倭の五王一覧

第2854話 2022/10/06

俾弥呼と倭王武を繋いだ『南斉書』

 令和二年(2020年)八月に定年退職してから二年間、わたしは三つの課題に取り組んできました。一つは、より多くの考古学論文・発掘調査報告書を正確に読むこと。二つは、古田先生の初期の著作群をもう一度丁寧に読むこと。三つは、友好団体の例会・勉強会にリモート参加して〝異見〟を聞くことです。これらの課題はこれからも続けますが、視力と集中力が低下していますので、古田史学入門当初のようなスピード感は望むべくもありません。しかし、若い頃よりも深く考えることができるようになった気がします。
 その復習を兼ねて、初期の著作で展開された古田史学の重要な論証やテーマを「洛中洛外日記」に書き留め、皆さんに紹介したいと思います。古くからの古田ファンにはご存じのことばかりと思いますが、少々お付き合いください。
 最初に紹介するのは〝『南斉書』の証言〟と名付けられた九州王朝の継続性に関する重要な論証です。1975年に発表されたもので(注①)、『邪馬一国の証明』に収録されています(注②)。『南斉書』は南朝斉の史書で、梁の時代に成立しています。著者は蕭子顕(~537年、梁。注③)で、南斉の中枢官僚「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)です。『南斉書』には短文ですが倭伝があり、その歴史が簡潔に記されています。

○倭国。(A)帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ。(B)建元元年、進めて新たに使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ(「慕韓」は脱落。(A)(B)は古田)。

 前半部(A)は『三国志』倭人伝からの引用、後半部(B)は『宋書』からの引用です。この『南斉書』倭伝に表された倭国とは〝倭の五王の王朝は、三世紀俾弥呼の王朝の直接の後裔であり、その間において、とりたてて言うべき大きな地理的変化、つまり「東遷」などはなく、ほぼ同一領域に都をおいていた〟として、古田先生は次のように指摘されています。

 「これは次のことを意味する。〝三世紀の卑弥呼の王朝が筑紫(博多湾岸)に都していたことが決定的となったならば(古田『邪馬壹国の論理』所収の「邪馬台国論争は終わった」参照)、そのときはすなわち、倭の五王もまた筑紫の王者だ、と必ず見なさねばならぬ〟と。」『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、257~258頁。

 ここで重要なことは、〝『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物〟ということであり、『南斉書』倭伝の後半部(B)の倭王武の使者の記事は、著者が〝直接、南斉の天子のかたわらにあって、じかに目にし、直接耳にした事実と考えられ、史料としての信憑性は極度に高い〟ということです。その著者が、〝この倭王武の王朝は、『三国志』に書いてある俾弥呼や壹與の王朝の後裔だ〟と前半部(A)にはっきりと明述しているのです。
 この論理性を古田先生は〝『南斉書』の証言〟と名付け、いわゆる邪馬台国東遷説を否定するとされました。邪馬台国大和説が当地の考古学者から明確に否定されるようになった今日(注④)、一元史観を維持するため次にクローズアップされるのが、邪馬台国東遷説であることは容易に想像できます。そして、古田先生はそのような時代の到来を予見していたかの如く、〝『南斉書』の証言〟の論証を1975年時点で発表されていたのです。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『野性時代』1975年。
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。本書収録の「『謎の四世紀』の史料批判」、「古代史の虚像」、「古代船は九州王朝をめざす」に〝『南斉書』の証言〟に関する解説がみえる。
③『邪馬一国の証明』に次の紹介がある。
 「著者、蕭子顕(~五三七年、梁)もまた、南斉の中枢官僚(給事中)だった。彼は、斉の予章、文献王、嶷の子であり、「聡慧」だったため、父の文献王にことに愛せられたという。そして「王子の例」として、「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)に任命された〈『梁書』、二十九〉。(より重要なことは、『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物だ、ということである。後記。)。」(ミネルヴァ書房版、257頁)
 予章文献王蕭嶷は南斉第二代武帝の次男、従って蕭子顕は武帝の孫に当たる。
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。関川氏は元橿原考古学研究所員。


第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2654話 2022/01/04

うきは市で双方中円墳を確認

 今年も多くの方々から年始のご挨拶が届きました。ありがとうございます。久留米市の菊池哲子さんからは、とても興味深い情報が寄せられましたので紹介させていただきます。
 いただいたメールによれば、昨年末、うきは市から全国でも珍しい双方中円墳が発見されたとのこと。12月29日付の西日本新聞(本稿末にWEB版を転載)によれば、うきは市の西ノ城(にしのしろ)古墳を調査したところ、全国でも4例ほどしか発見されていない双方中円墳であることが確認され、双方中円墳としては最も古い三世紀後半の築造と推定されています。菊池さんは他地域の双方中円墳の原型ではないかとされ、貴重な発見と思われました。
 双方中円墳について急ぎ調べたところ、西ノ城古墳を含め次の5例が知られています。築造年代順に並べます。

