2011年11月一覧

第354話 2011/11/30

副題「近畿天皇家以前の古代史」

 東京に向かう新幹線のぞみの車中で書いています。あいにくの曇り空で富士山が見えなくて残念です。
 『「九州年号」の研究』第3校の校正もようやく終わり、現在は表紙レイアウトや帯の内容作成に入っています。順調に行けば年内発刊となりますが、全国の書店に並ぶのは年明けになるかもしれません。編集や刊行に向けてずっと支えていただいたミネルヴァ書房の田引さんに感謝しています。
 表紙のレイアウトも送られてきましたが、わたしは大変気に入っています。「元壬子年」木簡や『二中歴』などがデザインとして用いられており、本の内容ともうまくマッチしています。皆さんにもきっと気に入っていただけるのではないでしょうか。
 また、本の題名だけでは九州王朝や九州年号をまだご存じない人にはわかりにくいのではないかと考え、「近畿天皇家以前の古代史」という副題をつけました。古田先生の『失われた九州王朝』の副題「天皇家以前の古代史」を参考にしたものです。
 『「九州年号」の研究』の校正を終えて、最初に思ったことは、10年後には続編を必ず出そうということでした。同書編集中にも優れた論考が発表されたことや、水野さんの指摘にあった「なぜ『二中歴』が九州年号史料として優れているのか」という説明などが未収録となったからです。
 具体的には、正木さんの「法興」「聖徳」「始哭」に関する考察、「洛中洛外日記」に連載した「九州年号の史料批判」などを続編に掲載したいと思っています。発行前に気の早いことではありますが、これからの10年間、さらに九州年号研究を進めたいと決意も新たにしています。そして、この本の読者から九州年号研究者が誕生することを期待しています。
 なお、ミネルヴァ書房からは「二倍年歴の研究」の上梓もお勧めいただいており、こちらも少しずつでも取り組み始めなければと、自分に言い聞かせているところです。

第353話 2011/11/22

百済人祢軍墓誌の「日本」

 11月の関西例会で水野さんから紹介された「百済人祢軍墓誌」ですが、どうやらこの墓誌は九州王朝説に大変有利な内容を含んでいるようです。現在、墓誌拓本のコピー入手を試みていますが、新聞発表などでわかる範囲で、見解を述べてみたいと思います。

 この墓誌は百済人の祢軍(でいぐん・ねいぐん)という人物の墓誌で、678年二月に長安で没して同年十に埋葬されたと記されています。残念ながら墓誌そのものは行方不明ですが、その拓本が中国の学者から紹介されました。王連竜さん(吉林大学古籍研究所副教授)が「社会科学戦線」7月号で発表された「百済人祢軍墓誌論考」という論文です。中国在住の青木さん(「古田史学の会」会員)のご協力により、同論文を読むことができました。この場をお借りして御礼申し上げます。

 墓誌の中に「日本」という表記があり、これは現存最古の「日本」ということで、マスコミは取り上げています。これはこれですばらしい史料なのですが、実はそれ以外に大変興味深い記事が記されています。

 たとえば「僭帝一旦称臣」という記事です。くわしい解説は拓本コピーで確認した後にしたいと思いますが、この「僭帝」とは誰なのか、百済王なのか、倭王なのかというテーマです。関西例会後の懇親会でも喧々囂々の論争を行いました。墓誌の文脈から判断しなければなりませんが、倭王の可能性も高く、もしそうであれば九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか。白村江戦で敗北し、捕らわれの身となった薩野馬であれば、「僭帝一旦称臣」という表現がぴったりです。少なくとも大和朝廷にはこのような天皇がいた記録はありません。

 この他にも、「日本余(口へんに焦)、据扶桑以逋誅」という記事がありますが、朝日新聞(2011/10/23)によれば、白村江戦で敗れた「生き残っ た日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と解説されています。

 唐代において扶桑は東方にある国と認識されており、「日本の別称」という説明は必ずしも正確ではありません。従って、ここは日本の残存勢力が日本(倭国)の更に東に籠もって抵抗を続けていると解すべきではないでしょうか。そすると、扶桑とされた地域は近畿、あるいは東海か関東のいずれかと思われます。

