に記された古の倭国であることが示されます(注②)。

 ここまでが、俀國伝の冒頭にある俀國の概要が記された部分です。そして、(5)の俀國と隋との具体的な国交記事へと移るわけですが、読者は(1)~(4)までを読んで得た基本認識に基づいて、(5)の具体的な行程記事(国交記事)を読むことになります。従って、(5)の行程記事は読者が抱いた基本認識に基づいて、あるいは基本認識と矛盾しない読み方(理解)を現代の読者(研究者)はしなければなりません。これは、わたしが古田先生から学んだ文献史学やフィロロギーの基本姿勢(学問の方法)です。(つづく)

(注)
①〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。
②『三国志』倭人伝に次の記事が見える。
「自郡至女王國、萬二千餘里。」「計其道里、當在會稽東冶之東。」「所有無、與儋耳朱崖同。」
『後漢書』倭伝には次の記事が見える。
「楽浪郡徼去其國萬二千里」「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近故其法俗多同。」


第3059話 2023/07/02

『隋書』俀国伝に記された

    都の位置情報 (1)

 『多元』176号に掲載された八木橋誠さんの論稿「倭国の漢字 ―音読みを探る―」に、『隋書』俀国伝に記された俀国の都の位置に関して、次の見解が示されていました。

〝隋帝が裴清を『俀国に使せしむ』という派遣記事は倭国の都が目的地となるので、その後は壱岐島を経て博多に上陸、盛大な歓迎セレモニーを受けて目的地に(ママ。「到着」が脱落か)したことで長安からの行程は終わるのである。(中略)ところが多元の古代史会議でも未だに裴清が大阪まで赴いたという主張に固執する先学がいて、思い込み持論を展開し、通説と相通じているようにも思える。本文では九州上陸後に「海を渡る」との表現はないので九州島に留まっていたことになるだろう。どこにも「海」や難波津の字もない。仮に瀬戸内海を渡ったとすれば、難波までは途中停泊しながら7~8日要するなど長い航海になる訳であるから、瀬戸内海の島々の描写や各停泊港の様子が全く書かれていないことは有り得ないことではないだろうか。〟

 「多元的古代研究会」や「古田史学の会」では、『隋書』俀国伝の都の位置や都への行程記事について諸説が発表されており、論争が続いています。学問は批判を歓迎し、真摯で誠実な論争は研究を深化させます。わたしは古田説(注①)を支持していますが、古田先生も行程や位置の詳細については断定されていませんし、自説の修正も行われていますので、未だ検討途中のテーマということもできます。

 学問論争であれば、いずれ真実に向かって論議が最有力説に収斂しますが、その前提として諸説の根拠となる俀国伝の史料事実を正確に把握することが必要です。なかでも論点となっている都の位置については、どのような位置情報が記載されているのかが決め手となります。そこで、当論争テーマに関わる位置情報について、改めて精査することにします。

 なお、ここでいう「位置情報」とは『隋書』成立時点(注②)での中国側の認識を意味しており、それが現代日本人の地図情報や歴史認識、あるいは『日本書紀』の記述と一致しているかどうかとは一応別問題です。まずはこの点を峻別して論じるのが、文献史学やフィロロギー(注③)という学問領域の基本姿勢です。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁に次のように記されている。
〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟
②『隋書』は本紀五巻・志三十巻・列伝五十巻からなる。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて編纂した。第三代高宗の顕慶元年(656)に完成した。九州王朝の時代に九州王朝(倭国)のことを記した俀国伝は同時代史料であり、九州王朝研究にとって貴重である。
③〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。