名称    所在地     築造年代  墳丘全長
西ノ城古墳 福岡県うきは市 三世紀後半 約50m
猫塚古墳  香川県高松市  四世紀前半 約96m(積石塚)
鏡塚古墳  同県高松市   四世紀前半 約70m(積石塚)
稲荷山北端1号墳 同県高松市 四世紀前半 不明(円丘部径約28m、南側方丘部長約20m)
櫛山古墳  奈良県天理市  四世紀   152m
明合古墳  三重県津市   五世紀前半 約81m
               ※ウィキペディアなどによる。

 西日本新聞に掲載された桃崎祐輔さんの見解では、大和朝廷一元史観の通説に基づいて「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」とされており、九州大学の西谷正さんは「大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう」と解釈されています。しかし、上記のように築造年代は、九州から四国へ、そして近畿・東海へと伝播していることを示唆していますし、分布数を重視すれば、高松から九州や近畿に伝播したと考えることもできそうです。少なくとも上記の考古学的事実が、〝大和から瀬戸内海地方を通って大分⇒日田⇒うきは〟という伝播の根拠には見えません。大和朝廷一元史観というイデオロギーが先にあって、それに合うように考古学的事実を解釈しているのではないでしょうか。
 今回の発見を機に双方中円墳の発生経緯を考えてみました。通説では弥生時代の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)がその原型として指摘されていますが、わたしは吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓(紀元前一世紀)に注目しています。同墳丘は長方形(南北40m×東西27m)に近い形状と推定されており、複数の甕棺が埋納されています。うきは市の西ノ城古墳も墳丘から複数の埋葬施設が出土しています。他方、倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼の墓は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあるように、円墳です。このことから、首長を葬る円墳と、複数の人々を埋葬する方形墳丘とが一体化して築造されたものが双方中円墳へと発展したのではないでしょうか。これは一つのアイデア(作業仮説)に過ぎませんが、ここに提起し、引き続き副葬品などの調査検討を行います。
 情報をお寄せいただいた菊池哲子さんに御礼申し上げます。

《西日本新聞WEB版 2021/12/29》
双方中円墳、九州で初確認
福岡・うきは市の西ノ城古墳

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されておらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。
 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。
 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。
 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。(渋田祐一)

国家の形成過程分かる

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。


第2621話 2021/11/25

八王子セミナー余話

  〝「東山道十五国都督」の時代〟

 八王子セミナーでの発表で、倭王武の支配領域が関東にまで及んでいたとする傍証として『日本書紀』景行天皇55年条に見える記事「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を紹介しました。発表の前日、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)と同記事の実年代について意見交換をしました。というのも、この記事が5世紀のことなのか不明だったので、日野さんの意見を聞いたものです。
 日野さんは6~7世紀頃の出来事ではないかとされ、その理由は「十五国」と「都督」でした。5世紀段階での太宰府(筑前)から関東(上野・武蔵・下野)までの国数が「十五国」では少なすぎるし、倭王が「都督」を任命する時代は6~7世紀頃ではないかとのことでした。わたしは日野さんの見解に納得しましたので、翌日の発表では日野さんの見解を踏まえたものに急遽変更しました。
 実はわたしも日野さんと同様の問題意識を抱いており、「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟で次のように述べていました。

 〝『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説(山田春廣氏・古田史学の会会員・鴨川市)によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。
 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」
 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。〟

 「東山道十五国」の国数と『常陸國風土記』を重視すれば、景行紀55年条の記事の時代は7世紀中頃とするのが穏当と思われます。しかし、「都督」(彦狭嶋王)一人の統括領域が「東山道十五国」では広すぎるようにも思いますので、まだまだ検討が必要です。

 


第2616話 2021/11/19

水城築造年代の考古学エビデンス (1)

  先日開催された八王子セミナー(注①)では、エビデンスを重視するという姿勢が従来以上に強調されました。他方、古代山城や水城の造営年代を「倭の五王」の頃(5世紀)とする見解が複数の方から発表されましたが、発掘調査報告書には造営年代が五世紀まで遡るという確かな考古学エビデンスは見えず、七世紀後半代とするものがほとんどであるとわたしは理解しています。セミナーでは説明時間が充分になかったこともあり、改めてそれらの考古学エビデンスを紹介します。
 まず古代山城ですが、鞠智城は七世紀初頭(多利思北孤の時代)まで造営年代が遡る可能性があります。その考古学エビデンスは、出土した炭化米の炭素同位体比年代測定で、AD590~640年(6世紀後半~7世紀中葉)の値が出されています。このことは「洛中洛外日記」などで紹介してきたところです(注②)。
 その他の古代山城の造営年代についても、たとえば鬼ノ城からの500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のものであり、古墳時代的な古い杯Hは出土していません。永納山城では城の東南隅の谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器が出土しています。御所ヶ谷城からは7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城からは8世紀初めの須恵器水瓶などが出土しています。これらの出土事実も「洛中洛外日記」(注③)で紹介しました。仮に土器編年にぶれや誤りがあったとしても、5世紀まで200年も遡るとは考えられないのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②古賀達也「洛中洛外日記」1201話(2016/06/05)〝鞠智城出土炭化米のC14測定年代〟
 古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『多元』135号、2016年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2614話(2021/11/13)〝古代山城の廃絶と王朝交替〟