 九州王朝説の立場から見れば、倭国・九州王朝の中枢領域である九州の更に東ということになりそうです。以前、わたしは「九州王朝の近江遷都」という論文で、白鳳元年(661)に九州王朝は近江遷都したのではないかという説を発表しました。すなわち、白村江戦の直前に九州王朝は近江に遷都したと理解したの です。こうした視点からすると、日本残存勢力が籠もったとする扶桑とは、近江宮か前期難波宮ということになります。

 墓誌拓本そのものを見ていませんので、まだアイデア(思いつき)の段階ですが、この墓誌の内容のすごさが予感されるのです。今後、拓本精査の上、詳論したいと考えています。

百済禰軍墓誌


第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

 昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
 「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
 ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
 このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。

第351話 2011/11/17

九州年号の史料批判(6)

 今日は東京へ向かう上越新幹線「Maxとき」の車中でこの原稿を書いています。車窓から見える山々の景色がとてもきれいです。

 『二中歴』の史料批判もいよいよ最後の局面となりました。なぜ『二中歴』には大長がなくて、他の年代歴には大長があり朱鳥が消えた理由の解明です。
 この謎をわたしは、「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」 という論文で明らかにしました。その謎解きのキーポイントは「大長は701年以降の九州年号」ということでした。詳しくは両論文を読んでいただきたいと思いますが、後代に成立した三次史料としての年代暦は基本的に701年以後の大和朝廷の年号へと続いており、『二中歴』も例外ではありません。すなわち、九州年号の時代は九州年号を用いて年代を特定し、701年以降は大和朝廷の年号(大宝から)を使用して歴史を記述するという体裁をとっているのです。
 たとえば『二中歴』は継体から始めて大化までの九州年号を記した後、701年からは大和朝廷の年号、大宝へと続いています。その他の年代暦を「集約」して提唱された「丸山モデル」では朱鳥が無く大化・大長と続いて、同じく701年からは大宝へと大和朝廷の年号へ継続しています。
 これらの史料状況から、わたしは最後の九州年号は大長であり、704年を元年として九年間続き、712年に九州年号が終わっているとする「古賀試案」を発表しました。比較すると次のようです。

西暦   二中歴  丸山モデル 古賀試案

686  朱鳥元年 大化元年  朱鳥元年
692  朱鳥七年 大長元年  朱鳥七年
695  大化元年 大長四年  大化元年
700  大化六年 大長九年  大化六年
701  大宝元年       大化七年
703  大宝三年       大化九年
704  慶雲元年       大長元年
712  和銅五年       大長九年

 このように『二中歴』とその他の年代暦の差異は九州年号と大和朝廷の年号とのつなぎ方の違いだったのです。
 『二中歴』では大和朝廷の最初の年号である大宝とつなぐため、大化を六年で終わらせたのであり、「丸山モデル」に代表されるその他多くの年代暦は朱鳥の九年間をカットし、更に大化も六年でカットし、その分だけ大長を700年までに押し込み、九州年号から大和朝廷の大宝へと続けたのです。
 九州王朝が滅亡し、史料としての九州年号が残った後代において、各年代暦編纂者たちは九州年号と大和朝廷の年号との「整合性」を保つために、『二中歴』 のような単純カットによるつなぎあわせか、「丸山モデル」のように朱鳥をカットして、最後の九州年号である大長から大宝へとつなぐという史料操作を行った のです。
 こうした理解に立って、初めて『二中歴』タイプと「丸山モデル」タイプの年号立てが後代において発生したことを説明できるのです。
 こうしてようやくわたしは『二中歴』の史料としての優位性と、701年以降の九州年号の存在という新たな歴史理解に到達することができたのです。
 九州年号の史料批判の方法と研究経緯を6回にわたって記してきましたが、三次史料の優劣を判断する史料批判を何年もかけて続け、ようやく真実に近づくことができたのです。歴史研究において三次史料の取り扱いの難しさについて、参考にしていただければ幸いです。


