九州王朝(倭国)一覧

第3480話 2025/04/30

久住猛雄氏「比恵・那珂遺跡群」論文の紹介

 6月22日(日)の「列島の古代と風土記」出版記念大阪講演会(注①)で講演していただく久住猛雄さんには、弥生の硯の研究と共に次の優れた研究があります。日本最古の〝大都市〟比恵・那珂遺跡(福岡市)についての研究論文「最古の『都市』~比恵・那珂遺跡群~」(注②)です。そこには重要な指摘と考察が述べられています。要約して紹介します。

❶比恵・那珂遺跡群は「最古の〈都市〉」である。「街区」の形成は「考古学的に認識しうる都市の条件」の一つとして重要視されているが、それがより明確にわかるのは比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、「初期ヤマト政権の宮都」とされる纏向遺跡においては、そのような状況は依然ほとんど不明である。
❷比恵・那珂では、高床倉庫が林立する倉庫群領域が弥生中期頃から形成される。それら倉庫域は『魏志倭人伝』の「邸閣」領域と推定される。
❸比恵・那珂遺跡の最大の特徴の一つとして、列島内外の遠隔地を含む多地域の土器の搬入が多く見られる。この現象が弥生中期後半から後期の全期間において継続的に見られ、他の集落に比べて明らかに多い。楽浪土器、半島系無文(粘土帯)土器、三韓土器、南九州から近江・東海西部地方までの土器が流入している。
❹半製品である「鉄素材」の出土が多い。その中には、朝鮮半島ではなく中国本土産と推定されるものもある。比恵・那珂では明確な鍛冶遺構が少ないが、むしろ長距離交易品としての鉄素材が流入して取り引き交換される場所で、鉄器に関しては福岡平野内の鍛冶集落から供給される率が高かったと考えられる。博多の鍛冶工房群の直接的な管理運営者は比恵にいた大首長の蓋然性が高い。
❺比恵・那珂では、天秤権用の石権(重り)が出土しており、鳥栖市本行遺跡出土の石権と重量単位に対応関係があり、比恵・那珂ないし「奴国」がその単位を定めた可能性がある。
❻これらの交易には文字によって管理されていた可能性が最近出てきた。博多湾岸からの板石硯出土の発見が続いており、外交だけでなく、交易にも文字が使用されていたと、近年では考えられている。
❼弥生時代から古墳時代前期の福岡県下から検出された井戸約800基のうち、なんと500基前後が比恵・那珂に集中している。その人口は控えめでも3000人以上と予想される。おそらく、直接経営の周囲水田では不足することから、広大な倉庫群領域の存在自体、余剰食糧あるいは交換物資として広範囲から食料を集積していることを示唆している。

 これらの考察・指摘は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を示唆するものですが、久住さんご自身は「邪馬台国」畿内説を支持されているとのことです。学問は異なる仮説が自由に発表でき、互いに学びあい、真摯に検証・論争することが大切です。久住さんの講演が待ち遠しいものです。

(注)
①「古田史学の会」主催。会場は大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば。6月22日(日)13:00開場。講師と演題は次の通り。
久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―。
②久住猛雄(福岡市埋蔵文化財課)「最古の『都市』~比恵・那珂遺跡群~」総括シンポジウム『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。

古代の都市と文字文化 20250622 isiteなんば

古代の都市と文字文化 2025年6月22日 isiteなんば


第3476話 2025/04/22

文献史学と考古学の〝もたれあい〟

 ―「邪馬台国」畿内説の真相―

 先日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。5月例会の会場は大阪市立中央会館です。

 今回も活発な討論・意見交換が繰り広げられました。関西例会ならではの光景です。このようにして学問は深化発展するのだと思います。わたしたちは、一元史観や権威(古田先生をも含む)におもねるような発表ではなく、〝師の説にな、なづみそ(本居宣長)〟を実践しています(注①)。もっとも、〝古田説にはなづまず、一元史観になづむ〟ような言動は考えものですが。

