「 倭の五王 」一覧

第1383話 2017/05/05

「倭の五王」の都城はどこか(2)

 「倭の五王」の都は筑後にあったのではないかと、わたしは考えているのですが、まだ克服すべき課題があります。
 「洛中洛外日記」第1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」において、『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』に収録されている石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」を紹介しました。そこで指摘された牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数が一気に急増している考古学的事実は、太宰府条坊都市造営時期の7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡としました。
 この理解が正しければ、同様に「倭の五王」時代(五世紀)の王都に土器を供給するため、大量の窯跡群が筑後から出土しなければなりません。ところが石木稿に掲載されている「第1表 西海道北部の須恵器窯跡群変遷表」によると、筑後の須恵器窯跡群は八女窯跡群(上妻郡)が最も古く、その始まりを六世紀中期からとされているのです。このデータが正しければちょうど筑紫君磐井の時代の頃からとなりますから、九州年号を建元した磐井の頃の九州王朝の都がこの地域にあったことはうかがえますが、「倭の五王」時代の窯跡群の記載がないのは不思議です。まだ未発見か、この表に掲載されていないだけなのかもしれませんが、六〜七世紀以降に太宰府に土器を供給した牛頸窯跡群の存在や変遷とは異なり、筑後の王都に対応する窯跡群が見あたらないのは、わたしの説の弱点と言えそうです。この点に引き続き留意し、調査研究を進めたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)