第350話 2011/11/16

九州年号の史料批判(5)

 今日は新潟県長岡市のホテルでこの原稿を書いています。昨日から新潟も冷え込んできたようです。

 『二中歴』の史料批判を続けます。「丸山モデル」が提起した疑問、朱鳥は本当に九州年号なのか、それとも『日本書紀』編纂持の造作なのかという問題は比較的早くに解決を見ました。
 「朱鳥改元の史料批判」 という論文で指摘したのですが、『日本書紀』の三年号のうち、大化は50年遡らせて盗用され、白雉は2年ずらして盗用されていますが、この二つの年号を孝 徳天皇の10年の在位期間(645−54)にぴったりあわせて盗用しています。ところが、朱鳥は一年間だけ天武天皇末年(686)という中途半端な盗用となっています。どうせ盗用するなら、あるいは造作するのであれば持統元年に盗用すればよいはずです。ところが、『日本書紀』編纂者は中途半端な天武天皇末 年の一年間だけを「朱鳥元年」としました。
 この不自然な史料状況は、逆に朱鳥こそ正しく九州年号通りに、その元年を686年とした結果であり、朱鳥年号の実在性を証明する史料状況と考えざるを得ないことに、わたしは気づいたのです。
 そして、朱鳥年号こそ九州年号からその元年のみを正確に『日本書紀』は盗用したという論理性を、わたしは「朱鳥改元の史料批判」で指摘したのでした。
 また金石文として「朱鳥三年」と記されている鬼室集斯墓碑の信憑性についても「二つの試金石ーー九州年号金石文の再検討」という論文で論証していましたので、朱鳥を持たない「丸山モデル」よりも、朱鳥を持つ『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いという確信を深めたのです。しかし、なぜ『二中歴』には大長がないのかという疑問は残されたままでした。(つづく)


第349話 2011/11/15

九州年号の史料批判(4)

 今、東京八重洲のブリヂストン美術館のティールームでこの原稿を書いています。コーヒーも美味しいし、おしゃれなお店なので、東京出張のおり にはよく利用しています。店内には長谷川路可(1897−1967)のフレスコ画が飾られており、とても気持ちのいい空間で気に入っています。

 さて、話しを『二中歴』にもどします。「丸山モデル」が提唱された後も、古田先生は『二中歴』の史料的優位性を主張されていました。その理由の一つは、他の年代暦に比べて『二中歴』は成立が早いということでした。多くの年代暦はせいぜい室町期の成立であり、比べて『二中歴』は鎌倉初期であり、 九州年号群史料としては現存最古のものなのです。
 更に、こちらの方がより重要なのですが、『二中歴』「年代歴」に記されている細注記事の内容が、近畿天皇家とは無関係であるという史料性格です。
 多くの年代暦は近畿天皇家などの事績を九州年号という時間軸を用いて記載するという史料状況(年号と記事の後代合成)を示しているのですが、これは九州年号史料にあった年号を、後代において「再利用」したものである可能性が高く、これら年代歴そのものは同時代九州年号史料の本来の姿を表したものではないからです。
 その点、『二中歴』「年代歴」の九州年号記事は九州王朝内で成立した九州年号史料の集録という史料状況(同時代九州年号史料の再写・再記録)を示しており、それだけ年号の誤記誤伝の可能性が少なく、その年号立てについても信頼性が高いのです。
 そして、古田先生は各年代暦の「多数決」あるいは最多公約数的な年号立てによる「丸山モデル」は学問の方法として不適切と言われていました。学問は各史料ごとの優位性の論証が基本であり、多数決で決まるものではないと主張されたのです。この指摘は大変重要なことで、古田史学が一元史観と根本的に異なる学問の方法論にかかわることなのですが、古田学派内でも残念ながら十分理解されていないケースも見受けられます。
 こうした古田先生の指摘を受けて、わたしも徐々に『二中歴』の重要性を認識するに至ったのですが、同時に、それではなぜ朱鳥のない多くの年代暦が後代に発生したのか、なぜ他のほとんどの年代暦にある大長が『二中歴』にはないのかという、二つの疑問点に何年も悩み続けることとなったのです。(つづく)