 正木さんの発表「邪馬壹国の王都」は、久住猛雄さん(福岡市埋蔵文化財センター)による、列島内最大規模の比恵那珂遺跡(弥生時代~古墳時代前期)の調査報告(注②)を紹介し、邪馬壹国博多湾岸説の考古学的根拠とするもので、わかりやすく印象的な内容でした。特に、同遺跡(環濠を持つ)の規模が吉野ヶ里遺跡の四倍であること、その南方には卑弥呼の墓があったと考えられている須久岡本遺跡群(注③)が広がっていることなど、この地をおいて、日本のどこに邪馬壹国があったとするのかと、改めて確信を深めました。

 質疑応答の際、「畿内説は何を根拠にして小規模な纏向遺跡や時代が異なる箸墓古墳を「邪馬台国」とするのか」という主旨の質問が出されました。とても重要な質問と思い、わたしは次のような学界の実体を説明しました。

〝この二十年ほど、わたしは畿内説の文献史学や考古学の研究者に会えば、次のような質問を繰り返してきました。「邪馬台国を畿内とする根拠を教えて下さい」。そして得られた回答はほぼ次のようなものでした。

〔文献史学者の意見〕「文献(倭人伝)の記述からは邪馬台国の位置は不明だが、考古学ではヤマトの纏向としていることから、畿内説が最有力と考えている」〟(注④)

〔考古学者の意見〕「考古学では邪馬台国の位置はわからないが、文献史学によれば畿内説で決まりとのことなので、纏向遺跡が該当すると考えている」

 この両者の主張からわかったことは、「邪馬台国」畿内説は〝文献史学と考古学のもたれあい〟、自説の根拠を互いに他の分野の見解に基づくとする「根拠なき“有力”説」であったことです。これでは〝学問の癒着構造〟とでも言われそうです。

 本来であれば、文献史学なら史料事実(倭人伝)を、考古学なら出土事実(弥生遺跡・遺物)をもって自説の根拠とすべきです。あるいは、自らの学問領域ではわからないのであれば、「邪馬台国の位置は不明」と言うべきです。そのうえで、別々の根拠とそれぞれの方法によって成立した両者の仮説(「邪馬台国」の位置)が一致すれば、その仮説はより有力となり、多くの人々の支持を得て、通説に至るのが真っ当な学問の道筋(道理)です。そうはなっていない日本の古代史学界は何かがおかしい。〟

 この学界の状況に対して、「否」の声を上げ、邪馬壹国博多湾岸説を唱えたのが古田武彦先生でした(注⑤)。そして、その学説(多元史観・九州王朝説)や学問精神をわたしたち「古田史学の会」は受け継いでいます。こうした関西例会での歯に衣を着せぬ論議を聞くたびに、三十年前、「古田史学の会」を創設してよかったと思います。

 今月から上田武さん(古田史学の会・事務局)が司会を担当。永年、司会を担当していただいた西村秀己さん(古田史学の会・会計、高松市)に感謝します。なお、当面の発表申請窓口は引き続き西村さんが担当しますので、お間違えなきようお願いします。

 4月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①応神帝 (記・応神帝譜に載る人々) (大阪市・西井健一郎)

②九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁神獣鏡 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

③古代日本の三国時代 ―蝦夷国の基礎的研究― (京都市・古賀達也)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

④百済三書の信憑性について (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/KlZsJrX7JKU

⑤邪馬壹国の王都 (川西市・正木 裕)
https://youtu.be/bgxvyw9Ild4

⑥「倭王の東進」と「神武神話」 (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22会員総会・記念講演会の案内
❷「列島の古代と風土記」特価販売(2200円、税・送料をサービス)の案内
❸その他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
05/17(土) 10:00~17:00 会場 大阪市立中央会館
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

(注)
①〝本居宣長の「師の説にな、なづみそ」は学問の金言である〟と古田武彦氏は語っていた。
②久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。他。
③古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1978年。
古賀達也「筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王―」『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店、2025年)
④仁藤敦史氏は『卑弥呼と台与』(山川出版社、2009年)、「倭国の成立と東アジア」(『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年)で、次のように畿内説の根拠を述べている。
「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)
「前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁」
⑤邪馬壹国博多湾岸説は、短里説(一里76メートル)による帯方郡から邪馬壹国までの総里程一万二千余里の到着地が博多湾岸であるとする文献史学の仮説、筑前中域が弥生時代の金属器(青銅器・鉄器等)と漢式銅鏡の出土数が国内最多であり、ヤマトよりも圧倒的に多いという考古学の出土事実により成立している。