第2615話 2021/11/18

「倭の五王」通説2論を拝聴

 先日開催された八王子セミナー2021のテーマ「倭の五王」について、通説に基づくお二人の講演・講義を拝聴しました。一人は、同セミナーで特別講演(注①)された河内春人さん(関東学院大学准教授)。もう一人は、三重大学のリモート公開講座(注②)で講義された小澤毅さん(三重大学教授)です。小澤さんの著書『古代宮都と関連遺跡の研究』(注③)については「洛中洛外日記」などで紹介したことがあり(注④)、以前から注目してきた研究者です。
 両氏は通説に基づいておられ、『宋書』に見える「倭の五王」を「大和朝廷」の天皇とする点は共通しており、古田先生が批判された論点を超えたものとは思われませんが、『宋書』と『日本書紀』との齟齬について、新たな解釈を試みられています。他方、河内や大和の巨大前方後円墳と『日本書紀』の天皇を自説のエビデンスとしており、この点は従来説と変わりありません。
 このような通説に対して、古田先生は『宋書』の史料批判により「倭の五王」と『日本書紀』の天皇は一致しないことを既に論証されています。古田学派に残された最大の課題は、次の考古学的事実の九州王朝説による合理的な説明です。

(1)なぜ前方後円墳の巨大化は四世紀の大和で始まったのか。
(2)なぜ大和や河内に日本列島最大の巨大古墳群が誕生したのか。
(3)なぜ九州島内最大の前方後円墳群が五世紀の日向・大隅で誕生したのか。

 これらは「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注⑤)の《一の矢》として問題視してきたテーマとその関連事象です。通説よりも説得力のある論証を作り上げたいと、わたしは何年も考え続けています。

(注)
①河内春人「五世紀の倭王権とその実態」、古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 特別講演。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13日。
②小澤毅「倭の五王とは誰か」、三重大学人文学部公開講座。2021年11月17日。同公開講座の開講を竹内順弘氏(古田史学の会・事務局次長)よりお知らせ頂いた。
③小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。小澤氏は「邪馬台国」北部九州説論者である。
④古賀達也「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』一元史観からの「最大古墳は天皇陵」説批判〟
 古賀達也「〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』 天皇陵は同時代最大の古墳だったか」『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135、136、137号、2016年8、10、12月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。


第2594話 2021/10/15

倭の五王と神籠石山城・鞠智城

 本日は多元的古代研究会の月例会にリモート参加させていただきました。10日の例会では配信状態の悪化により、よく聞こえなかった鈴木浩さんの発表「倭五王王朝の興亡 朝鮮式山城・神籠石と装飾古墳」を改めて拝聴しました。装飾古墳や北部九州の神籠石山城・鞠智城を倭の五王と関連させて考察するという研究で、参考になりました。
 近年の研究では神籠石山城の造営年代を7世紀後半とする説が有力ですが、鈴木さんはそれよりも200年ほど早いとされました。遺跡造営年代の研究は考古学的エビデンスが重要となりますので、わたしも検証したいと思います。なお、鞠智城については6世紀末から7世紀初頭頃の造営とする論考をわたしは発表しています(注)。

(注)古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『古田史学会報』135号、2016年8月。


第2552話 2021/08/30

11月14日、八王子セミナー2021 発表原稿の作成

―「倭の五王」時代(5世紀)の考古学―

 前話で紹介した久留米大学公開講座用論文の採用決定通知が同大学担当者より届きました。字数制限を大幅に超えていたのですが、まずは一安心です。
 ところが、今度は11月13~14日に開催される〝八王子セミナー2021〟の発表原稿の締め切りが近づいてきました。一応は完成させたのですが、こちらも更に字数が増え、A4で35枚(資料込み)を越えてしまいました。引き続き、字数削減と修正を行います。
 現時点でのテーマと小見出しは次の通りです。

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学

1.「筑後川の一線」の論理
2.古墳時代の最大都市、大阪上町台地
3.須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」
4.九州最大の西都原古墳群(日向国)
5.考古学の実証(出土事実)と論証(出土解釈)
6.西都原古墳群の事実と解釈
7.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」
8.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」
9.倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群
10.「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳
11.古田説の変遷とその論理構造
(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。
(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和60年(1985)。
(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。