第3057話 2023/06/30

『続日本紀』の古歌「西の都」考

 『続日本紀』寶龜元年三月条に、歌垣で歌われた次のような「古歌」が見えます。

「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」

当該記事全文は次のようです。原文は本稿末尾に掲載しました。

【宝亀元年三月条】
辛卯の日、葛井(ふじい)・船・津・文・武生(たけふ)・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。その服は並に青ずりの細き布衣を着て紅(くれない)の長き紐を垂る。男女相並び行を分かちておもむろに進む。歌ひて曰く、
「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
と。その歌垣歌ひて曰く、
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」
と。歌の曲折毎に、袂(たもと)を挙げて節となす。その余四首並に是れ古詩なり。また煩はしくは載せず。時に五位より已上・内舎人及び女嬬に詔して、亦其の歌垣の中に列す。歌数終はる時、河内の太夫従四位の上藤原の朝臣雄田麻呂より已下、和舞(やまとまひ)を奏す。六氏の歌垣に人ごとに商布二千段綿五百屯を賜ふ。

 三十年ほど前、わたしが九州王朝歌謡(君が代・海行かば)の論文を執筆していたとき(注①)、この『続日本紀』の歌の存在を知り、九州王朝関連の歌のようだという感触は得たものの、決め手がなく、判断を保留していました。その後、「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」(注②)でも再検討したのですが、やはりうまく説明できず、疑問を解消できませんでした。そこでの課題は「西の都」を太宰府としたとき、それに対応する「東の都」を見いだせなかったからです。そのときの考察の様子を次のように記しています。

〝新日本古典文学大系『続日本紀』の解説では、「西京の由義宮の永遠の繁栄を歌う頌歌」とされているが、由義宮が西京と定められたのは神護景雲三年(769)十月のことで、歌垣の前年のことだ。ところが、これらの歌のことを「是れ古詩なり」と記されており、由義宮を西京に定めたために新たに創作された歌ではないことがわかる。すなわち、古くからあった歌を由義宮用に転用したのだ。
とすれば、この西の都とはどこだろうか。近畿天皇家の都とすれば、大和に対して西にあった都の有力候補は「難波宮」であろう。〟
〝九州王朝の都と考えた場合はどうだろうか。この場合、二つのケースが考えられる。「西の都」という表現が、近畿天皇家から見て、西にある九州王朝の都、たとえば太宰府といった場合。「遠の朝廷」という表現もこれと類似視点(時間・空間)か。もう一つは複数ある九州王朝の都のうち、西に位置する都をさす場合だ。この場合、この歌は九州王朝内での視点で作られたことを意味する。
いずれの場合も、糸島博多湾岸にあった都であれば、天孫降臨以来の伝統を持っており「万代の都」という表現はピッタリだ。ただ、後者の場合、西の都に対して、東の都が九州王朝内部になければならない。(中略)前者の場合も可能性としては否定できないが、近畿天皇家内部で九州王朝の都を讃える歌を創作し、伝承されてきたということになり、やや不自然な感じがする。〟

 この再考察から四半世紀を経た今であれば、有力な仮説を提示できます。それは、「西の都」は博多湾岸や太宰府にあった九州王朝の都「万世の都」であり、「東の都」は652年(九州年号の白雉元年)に創建した前期難波宮(難波京)とする仮説「両京制」です。前期難波宮九州王朝複都説が成立したおかけで、三十年来の疑問に一応の回答を見いだすことができました。学問研究の進歩を実感できたテーマでした。

(注)
①古田武彦・藤田友治・灰塚照明・古賀達也『「君が代」、うずまく源流』新泉社、一九九一年。
②古賀達也「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」『古田史学会報』26号、1998年。

【『続日本紀』寶龜元年三月条】
辛夘、葛井・船・津・文・武生・藏六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並着青摺細布衣、垂紅長紐。男女相並。分行徐進。
歌曰、
「乎止賣良尓 乎止古多智蘇比 布美奈良須 尓詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜」
其歌垣歌曰、
「布知毛世毛 伎与久佐夜氣志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須賣流可波可母」
毎歌曲折、擧袂爲節。其餘四首、並是古詩、不復煩載。時詔五位已上、内舍人及女孺、亦列其歌垣中。歌數闋訖、河内大夫從四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和舞。賜六氏歌垣人商布二千段、綿五百屯。


