空海の遺言状
1991年、わたしは「空海は九州王朝を知っていた–多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』第13集所収、新泉社刊)という論文を発表しました。35歳の時でした。『御遺告』とよばれる空海の遺言状には、空海の唐からの帰国年について、「大同二年、我が本国に帰る」と記されており、大同二年(807)のことと空海自らが述べているのですが、空海がその前年の大同元年(806)に九州 大宰府へ帰ってきたことは、これも空海自身の別の文書(『新請来経目録』、最澄による同時代写本が東寺に現存)から判明しています。従って、この帰国年に ついての一年の差が平安時代から問題視されてきました。
たとえば、「大同二年」は「大同元年」の「元」の下の二点が脱落したのだろうとか、筑紫に帰ったのが「大同元年」で、京都に戻ったのが「大同二年」のことだろうとか、さまざまな解釈がなされてきました。しかし、これらに対しても、『御遺告』の全写本が「大同二年」と記されていることや、京都のことを「我が本国」とは言わないとの反論も出されてきました。
結局この一年の差の問題は未解決のままで、挙げ句は『御遺告』偽作説が横行したほどです。
今回、20年前の論文を読み返してみて、若い頃の稚拙な論文ではあるものの、その論証の根幹は今でも正しいと、感慨に耽りながら確認しました。そして、 空海の超難解な漢文に苦しみながら、京都府立総合資料館で空海全集を読破したことを思い出しました。残念ながら、今ではとても体力的に困難な、若き日の研究体験の想い出です。