第348話 2011/11/15

九州年号の史料批判(3)

 九州王朝や九州年号研究において、一次史料や二次史料は比較的その信頼性が高いこともあり、論証や仮説の構築に使用しやすいのですが、三次史料になると 同類史料の数や写本間の異同も増えて、史料批判が難しくなります。すなわち、どの三次史料がどの程度歴史の真実を反映しているかの判断が難しくなるのです。
 たとえば九州年号群史料として、中世以降数多く成立した年代暦の類がありますが、これら年代暦の史料としての優劣の判断が九州年号研究においても論争の対象となっていました。
 現在の研究水準では『二中歴』所収「年代歴」に記された九州年号の年号立てが最も原型に近いとされていますが、当初は朱鳥がなく大長がある、いわゆる 「丸山モデル」(丸山晋司氏が提唱)が本来の九州年号の年号立てと見なす説が有力でした。わたしも一時期そのように考えていました。
 その理由の第一は、『二中歴』を除く多くの年代暦には朱鳥がなく大長があること。第二に、『日本書紀』にまで記された朱鳥が本当に存在したのなら、多くの年代暦から消えていることの説明がつかない。したがって九州年号にはもともと朱鳥は無かったという理由からでした(『日本書紀』の朱鳥は『日本書紀』編纂時の造作とする)。
 このような年代暦史料の「多数決」と、朱鳥が消えた理由を説明できないという「論理性」が、朱鳥があり大長がない『二中歴』よりも、「丸山モデル」を正しいとする根拠だったのです。
 もちろんこの「丸山モデル」に対する強力な反論もありました。熊本市の平野雅曠さん(故人)から、『日本書紀』の三年号のうち、大化と白雉を九州年号からの盗用としながら、朱鳥だけは造作とする根拠がない、というものでした。今から考えればこの平野さんの指摘は史料批判上もっともなものだったので、丸山さんもこの批判に対して有効な反論ができていませんでした。こうしたこともあり、『二中歴』が見直されるようになったのです。(つづく)


第347話 2011/11/12

九州年号の史料批判(2)

 文献史学での文字史料の優劣の判断基準で最も重要なものに、史料の同時代性という尺度があります。通常それは一次史料とか二次史料・三次史料といった表現で表されるのですが、九州年号で言えば、6世紀や7世紀の九州年号が実用されていた時代、すなわち同時代に記された史料は一次史料と呼ばれ、 最も信頼性の高い文字史料とされます。
 たとえば、その時代の木簡や金石文などに記された九州年号が一次史料となり、具体的には芦屋市から出土した「元壬子年」木簡(652年、白雉元年)や法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(621年)、「朱鳥三年戊子」鬼室集斯墓碑(688年)、「大化五子年」土器(699年)などがそれに当たりま す。こうした一次史料は九州年号存在の直接証拠でもあり、歴史研究において最も重視されるべきものです。
 ただし一次史料においても、史料そのものの信頼性についての検証が必要となるケース(真偽論争など)もあり、その場合は史料の自然科学的調査(年代測定など)や、他の同時代史料との整合性の検討が必要となります。
 一次史料に次いで重要なものが二次史料であり、一次史料に基づいて記された史料がそれに該当します。例えば、一次史料を書写した写本とか、同時代金石文の拓本や実見記録などです。具体例としては、「白鳳壬申年」骨蔵器(672年、『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)などがそれに当たります。江戸時 代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申年」骨蔵器のことが、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記附録』に記録されているのですが、実物は既に失われています。 しかし、黒田藩公認の地誌に記されている九州年号金石文の記録ですから、かなり信憑性の高い二次史料です。
 さらに、二次史料を引用したり、記録したものが三次史料となるのですが、歴史史料として利用できるのは、せいぜいこの三次史料まででしょう。例外的には 四次史料などでも他に同類のものがない場合とか。その信憑性が当該史料以外の証拠などで保証される場合は歴史史料として使用できるケースもあります。
 従って、歴史研究において根拠とする史料はなるべく一次史料か同時代史料に近い二次史料などに溯って調査採用することが要求されるのです。
ところで、『日本書紀』にも大化・白雉・朱鳥の九州年号が盗用されていますが、これは何次史料にあたると思いますか。720年に『日本書紀』は成立していますから、九州年号実用時代とはかなり近い時代です。しかし、厳密には同時代ではなく、九州王朝滅亡後に九州年号を盗用(九州王朝史書からの引用)した史書ですから、恐らく二次史料に相当するでしょう。そういう意味では、『日本書紀』は九州王朝や九州年号を研究する上でも、同時代史料に近い貴重な二次史料 という性格も有しているのです。(つづく)