第3055話 2023/06/28

30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む

 最近、『古田史学会報』投稿論文審査の必要性から、30年前に発表した拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」(注①)を読みました。当論文は、1991年に信州白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で開催された古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム発表者の研究論文を収録した『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に掲載されたものです。わたしは同シンポジウムの実行委員会の一員として運営に徹していたのですが、古田先生のご配慮により、特別に論文掲載を許されました。しかも、内容は「邪馬台国」論争と殆ど無関係な『三国史記』の史料批判をテーマとしたものでした。

 同稿の主論点は『三国史記』新羅本紀に見える八~九世紀の日本国記事の日本は大和朝廷ではなく王朝交代後の〝九州王朝〟のことであるとするものです。すなわち、列島の代表王朝の地位を大和朝廷に取って代わられた後も、〝九州王朝〟は完全に滅亡したわけではなく、新羅と〝交流〟〝交戦〟していたとする仮説です。その根拠として、新羅本紀に記された日本国記事の内容が大和朝廷(近畿天皇家)の『続日本紀』の記事とほとんど対応していないことを指摘しました。

 一旦、この理解に立つと、新羅本紀の文武王十年(670年)の記事に見える倭国から日本国への国号変更記事(注②)は、九州王朝が国名を倭国から日本国に変更したと見なさざるを得ないとしました。

 この理解は古田説とは異なるものでしたが、古田先生から咎めらることもなく、『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に採用していただきました。当時、わたしの関心事は701年の王朝交代後の九州王朝がどうなったのかということでしたので、関連論文を発表し続けていました(注③)。なお、当論文の末尾をわたしは次のように締めくくっています。

 〝「孤立を恐れず。論理に従いて悔いず。一寸の権威化も喜ばす」とは古田武彦氏の言である。思うに、この言葉に導かれて本稿は成立し得た。学恩に深謝しつつ筆を擱くこととする。〟

 37歳の時の未熟な論文ではありますが、今、読み直しても、研究の視点や学問の方法は大きく誤ってはいないようです。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂、1993年。
②「文武十年(670年)十二月、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。」『三国史記』新羅本紀第六、文武王紀。
③王朝交代後の九州王朝について論じた次の拙稿がある。
「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
 「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」『市民の古代』13集、1991年、新泉社。


第3054話 2023/06/27

元岡遺跡出土木簡に遺る

      王朝交代の痕跡(4)

 元岡・桑原遺跡群出土の二つの紀年木簡、「大寶元年辛丑」(701年)木簡と「壬辰年韓鐵□□」木簡の考察を続けてきましたが、同遺跡からは次の二つの「延暦四年」(785年)木簡も出土しています(注①)。

・口壹升(サイン・花押)
・計帳造書口粮用(伋)口
延暦四年六月廿四日

献上  □□□(沙)魚皮〈折損〉延暦四年十月十四日真成

 701年に王朝交代し、785年にもなると木簡の紀年表記は年号(延暦四年)だけとなり、干支は使用されていません。しかも年号記載箇所は、「大寶元年辛丑」木簡とは異なり、文末に移動します。この頃になると、九州王朝時代の干支表記の伝統が失われていたことがわかります。

 九州王朝は早くから干支に強いこだわりを見せていたように思います。それを象徴するのが元岡遺跡群の古墳から出土した〝四寅剣(刀)〟です(注②)。それには金象眼で次の銘文が記されています。

大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)

 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。冒頭の「大歳庚寅」は『日本書紀』の用例に従えば、九州王朝の天子の即位年干支が庚寅であることを意味しますが、この年に九州年号が和僧から金光に改元されており、天子即位による改元と思われます。ところがこの年干支と日付干支が共に庚寅であることに着眼されたのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)でした。