【写真】比恵那珂遺跡群地図と比恵遺跡


第3473話 2025/04/14

久住猛雄氏の「板石硯」論文の紹介(2)

 久住さんの論文「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」(注①)には更に鋭い指摘があります。しかも出土事実に基づく論理的な考察であり、説得力を感じました。当該部分を転載します。

 〝『魏志倭人伝』に、倭と「諸韓国」との外交にも「文書を伝送し」とあるから、韓国側にも書写道具(板石硯・研石)が存在する蓋然性がある。韓国では、陶製円面硯の導入が百済で5世紀からなされるが(都라지2017)、それ以前には今まで認識されていない「板石硯」が多く存在するだろうと予測する。今後、出土品の再検討が必要であろう。書写用具としては「筆」の問題があるが、弥生時代中期後半併行の韓国昌原市茶戸里遺跡において、1号木棺墓より5本の筆が出土している(李健茂1992、武末2019;図11)。列島産の可能性が高い青銅器(中細形銅剣)や付近の祭祀土器に糸島型の須玖式系土器があり、「奴国」や「伊都国」と茶戸里の首長は交渉していたのが明らかなので、列島にも同様な筆が存在した可能性は高い。今後、筆だけでなく、硯研台・硯篋、さらに木簡を含む書写に関わる有機質製品が発見されることが予想されるし、そのような認識で発掘調査とその整理作業に臨む必要があろう。〟

 ここに示された考察は次のような論理構造を持っています。

❶倭人伝には、倭と「諸韓国」との外交にも「文書を伝送し」とあるから、同時期の韓国側にも書写道具(板石硯・研石)が存在する蓋然性がある。
❷弥生時代中期後半併行の韓国の茶戸里遺跡木棺墓より5本の筆が出土している。
❸茶戸里遺跡からは日本列島産の可能性が高い青銅器(中細形銅剣)や糸島型の須玖式系土器が出土しており、北部九州と茶戸里の首長は交渉していたのが明らか。
❹そうであれば、日本列島にも同様に筆や硯研台・硯篋、さらに木簡を含む書写に関わる有機質製品が発見されることが予想される。

 この倭人伝の史料事実と考古学的出土事実から導き出された❹の「予想」は、とても論理的で合理的なものです。考古学界では〝論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。〟を実践する研究者が増えていることを実感しています。「古田史学の会」ではそうした研究者を応援し、そして学ばせていただきたいと願っています。たとえ意見が異なっていたとしてもです。
6月22日の「列島の古代と風土記」出版記念大阪講演会(注②)での久住さんの講演が待ち遠しいものです。(おわり)

(注)
①久住猛雄(福岡市埋蔵文化財課)「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」韓国慶北大学校人文学術院HK+事業団 第4回国際学術大会『木から紙へ ―書写媒体の変化と古代東アジア―』発表資料集、2021年。
②「古田史学の会」主催。会場は大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば。6月22日(日)13:00開場。講師と演題は次の通り。
久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―。


第3472話 2025/04/13

久住猛雄氏の「板石硯」論文の紹介(1)

 弥生時代の硯(すずり、板石硯)の福岡県を中心とする発見が続き、弥生時代の文字使用を示す遺物として注目しています。従来は砥石と判断されていた板状の石製品を再調査すると、硯であることが判明しました。これを発見したのが、福岡市埋蔵文化財センター・文化財主事の久住猛雄(くすみたけお)さんです。本年6月22日の「古田史学の会」主催講演会(注①)では久住さんを講師として、弥生時代の板石硯と当時最大の都市「比恵那珂遺跡群(福岡市)」について講演していただく予定です。

 それに先立ち、久住さんの論文「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」(注②)を再読しています。同論文では『三国志』倭人伝に記された弥生時代の文字文化について考察しており、倭国の文字(漢字)の受容について古田説と同様の見解であり、以前から注目していました。転載します。