【資料Ⅰ】
古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年
一、玉垂命と九州王朝の都
二、高良玉垂命と七支刀
三、高良玉垂命の末喬
四、多利思北孤の都
〈追記〉『九躰皇子』異論
《高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)》
高良玉垂命(初代)――┬―斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) |
          ├――朝日豊盛命(あさひとよもり)→草壁(稲員)氏へ続く
          ├――暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
          ├――渕志命(ふちし)
          ├――渓上命(たにがみ)
          ├――那男美命(なをみ)
          ├――坂本命(さかもと)
          ├――安志奇命(あしき)
          └――安楽應寳秘命(あらをほひめ)

【資料Ⅱ】
古賀達也「大宰府政庁「倭の五王」王都説の検証」『多元』165号、2021年9月。
一、九州大学「坂田測定」の検証
二、「坂田測定」サンプルの試料性格
三、水城堤防出土サンプルの由来
四、水城出土物の放射性炭素年代測定値
五、「水城出土杭」、もう一つの可能性
六、内倉さんの「太宰府・筑後」王都説

【資料Ⅲ】
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
一、前畑遺跡土塁の炭片の年代
二、前畑遺跡土塁に地震の痕跡
三、「羅城」「関」「遮断城」?
四、井上信正さんの問題提起
五、木樋による水城の造営年代
六、敷粗朶による水城の造営年代
七、敷粗朶の出土状況
八、敷粗朶のサンプリング条件
九、おわりに


第2550話 2021/08/25

「倭の五王」時代の九州の古墳(2)

 「倭の五王」の陵墓にふさわしい大型古墳の調査対象として、九州王朝(倭国)の中枢領域である筑前と筑後を見てみることにします。調査には吉村靖徳さんの『九州の古墳』(注①)を主に参照しています。同書は通説により解説されていますが、美しいカラー写真で古墳が紹介されており、わたしは重宝しています。
 同書の巻末資料には旧国別・年代別の「九州主要古墳年表」があり、それによると筑前には100mを越える古墳は糸島市の一貴山銚子塚古墳(墳丘長103m、前方後円墳、四世紀後半)と福津市の在自剣塚(あらじつるぎづか)古墳(墳丘長102m、前方後円墳、六世紀後半)が表示されていますが、五世紀の「倭の五王」の時代の筑前には倭国王墓にふさわしいトップクラスの規模の古墳は見えません。
 なお、福津市の宮地嶽古墳(現状径34m、七世紀前半、円墳)は奈良県・見瀬丸山古墳に次ぐ国内二番目の長さを誇る横穴式石室(22m)を持っており、注目されます。
 次いで筑後の100mを越える古墳は、「九州主要古墳年表」によれば次のようです。

〔四世紀〕
法正寺古墳(墳丘長102m、前方後円墳、四世紀末、)
〔五世紀〕
石櫃山古墳(墳丘長115m、前方後円墳、五世紀後半、久留米市)※消滅
石人山古墳(墳丘長110m、前方後円墳、五世紀前半~中頃、八女郡広川町)
〔六世紀〕
岩戸山古墳(墳丘長138m、前方後円墳、六世紀前半、八女市)
田主丸大塚古墳(墳丘長103m、前方後円墳、六世紀後半、久留米市)

 筑前より筑後の方が100m超の古墳は多いのですが、西都原古墳群などを擁する日向(宮崎県)と比べると質量ともに見劣りします。しかし、六世紀になると筑紫君磐井の陵墓である岩戸山古墳(八女市)が現れます。これは倭国王墓にふさわしく、六世紀の九州では最大規模です。この事実は、〝古墳の規模〟が倭国王墓の重要条件であることを示唆しています。この論理性を徹底すると、五世紀の「倭の五王」の陵墓は日向にあったこととなり、古墳が多数ある日向は九州王朝の〝王家の谷〟(注②)と考えることもできそうです。(つづく)

(注)
①吉村靖徳『九州の古墳』海鳥社、2015年。
②エジプトの「王家の谷」は、ツタンカーメン王墓出土の豪華な副葬品などで有名である。
 宮崎県からは国内最大の玉璧(直径33cm)が串間市王の山から出土しており、えびの市・島内114号地下式横穴墓から出土した「龍」銀象嵌大刀とともに注目される。古賀達也「洛中洛外日記」1504話(2017/09/20)〝南九州の「天子」級遺品〟、1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟で論じたので参照されたい。
 また、「景初四年」(240年)銘を持つ斜縁盤龍鏡(兵庫県辰馬考古資料館蔵)が持田古墳群(児湯郡高鍋町)から出土している。


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」