2009年09月一覧

第228話 2009/09/26

ウィキペディアの限界と可能性

 読者の皆さんはよくご存じのことと思いますが、インターネット上の読者参加で編集される「辞書」ウィキペディア(Wikipedia)は、わたしもちょっとした調査などに利用しています。ところが最近、インターネットの普及に伴い、古田史学の会会員の方が論文執筆においてこのウィキペディアを論証根拠の出典資料として利用掲載されるケースが出てきています。
 検索や調査ツールとしてウィキペディアを利用されるのはいいのですが、学術論文などに引用出典として使用されるのは、いかがなものかと思います。少なくとも、わたしの友人がそのような使用を論文でされている場合は、止めるように忠告しています。それは次のような理由からです。

1.執筆者(編集責任者)が不明。
2.書き換えが可能で、後日再確認が困難なケースが想定される。
3.文献史学で重視される1次史料ではなく、2次3次史料に相当する。
4.記載内容の学問的レベルが判断できない。

 などです。特に1〜3は「引用文献」としては致命的欠陥で、論証の根拠としては使用されないほうが賢明です。面倒でも原典(1次史料)に研究者自らがあたるべきです。しかし、そうした限界を知った上で節度を持って上手に利用できれば、大変便利なツールであることには違いありません。更に、大勢の「執筆者」により編集されることは、個人では調査しきれない資料が紹介されているケースもあり、長所も備えています。インターネットの時代ですから、上手に用心深く利用されることをお奨めします。そして、やはり自ら史料にあたるという文献史学の基本的研究姿勢を大切にしていただきたいものです。


第227話 2009/09/23

九州王朝の建都遷都と改元

 前期難波宮九州王朝副都説の発見は、様々な問題の発展を促しました。たとえば、前期難波宮建都に伴い、九州年号が白雉に改元(652年)され、焼失により朱鳥改元(686年)された事実に気づいたことにより、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元するという認識が得られたのです。

 このテーマについて、過日、正木裕さん(古田史学の会会員)と拙宅近くの喫茶店で検討を進めました。大宰府建都(おそらく遷都も)が倭京元年(618 年)の可能性が強く、前期難波宮建都により白雉改元、近江遷都は白鳳元年(661年、『海東諸国紀』による)、そして藤原宮遷都の694年12月の翌年が大化元年と、建都遷都と九州年号の改元が偶然とは考えにくいほど「一致」していることについて、正木さんの見解をうかがったところ、それ以外の遷宮時も九州年号が改元されている可能性を指摘されました(たとえば常色元年、647年)。九州王朝の天子が即位時に遷宮し、同時に改元したというもので、この正木さんの指摘は大変興味深いものでした。
 大和朝廷の天皇も多くは即位時に「遷宮」しており、この風習は九州王朝に倣ったものではないかという問題にも発展しそうです。詳しくは正木さんが論文発表を予定されていますので、そちらをご参照いただきたいのですが、九州王朝史復原作業において、九州年号のより深い研究が重要です。正木さんとの「共同研究」はこれからも進めたいと思っています。


第226話 2009/09/22

難波宮の仮説と考古学

 前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生は九州の土器など考古学的痕跡の必要性を指摘されたのですが、この「仮説と考古学の一致」の問題は大変重要な指摘です。特に、『日本書紀』孝徳紀に記された「なにわの宮」の所在地に関する仮説にとって、それが仮説として成立する上で、次の諸点の提示は絶対条件です。

 1.七世紀中頃の大規模な宮殿遺構という考古学的事実が存在すること。
 2.その規模は、『日本書紀』に記されたような白雉改元儀式が可能な規模であること。
 3.評制を施行した「難波朝廷」に相応しい大規模な官衙跡(官僚機構)が存在すること。

 などです。これらの存在、すなわち考古学的出土事物の提示が仮説成立の絶対必要条件なのです。いわゆる孝徳紀の「なにわの宮」の所在地を筑前や筑後、あるいは豊前とする仮説を提起したいのであれば、この提示が必要不可欠なのです。
 ところが、これら諸条件を満足している仮説は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説だけです。しかも、「なにわ」という地名も現存しています。第225話で触れた前期難波宮東方官衙の大規模遺跡の発見も、前期難波宮九州王朝副都説をますます確かなものにしたと言えるのではないでしょうか。


第224話 2009/09/12

「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」

 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。

 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたと する。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないで しょうか。」と好意的に記されていました。
 この佐藤稿を読んで、わたしが小躍りして喜んだことはご理解いただけると思います。そしてすぐに、京都の資料館や図書館に『九州考古学』第83号があるかどうか調べたのですが、残念ながらありませんでした。そこで、知人にメールで調査協力を要請したところ、正木裕さん(古田史学の会会員)が同論文を入手され、送っていただきました。有り難いことです。
   同論文を一読再読三読したわたしは、この論文が大変優れた研究報告であることを理解しました。大和朝廷一元史観に立ってはいるものの、考古学者らしい実証的な調査と自ら確認した情報に基づいて論述されていたからです。(つづく)