 正木さんによれば、干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣(しいんけん)といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に造られたのであれば四寅剣になることに気付かれたのです。朝鮮半島では古代から中近世にかけて四寅剣が数多く作られ、国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです(注③)。この四寅剣(刀)のように、九州王朝は干支の持つ意味に関心を示しており、荷札木簡にさえも年号ではなく干支表記を採用したことに、国家としての深い政治思想が込められていたと思われるのです。

(注)
①『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』福岡市教育委員会、2007年。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。花押が古代木簡に使用されていたとする見解を服部秀雄氏は提起しており、興味深い。
②古賀達也「洛中洛外日記」339話(2011/09/25)〝「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察〟
同「洛中洛外日記」340話(2011/10/01)〝「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元〟
同「洛中洛外日記」341話(2011/10/02)〝「大歳庚寅」銘鉄刀の目的〟
同「洛中洛外日記」342話(2011/10/09)〝「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)〟
正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」『古田史学会報』107号、2011年。
古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」『古田史学会報』107号、2011年。
③古賀達也「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟
正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」『古田史学会報』157号、2020年。
古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
正木 裕「『壹』から始める古田史学・三十三 多利思北孤の時代Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号」『古田史学会報』167号、2021年。

Youtube 講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3050話 2023/06/23

「赤淵大明神縁起」所蔵文書館の紹介

本日の「多元の会」リモート研究会では、服部静尚さんによる『赤淵神社縁起』の解説がありました。同縁起は兵庫県朝来市にある赤淵神社所蔵のもので、九州年号の常色や朱雀などが記されており、注目されています。同研究会に参加した関東の研究者の皆さんも感心を示されたようで、『赤淵神社縁起』に関する拙稿についても紹介させていただきました。本稿末尾に同じく正木裕さんの関連論文と拙稿の表題などを付記しましたので、「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」などで閲覧いただければ幸いです。また、ご質問頂いた、常色年間(647~651)頃の九州王朝(倭国)と蝦夷国との関係については、正木裕さんの論稿「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」(注①)に詳述されていますので、ご参照下さい。
なお、赤淵神社蔵『赤淵神社縁起』とほぼ同内容の『赤淵大明神縁起』(注②)が福井県文書館松平文庫にあり、申請すれば閲覧が可能です。こちらは公立の施設ですから、どなたでも利用でき、研究に便利です。

(注)
①正木 裕「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」『古田史学会報』113号、2012年。
②朝倉義景が永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸に命じて作らせたとされる。内容は『赤淵神社縁起』に酷似している。

【赤淵神社関連論稿(古田史学の会)】

古賀達也の洛中洛外日記「赤淵神社」カテゴリー一括表示
○古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
○同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
○同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
○同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
○同610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
○同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
○同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
○同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
○同615話(2013/10/24)〝日本海側の「悪王子」「鬼」伝承〟
○同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
○同690話(2014/04/06)〝朝来市「赤淵神社」へのドライブ〟
○同719話(2014/06/02)〝因幡国宇倍神社と「常色の宗教改革」〟
○同1093話(2015/11/14)〝永禄三年(1560)成立『赤淵大明神縁起』〟
○同1095話(2015/11/21)〝関西例会で赤淵神社文書調査報告〟
○同1097話(2015/11/27)〝『赤淵大明神縁起』の史料状況〟
○同2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
○古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
○同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。
○正木 裕「九州王朝の天子の系列(下改め3)『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績」『古田史学会報』166号、2022年。


第3049話 2023/06/22

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2)

―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品(鏡・剣・玉類・他)や被葬者(人骨・歯など)は検出されませんでした。この出土事実を残念に思うと同時に、学問的にはとても貴重な問題を秘めているように思います。石棺内から赤色顔料が検出されたことにより、当地の有力者の墓と見られており、この〝被葬者・副葬品不在墓〟は様々な可能性を示唆します。たとえば次のような経緯を想定できます。