 〝3世紀(弥生時代終末期~古墳時代初頭)には、『三国志』の通称「魏志倭人伝」によると、倭女王卑弥呼は魏に「上表」しているし、さらに倭王が「京都(魏都洛陽)、帯方郡、諸韓国」に遣使する場合には、「文書を伝送」し、「賜遣之物」に誤りがないかどうか「皆、津に臨みて捜露す」とあるが、これは何か「目録」のようなものと「賜遣之物」を照らし合わせたと解釈できるし、「文書を伝送し」という記事からは、少なくとも「外交」においては「文字」を使用していたことは明らかではないかと考えるがいかがであろうか。

 この記述の中では、中国王朝(「京都、帯方郡」)との外交だけでなく、「諸韓国」との外交においても、「文書を伝送」していたとされていることも重要である。一方、「魏志倭人伝」には、「使訳の通ずる所三十国」ともあるから、倭王だけでなく倭の諸国も「文書」を伝送したり、「賜遣之物」のやりとり(対外長距離交易)には「目録」や、あるいは取引記録などで文字を使用していた可能性は十分考えられる。

 さらに遡って見てみると、『漢書』地理誌では(紀元前1世紀、弥生時代中期後半頃)、「(倭人は)分かれて百余国となす。歳時をもって来りて献見すると云う」とあるが、「歳時」のたびに「百余国」が「献見」したとすれば、最初に遣使した場合はともかくそれ以降は、外交儀礼上、何らかの「上表」文と、献上品の「目録」を持参するように漢(楽浪郡)側から求められたのではないだろうか?
以上が、少なくとも弥生時代中期後半以降、倭において「外交」および「対外長距離交易」においては、「文字」を使用することがあり得たとする理由であり、前提となる考えである。ただし注意してほしいのは、そのことをもって直ちに「内政」一般において文字を使用していたこと(「文書行政」の開始)を意味しないし、またそのようには考えていないということである。〟

 このようにとても鋭い視点です。しかし、慎重に判断されたものとは思いますが、〝直ちに「内政」一般において文字を使用していたこと(「文書行政」の開始)を意味しない。〟とするのはいかがなものでしょうか。なぜなら、倭人伝には次の記事があるからです。

 「收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。」

 「租賦を収む」とあるように、「租賦」(祖は穀物、賦は労役)を徴収する制度が記されていることから、徴税・徴発のためには戸籍(文字による記録)が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要ですから、行政(内政)に於いても文字を使用していたと考えざるを得ないのです。

 更に久住論文には優れた論理的考察が示されています。(つづく)

(注)
①講師と演題は次の通り。会場は大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば。6月22日(日)13:00開場。
久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―
②久住猛雄(福岡市埋蔵文化財課)「弥生時代における「板石硯」と文字使用の可能性について」韓国慶北大学校人文学術院HK+事業団第4回国際学術大会『木から紙へ ―書写媒体の変化と古代東アジア―』発表資料集、2021年。


第3471話 2025/04/12

久住猛雄氏の「弥生の硯」大阪講演が決定

 近年、弥生時代の硯(すずり、板石硯)が福岡県を中心に発見され、弥生時代の文字使用を示す遺物として注目されています。従来は砥石と判断されていた板状の石製品を再調査すると、硯であることが判明しました。この大発見をしたのが、福岡市埋蔵文化財センター・文化財主事の久住猛雄(くすみたけお)さんです。「洛中洛外日記」などでも紹介してきました(注①)。

 久住さんと共に調査した柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注②)によれば、柳田さんや久住さんによる、板石硯の調査結果が報告されており、その出土分布は示唆的です。両氏らが発見した弥生時代・古墳時代前期の硯・研石の総数は現時点で200個以上、出土地は次の通りです。

○福岡県 糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)、春日市3例、筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)、北九州市20例、築城町8例(研石1)。
※福岡県合計123例以上。
○佐賀県 唐津市4例(研石1)、吉野ヶ里町2例(研石1)、基山町1例。
○長崎県 壱岐市11例(研石4)。
○大分県 日田市1例。
○熊本県 阿蘇市2例。
※福岡県以外の九州合計21例。
○広島県 東広島市2例。
○岡山県 10例(研石2)。
○島根県 松江市8例(研石1)、出雲市2例、安来市3例。
○鳥取県 鳥取市3例。
○石川県 小松市20例。
○兵庫県 丹波篠山市1例。
○大阪府 泉南市1例、高槻市3例。
○奈良県 田原本町2例、桜井市1例、橿原市1例、天理市5例。
※九州以外合計62例。