第346話 2011/11/06

九州年号の史料批判(1)

 『「九州年号」の研究』の編集をしていて、水野さん(古田史学の会代表)より、何故二中歴が九州年号群史料として優れているのかを説明した論文は未発表ではないかとの指摘がありました。確かに、古田先生やわたしが講演や研究発表などで口頭で説明したことは度々あったと思いますが、文章として詳しく解説していないかもしれません。『「九州年号」の研究』発刊に先立ち、良い機会ですので、九州年号に絞って文献史学における史料の優劣の判断、すなわち史料批判の考え方について説明したいと思います。
 文献史学は必ず文字史料という史料根拠に基づいて仮説を立てたり、論をなしたりしますが、その際、必要不可欠な作業があります。それは根拠として文字史料が歴史の真実を正しく伝えたものなのか、あるいはどの程度真実を反映しているのかという、史料の優劣を判断する作業、すなわち史料批判が必要となります。
 自然科学でいえば、文字史料が実験(観察)データであり、史料批判が実験(観察)方法の説明にあたります。自然科学の論文ではこのデータと実験方法の提示が不可欠であるように、文献史学では史料根拠の提示とその史料の確かさの説明や証明が要求されるのです。
 そのとき、自説に有利な史料のみを重視し、自説に不利な史料を無視軽視することは、学問上許されません。自然科学では自説に不利なデータを無視したり改竄したりすれば、研究者生命を失います。歴史研究においても、依拠史料の取扱いや他史料との優劣比較が不可欠であることは同様なのですが、安易に史料を改竄する手口が、プロの学者でも説明抜きで平然と行われていることは、皆さんもよくご存じのことと思います。例えば、魏志倭人伝の邪馬壹国が邪馬台国と原文改訂されていることなどです。
 世界の知性や理性との競争原理が働いている自然科学の分野では、こうしたデータの改竄など考えられませんし、もしそれが発覚したらその人の研究者生命は終わりです。ところが日本の古代史学界(日本古代史村)では、誰一人大学を首になることもなく、今も古田先生を除くほぼ全員が原文改訂(データの改竄・無視)を続けていることは、日本古代史村が世界の知性や理性から隔絶保護されていることが、その理由の一つのように思われます。大変嘆かわしいことです。 (つづく)

第345話 2011/11/1

『「九州年号」の研究』校正中

 遅れに遅れていました『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)の第2校の校正と索引作りがようやく終わりました。特に索引作りは初めての経験でしたので、語句の選定と絞り込みには苦労しました。恐らく次の第3校が最終校正になると思いますので、刊行まであと一歩です。
 自画自賛になりますが、内容には自信があります。後世に残る一冊にしたいと、この15年間の九州年号研究における重要論文を収録しています。古田先生からも巻頭論文を書き下ろしていただきました。大変ありがたいことと感謝しています。
 章立ては次の通りです。

巻頭言      水野孝夫
序 九州年号論  古田武彦
第1部 金石文・木簡に残る九州年号
第2部 九州年号から見た日本書紀
第3部 九州年号による九州王朝研究
第4部 後世に遺された九州年号史料
第5部 九州年号研究史
編集後記
索引

  もう少しで刊行です。ご期待下さい。