(ケースA) この石棺墓は吉野ヶ里集落の有力者のために、その人物の生前から造営された寿陵であった。ところが、何らかの事情により、その人物のご遺体を埋葬できなかった。たとえば、戦死などにより、ご遺体を敵対勢力が奪い去ったので、墓はそのまま埋め戻された。

(ケースB) 同じく、当該人物が生死不明の状況に陥り、あるいは当地を離れたため、墓はそのまま使用せずに埋め戻された。この場合、別人の墓としての再利用は憚られた。

(ケースC) 一旦、石棺に埋葬したが、何らかの事情により、別の場所に御遺骸と副葬品を再埋葬した。石棺は再利用されることなく、そのまま埋め戻された。

(ケースD) 当時(弥生後期)としては新流行の石棺墓を、有力者が自らの墓(寿陵)として造営したが、没後、遺族の希望、あるいは伝統的慣習を重んじた吉野ヶ里集落の風習により、従来の甕棺墓に埋葬され、石棺はそのまま埋め戻された。

この他にも様々な推論が可能ですが、いずれにしても吉野ヶ里集落にただならぬ事態か、急激な思想(墓制)の変化が発生したことをうかがわせます。これらの想定はメディアからの情報と机上の推論に基づくものですので、断定することなく、調査報告書の発表を待ちたいと思います。


第3047話 2023/06/20

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)

 吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品や被葬者は検出されませんでした。「洛中洛外日記」(注①)で「吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。」と書いていたわたしも、〝やはり出なかったのか〟とがっかりしました。というのも、石棺の蓋を開けてから、「副葬品はなかった」という報道まで間が開きすぎていたからです。
吉野ヶ里遺跡の最高所からの出土石棺ですから、当然、発掘担当者たちは一流の機材と準備をもって事に当たっていたはずです。なぜなら、石棺の蓋を開けた時点で金属探知機による副葬品の位置確認を行い、薄皮を剥ぐように慎重に発掘しなければならないからです。そうした事前準備をしていたのなら、その時点で鏡や剣など金属器の反応がないことがわかります。わたしたちにはうかがい知れない特段の事情があったのかもしれませんが、世間やマスコミの注目を維持するために、あえて発表を遅らせたのではないかとさえ邪推したくなります。もし、金属探知機を使用できないほど発掘調査の予算が少ないのであれば、当地の考古学者や行政の担当者に同情します。
ちなみに最先端機材を使用した事例として、福岡県古賀市の船原古墳発掘調査があります。それは下記のような調査方法でした(注②)。

(1) 遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロのカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(2) 次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(1)と(2)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(3) そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(4) 遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術はここまで進んでいるのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
②同「洛中洛外日記」2063話(2020/01/12)〝「九州古代史の会」新春例会・新年会に参加〟


第3040話 2023/06/13

『古田史学会報』176号の紹介

 『古田史学会報』176号が発行されました。拙稿「九州王朝戒壇寺院の予察」を掲載して頂きました。「戒壇」とは国家による仏教統制の仕組みの一つであり、僧侶になるためには国家が認証した戒壇寺院で受戒することが必要でした。大和朝廷の場合は東大寺と太宰府の観世音寺、下野国の薬師寺が戒壇寺院と定められ、古代日本の「天下の三戒壇」とも称されています。

 拙稿では、大和朝廷に先立つ九州王朝(倭国)にも国家認証の戒壇寺院があったのではないかとする視点により、共に670年(白鳳十年)の創建伝承を持つ観世音寺と下野薬師寺は九州王朝による戒壇寺院ではないかとしました。更に、高良山(久留米市)にも「戒壇堂」という地名があり、ここにも九州王朝の戒壇があったとする仮説を発表しました(注①)。なお、多元史観による戒壇・受戒などについては日野智貴さん(古田史学の会・会員)の研究、好論があります(注②)。
会報一面に掲載された正木稿は、701年の王朝交代後の九州王朝が大和朝廷により駆逐される様子が〝隼人討伐〟として『続日本紀』に遺されていることを明らかにしようとするもので、その目論見はかなり成功しているように思えました。同テーマは『九州王朝の興亡』出版記念講演会でも発表される予定で、楽しみです。