 他県を圧倒する福岡県の出土件数は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を支持するものですから、数年前から「古田史学の会」では久住さんに講演を打診してきました。この度、縁あって本年6月22日(日)に開催予定の『列島の古代と風土記』出版記念大阪講演会(会場:大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば)で講演していただけることになりました。

 講演会のテーマは「弥生時代の都市と文字文化」で、久住さんと正木裕さん(元大阪府立大学理事・講師、「古田史学の会」事務局長)のお二人に講演していただきます。演題は下記の通りです。講演会の詳細は別途ご案内します。講演会は会員以外の方も参加できます(一般参加費1000円、「古田史学の会」会員は無料)。なお、講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催しますので、会員の皆さんのご出席をお願いします。

○久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
○正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」二〇七五~二〇七六話(2020/02/05~06)〝松江市出土の硯に「文字」発見(1~2)〟
同「洛中洛外日記」2248話(2020/10/03)〝『纒向学研究』第8号を読む(1)〟
「松江市出土の硯に「文字」発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―」『古田史学会報』157号、2020年。
「田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期」『古田史学会報』162号、2021年。
同「文字文化が花開く弥生の筑紫」『九州倭国通信』号205、2022年。
②柳田康雄「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」『纒向学研究』第8号、桜井市纒向学研究センター、2020年。


第3460話 2025/03/28

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2)

 ―総里程「万二千余里」の根拠は何か―

 まず、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする古田説への批判について考えてみます。特に前半の総里程「万二千余里」を概数、すなわち厳密な計算に基づかないアバウトな数値とする理解については、古田先生による次の指摘があります。

〝さて問題のポイントは、帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里ということです。つまり12000-7000=5000(倭地)であって、はっきりした関係をなしています。これを偶然の一致だとか、倭地は周りが五千余里だということで、九州は長里で大体五千里になるだろう、足らないのは向こうがまちがえたなどとするのはおかしい。素直に解釈すべきだと思います。〟『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。「狗邪韓国、倭地」論 143~144頁。

〝一方、その大宛列伝(『史記』)をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟同。里程論 175頁。

 このように、倭人伝における陳寿の里程計算方法について詳述されました。これは文献史学におけるフィロロギーという学問の方法に基づいたものです。フィロロギーとはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、「人が認識したことを再認識する」というものです。このフィロロギーを村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承され、わたしたち古田学派の研究者がそれに続いています。日本ではフィロロギーを「文献学」とも訳されていますが、対象は文献だけではないことから、古田先生は原義(原語)のまま「フィロロギー」と呼ばれていましたので、わたしはこれに従っています(注①)。

 今回のケースでは、『三国志』の著者陳寿がどのような認識で倭人伝の行程・里程記事を著したのかを、現在のわたしたちが精確に再認識するということになります。すなわち、「万二千余里」をアバウトな概数と認識していたのか、陳寿なりの根拠を持った認識(ある情報に基づく計算式)に依っていたのかを探る、ということです。

 理系の化学や数学などの分野とは異なり、文献史学では人の心(理性・感情・認識・記憶など)や言動(講演、著述活動など)も重要な研究対象としますから、どうしてもフィロロギーの方法論を採用せざるを得ません。なぜなら、史料事実(真偽の程度未詳のエビデンス)と歴史事実は異なる概念であり、史料事実や出土事実それ自体が歴史事実を直接語るわけではないからです。このことについては別稿で論じたいと思います。

 先の古田先生の論考に見える「七千余里」「五千余里」「万二千余里」は、倭人伝の次の記事を典拠とします。

❶「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」
❷「自郡至女王國、萬二千餘里。」
❸「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 ❶は帯方郡(ソウル付近とされる)から韓半島南岸の狗邪韓國までの距離(七千余里)、❷は帯方郡から女王国までの総里程(一万二千余里)
、❸は狗邪韓國から女王国までの距離(五千余里)のことですが、❸については野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)による有力な異論もあります(注②)。

