第3224話 2024/02/12

難波京条坊研究の論理 (1)

 わたしが前期難波宮九州王朝王宮説を発表したとき(注①)、同条坊についての研究も始めました。前期難波宮を、九州王朝(倭国)が全国を評制により統治した「副都」(注②)とわたしは捉えていましたので、そうであれば九州王朝の都、太宰府条坊都市(倭京)と同様に条坊を造営したはずと考えていました。当時は条坊跡の出土が今ほど確認されていなかったことと、谷筋が多い上町台地に条坊の施設は困難とする意見が優勢だったように思います。しかし、わたしは条坊の存在を確信していました。それは次のような論理性によります(注③)。

(1)七世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。

(2)従って七世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。

(3)上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。

(4)以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上は歴史学の論理的予察に属しますが、考古学的出土事実という実証が後追いしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)に収録。
②発表当初、前期難波宮を九州王朝の副都(首都は太宰府倭京)と理解していたが、後に両京制(複都説)を採用した九州王朝の「東の都(首都)」とするに至った。次の拙論を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
同「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集)明石書店、2023年。
③同「洛中洛外日記」684話(2014/03/28)〝条坊都市「難波京」の論理〟

フォローする