 176号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』176号の内容】
○消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」 川西市 正木 裕
○会員総会(6月17日)のお知らせ 会誌26号『九州王朝の興亡』出版記念講演の案内
○『播磨国風土記』宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所 神戸市 谷本 茂
○『日本書紀』の対呉関係記事 たつの市 日野智貴
○土佐国香長条里七世紀成立の可能性 高知市 別役政光
○九州王朝戒壇寺院の予察 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・四十二
多利思北孤と「鞠智城」の盛衰 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○書評 待望の復刊、『関東に大王あり』 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』27集 原稿募集
○『古田史学会報』投稿募集・規定

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2706話(2022/03/24)〝下野薬師寺と観世音寺の創建年〟
同「洛中洛外日記」2723話(2022/04/19)〝高良山中にもあった九州王朝の戒壇〟
②日野智貴「九州王朝の戒壇と僧伽(サンガ)」古田史学の会・関西例会(2021年1月)で発表。
古賀達也「洛中洛外日記」2351話(2021/01/16)〝仏法僧の受戒・得度制度の多元史観〟
日野智貴「菩薩天子と言うイデオロギー」『古田史学会報』174号、2023年


第3039話 2023/06/11

律令制都城論と藤原京の成立(4)

 ―「倭京」の成立と論理―

 新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)には、藤原宮(大宮土壇)に先行して造営された条坊は「倭京条坊」であり、〝藤原京以前に「倭京」と呼ばれた条坊都市が当地にあった〟とする仮説が示されています(注②)。そして、「倭京」創建を孝徳期~斉明期とします。その根拠として、『日本書紀』孝徳紀や天武紀などに見える「倭京」記事を挙げています。ですから、この仮説は文献史学の分野である『日本書紀』の新解釈に依っており、考古学的エビデンスを根拠としたわけではありません。
古田学派では倭京を九州王朝の王都、太宰府条坊都市のこととする理解が主流です(注③)。その根拠は九州年号の「倭京(618~622年)」です。また、「倭京」の直前の年号「定居(611~617年)」も、倭京造営にあたり、多利思北孤がその地を王都建設予定地に定めたことによると理解されています(注④)。従って、倭京とは7世紀前半に造営された倭国の新都(太宰府条坊都市)の名称であり、それに伴う九州年号と考えられています。
他方、『日本書紀』には孝徳白雉四年(653)~天武元年(672)の期間にのみ「倭京」記事が散見します。これらの倭京記事を根拠に「倭京条坊」の造営時期を孝徳期~斉明期とされたようですが、「孝徳白雉四年(653)」の頃は太宰府条坊都市「倭京」が九州王朝(倭国)の王都として機能していたと考えられますから、『日本書紀』に見える「倭京」を「藤原宮先行条坊にあった京」のことと理解するのは困難ですし、論証も成立していません。これは『日本書紀』の記事を史実として、そのまま信用してもよいのかという、文献史学における論証の問題であり、新庄説は論証不十分と云わざるを得ないのです。
もちろん、『日本書紀』編者は九州年号の「倭京」を知っているはずですし、九州王朝の国名が「倭」であったことも知っています。そして王朝交代直前の7世紀末頃には、自らの中枢領域である大和を「倭国」と称したことが藤原宮出土「倭国所布評」木簡により判明しています(注⑤)。『日本書紀』の史料批判や論証はこうしたことを前提に行わなければなりません。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』(星雲社、2015年)94~111頁に類似の諸仮説が紹介されている。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に再録。
『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
④同「太宰府建都年代に関する考察 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房。2012年)所収。
正木 裕「盗まれた遷都詔 聖徳太子の『遷都予言』と多利思北孤」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編・明石書店。2015年)所収。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。