 古田先生が「陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう」とするように、陳寿の里程記事はアバウトな概数ではなく、根拠とした数値と計算式に基づいた里数と思われます。そもそも、アバウトな概数であれば「余里」(+α里)という表記は全く不要です。そのような概数であれば、一万二千里とか七千里、五千里と記せばよいだけだからです。おそらく陳寿は、倭国を訪問した魏使の報告書や、倭国に二十年間滞在した「塞曹掾史張政」(注③)の知見に基づいていると考える他ありません。「○○余里」とまで記した里数値はそうした情報に基づいており、現代人の認識や自説に基づく解釈によって、それらを概数と決めつけることはできないように思います。

 更に言えば、倭人伝の里程記事に見える里数を単純に足しても、それは一万五百里(伊都国まで)、または一万六百里(不彌国まで)であるため、それらの概数表記は「一万里」あるいは「一万千里」となります。従って対海国(対馬)と一大国(壱岐)の半周読法(注④)により導き出された里数(千四百里)を採用しない限り、仮に概数としても「一万二千余里」にはなりません。このことからも、倭人伝の「萬二千餘里」はアバウトな概数ではなく、陳寿が神経を働かせて〝根拠に基づく計算〟により記された里数と見なさざるを得ないのです。(つづく)

(注)
①フィロロギーについては次の書籍を参照されたい。
アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』(安酸敏眞訳、知泉書館、2014年。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften 1877年)。
古田史学の会・関西例会では同書をテキストに、茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)が2017年4月から一年間にわたり「フィロロギーと古田史学」を連続講義した。
②野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
同『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』私家版、2016年。
③古田武彦『すべての日本国民に捧ぐ 古代史―日本国の真実』1992年、新泉社。
④倭人伝行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致し、「邪馬台国」研究に於いて、「万二千余里」の説明に初めて成功した。

【写真】アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』と関西例会で発表する茂山憲史さん。


第3458話 2025/03/26

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (1)

 必要があって、『「邪馬台国」はなかった』(注①)を始めとする古田先生の初期の著作を何度も読み直しています。その勉強の成果の一端を、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注②)。

 そのようなおり、倭人伝の行程記事について思ってもいなかった古田説批判があることを知りました。それは〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい。〟あるいは〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟というものでした。すなわち、対海国(対馬)と一大国(壹岐)の島巡り半周読法(注③)は合計が一万二千里になるように解釈したもので、測定した証拠はないという古田説の根幹部分に対する批判です。

 このような古田先生の学問の方法の根幹部分(部分里程の和は総里程にならなければならない。注④)に対する批判があることを知ったのですが、どのように説明すればよいのだろうか、同時にその主張(部分里程の和が総里程と一致しなくてもよい)が成立するとした根拠は何だろうかと、わたしは考え込みました。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは考えていますので、古田先生ならどのように返答されるだろうかと思案中です。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古賀達也「洛中洛外日記」第3420~3424話(2025/02/03~07)〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟
同「洛中洛外日記」第3425~3433話(2025/02/09~25)〝『三国志』短里説の衝撃 (1)~(8)〟
同「洛中洛外日記」3439話(2025/02/27)〝『三国志』短里説の衝撃〔余話〕―陳寿を信じとおす、とは何か―〟
同「洛中洛外日記」3446~3454話(2025/03/11~20)〝『三国志』「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)~(7)〟

③倭人伝の行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする行程解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致した。これは従来の「邪馬台国」論争に於いて誰も成し得なかったことで、「万二千余里」の説明に初めて成功した行程解釈。

④古賀達也「洛中洛外日記」1538話(2017/11/14)〝邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造〟で、次のように説明した。
〝この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。〟


第3455話 2025/03/22

唐詩に見える王朝交代の列島 (6)

王維の「九州」、古田説と中小路説の衝突

 古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされ、中小路先生はその読みは成立しないと批判しました。恩師の説と尊敬する古典文学者の意見が衝突したのですから、わたしはもとより、古田学派内で静かな衝撃がはしりました。それは次の詩に見える「九州」です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹「扶桑」外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。従って、「郷樹扶桑外」を〝郷樹は扶桑の外〟では、仲麻呂の郷土は扶桑(九州王朝)の外(大和朝廷)となるため、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました(注①)。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生は、当時の漢文において「○○外」とあれば、〝○○の外側〟の意味であり、古田説のように〝○○は外〟と読むのであれば、その前例を提示すべきと批判しました(注②)。古典文学者として中小路先生は、前例のない古田先生の読みを認めることはできないとされたのです。

