唐と百済の「倭国進駐」
先日の関西例会で安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)から“「唐軍進駐」への素朴な疑問”という興味深い研究発表がありました。安随さんは関西例会常連のお一人ですが、研究発表されるのは珍しく、もしかすると初めてではないかと思います。
今回、満を持して発表された仮説は、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事についてで、従来、この2000人の 唐軍が倭国に上陸し、倭国陵墓などを破壊したのではないかと、古田先生から指摘されていました。ところが安随さんによれば、この2000人のうち1400 人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。
その史料根拠は『日本書紀』で、その当該記事には、「唐国使人郭務ソウ等六百人」と「送使沙宅孫登等千四百人」と明確にかき分けられており、1400人は「送使沙宅孫登」指揮下の「送使団」とあることです。そして、送使トップの沙宅孫登の「沙宅」とは百済の職位(沙宅=法官大補=文官)であることから、 孫登は百済人であり、百済人がトップであれば、その部下の「送使団」1400人も百済人と理解するべきというものです。ですから、百済人1400人の送使 団は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされました。
さらに、送使団は「本体」を送る役目を果たしたら、先に帰るのが原則とされたのです(『日本書紀』の他の「送使」記事が根拠)。従って、百済人1400人が長期にわたり倭国に残って、倭国陵墓などを破壊するというのは考えにくいとされました。安随さんは他にも傍証や史料根拠をあげて、倭国に進駐した「唐軍」による倭国陵墓や施設の破壊はなかったのではないかとされました。
この安随説の当否は今後の研究や論議を待ちたいと思いますが、意表を突いた興味深い仮説と思いました。『古田史学会報』への投稿が待たれます。この他にも、今回の関西例会では興味深い仮説やアイデアが報告されました。