2014年07月28日一覧

第754話 2014/07/28

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(4)

 「洛中洛外日記」751話で、 観世音寺の創建瓦と同笵の瓦が飛鳥の川原寺、近江の崇福寺から出土していることが森郁夫著『一瓦一説』で紹介されていることを記しました。その観世音寺の 創建瓦は老司1式と呼ばれるもので、同笵とされる軒丸瓦の瓦当文様は「複弁蓮華文」と称されています。この複弁蓮華文軒丸瓦の最初は川原寺と一般的にはされているようで、川原寺の創建年には諸説ありますが、森さんは「天智朝」の頃、具体的には「近江遷都」する前の662~667年頃とされています。
 ところが複弁蓮華文軒丸瓦は近江大津の寺院(南滋賀廃寺・穴太廃寺・崇福寺・園城寺前身廃寺)の方が早いとする考古学者もいます。大津市歴史博物館編 『近江大津になぜ都は営まれたのか』(平成16刊)に掲載されている林博通さんの講演録「大津宮とその時代」には次のような説明がなされています。

 「南滋賀廃寺・穴太廃寺などで出土する軒瓦の系統を整理したものが、図34になります。A系統とB系統に整理できまして、A系統というのは、複弁 蓮華文軒丸瓦といいまして、じつは大津京時代頃に初めて使われ始める瓦です。一般には、大和の川原寺が最初だという意見が大半ですけれども、川原寺の瓦作りの技法が大津京のこれらの寺院のA系統瓦にはまったく認められないことなどから、私は、大津京で使われた方が古いだろうというふうに考えています。」 (84ページ)

 この林さんの見解が正しければ、複弁蓮華文軒丸瓦は白鳳元年(661年、『海東諸国記』による)の近江遷都に伴って建立されたと考えられる南滋賀廃寺などでの使用が最初ということになります。南滋賀廃寺は大津宮の北側にあり、両者の南北の中心軸はほぼ一致していることから、大津宮と密接な関係を 持った寺院であることは明白です。しかも、その伽藍配置(西に金堂、東に塔、等)が観世音寺と同じで、この一致は偶然とは思えません。ともに九州王朝との関係が深い寺院ではなかったでしょうか。ちなみに川原寺の伽藍配置も似ています。
 複弁蓮華文軒丸瓦の最初の使用が大津宮の南滋賀廃寺などで白鳳元年(661)頃とすれば、太宰府の観世音寺創建は白鳳10年(670)ですから、まず近 江大津で使用開始された複弁蓮華文軒丸瓦が、その後、同型の瓦当笵とともに大和の川原寺や筑紫の観世音寺創建に使用されたとする理解に至ります。白村江戦 前後にまたがる時代の近畿と九州王朝の関係を考える上で、この複弁蓮華文軒丸瓦の変遷や瓦当笵の移動は一つのヒントになるかもしれません。