 このお二人の意見の衝突に、古田学派のほとんどの研究者は〝沈黙〟し、息をひそめて論争の成り行きを見ていたように思います。どちらの主張にも根拠があり、どちらを是とすべきか判らなかったのではないでしょうか。少なくともわたしはそうでした。また、古田先生と中小路先生は論文の他にも、電話でも論争を続けておられました。当時、中小路先生はお病気で、古田先生との長時間の電話による会話(論争)は息が切れて続けられない状況でした。そうした事情もあって、この論争は決着がつかないまま、中小路先生が亡くなられました(2006年没)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3444話 2025/03/07

唐詩に見える王朝交代の列島 (5)

 ―王維の詩の「九州」は九州島か―

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目したのですが、古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされました(注①)。前話で紹介した❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》の詩です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑は外(古田説による)
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 これは、唐の官僚(秘書)として勤めていた阿倍仲麻呂が帰国する際の送別の式で王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。それに対応するように、「郷樹扶桑外」も通説の〝郷樹扶桑の外〟ではなく、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島を意味する)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました。扶桑=外(遠地)とする理解です。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生はそのような読みは成立しないと批判されました(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3443話 2025/03/05

唐詩に見える王朝交代の列島 (4)

 「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目し、それは日本列島に複数の領域(王権)が併存していたことを表していると指摘しました(注①)。その根拠となった代表的な唐詩を『全唐詩』より紹介します。

❶《崔載華に同じて日本の聘使に贈る》劉長卿(710?~785?年)
憐君異域朝周遠 積水連天何處通
遙指來從初日外 始知更有扶桑東 →始て知る更に扶桑の東有ることを
(巻一五〇)

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處遠 萬里若乘空
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑の外
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

❸《日本の使の還るを送る》徐凝(生没年不詳) 九世紀初頭の詩
絶國將無外 扶桑更有東 →扶桑更に東有り
來朝逢聖日 歸去及秋風
夜泛潮回際 晨征蒼莽中
鯨波騰水府 蜃氣壯仙宮
天眷何期遠 王文久已同
相望杳不見 離恨托飛鴻
(巻四七四)

❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》韋莊(836~910年)
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東 →家は扶桑の東の更に東に在り
此去與師誰共到 一船明月一帆風
(巻六九五)

 これらは日本国に帰る使者・僧を唐の官人が送る詩ですから、そこに見える「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」という地理情報は、日中両国の知識人の共通認識と考えられます。そして、日本国の使者が帰る領域は「扶桑」の東にあるように記され、❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》の場合は「家は扶桑の東の更に東に在り」とあることから、僧敬龍の家は最も東の領域にあるわけです。

 そして、「扶桑」とは「元来、それは太陽がそこから昇る木、またはその木のある場所であろう」と中小路先生はされ、『隋書』俀国伝に見える「日出づる処の天子」の国、すなわち九州王朝(倭国)のこととしました。そうすると、その東にあるのが大和朝廷(日本国)、更にその東にあるのが毛人の国(蝦夷国か、注②)となります。

 このように、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国(扶桑の東の更に東)であり、七~九世紀(唐代)の多元的古代像に対応しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸「唐詩の日本古代史像 ―「扶桑の東」をめぐって―」『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②『旧唐書』日本国伝に次の記事がある。
「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」

【写真】劉長卿、王維、徐凝。


第3442話 2025/03/03

唐詩に見える王朝交代の列島 (3)

 ―扶桑(九州王朝)・扶桑の東(大和朝廷)・扶桑の東の更に東(蝦夷国か)―

古田学派に多大な影響を与えた中小路駿逸先生の唐詩研究の概要は次の通りです。

「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』(注①)196~197頁

具体的には、唐詩に見える「扶桑」などの詩句の分析を次のようにまとめられました(注②)。

一 「扶桑」、「若木」、「天」、「大荒」、「祖州」、「亶州」、および「蓬莱」と、さまざまなイメージを用いて、日本の地の位置および態様の大体が表現されている。

二 「蓬莱」型以外の五つにおいては、日本の地が東西二つに(唐末期には「扶桑」型において三つに)区分されている。

三 阿倍仲麻呂、空海、橘逸勢、円仁といった、畿内の地に帰ることの明らかな人々の帰着地、すなわち畿内が、日本の地のなかでも西から二つ目の、すなわち「何かの東の更に東」でなく「何かの東」の地域と、明らかに呼ばれている。

四 東海中の既知の地のさらに東に位置するものとして、〝畿内〟の地が知られるという、〝第一の変化〟が起こったのが唐代に入ってのちであること、『旧唐書』の記載に対応するこの変化が日本・唐双方の人間にとって共通の認識であったことは、劉長卿の詩句に最も端的に示されている。

五 「大山」よりもさらに東に日本国の領域がのびているという、〝第二の変化〟は、唐末ごろまでに生じていることが、韋荘の詩句に示されている。この、〝第二の変化〟は『旧唐書』にも見えず『新唐書』にもなお見えぬ事項であり、両『唐書』に用いられた史料よりものちの層に属する、より新しい知識と考えられる。

そして、次の結論に至ります。

「これらが、日本人と中国人の共通の認識として唐詩に示され、かつ中国の史書の記載と対応して矛盾しない日本像なのである。
この日本像が日本国内で八世紀以前に作られた諸書の記載内容と対応して矛盾しないことを、私はすでにいくつもの論考で述べた。」(注③)

この中小路先生が紹介する、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国か(扶桑の東の更に東)という多元的古代像を示唆しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②中小路駿逸「唐詩の日本古代史像・補足 ―阿倍仲麻呂・空海・橘逸勢・円仁・円載らの参与」『追手門学院大学文学部アジア文化学科年俸』一(十三)号、1998年。
③同注②


第3441話 2025/03/02

唐詩に見える王朝交代の列島 (2)

中小路駿逸氏から学んだ「論証とは何か」

 わたしが古田門下に入門した三十歳の頃、古田先生は東京の昭和薬科大学で教授をされており、直接教えを請えるのは年に二度ほどの大阪講演会(市民の古代研究会主催)のときくらいでした。そのため、1987年から大阪の追手門学院大学で文学部教授をされていた中小路駿逸先生(注①)からは、何かと教えていただきました。

 当時、わたしは化学会社に勤務しており、学生時代の専攻が有機合成化学だったこともあり(注②)、まったく異分野の文献史学において、「論証する」とはどういうことなのかさえも知りませんでした。化学の場合、実験により再現性を確認できれば、一応、仮説(想定した反応式や分子構造)を証明したことになり、その実験方法(反応条件)と実験結果(分析機器による測定データ)を提示することにより、化学論文としての最低要件は満たせます。ところが歴史学の場合、再現性試験は不可能ですし、文献(テキスト)をエビデンスとして採用することの当否も不確かです。ですから、古田先生の著書に記された〝目が覚めるような論証と結論〟に感動し、深く同意はできるものの、自ら歴史研究を行うことや論文執筆など、全くやり方がわからなかったのです。

 そこで中小路先生に、「論証するとは、どういうことなのでしょうか。どうすれば論証したことになるのでしょうか」と、恥ずかしながら尋ねてみました。中小路先生の返答は、「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。これはこれで難解な答えですが、このことを理解できるようになるまで十年ほどかかりました。ですから、わたしは古田門下では、あまりできのよい〝弟子〟ではなかったようです。古田先生からもよくしかられました。

 話を戻しますが、中小路先生は中国古典文学にも詳しく、唐詩の研究により、唐の詩人たちは唐代の日本列島に複数の王権が併存すると認識していたことを発表されました(注③)。

 「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』196~197頁

 この主張は、古田先生の多元史観・九州王朝説と整合するとされました。こうした中小路先生の唐詩研究は、当時の古田学派に多大な影響を与えました。(つづく)

(注)
①中小路駿逸(なかこうじ しゅんいつ)、1932~2006年。京都大学文学部文学科卒(国文学専攻)。明石高専教諭、愛媛大学教授などを歴任し、1987年に追手門大学文学部教授(国文学・国語学担当)に就任。2006年、同大学名誉教授。著書に『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』(桜楓社、1983年)、『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』(海鳥社、2017年)がある。
②久留米高専・工業化学科卒。鳥井昭美研究室でアクリジン関連化合物の合成と反応性について研究した。
③中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。