2014年08月一覧


第765話 2014/08/14

都塚古墳と蘇我氏

 新聞やテレビニュースで、明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であったことが最近の発掘調査で明らかになったことが報道されています。近くにある石舞台古墳が蘇我馬子の墓とされていることから、都塚古墳は馬子の父の蘇我稻目の墓ではないかとする見解も出されており興味深く感じています。
 都塚古墳の階段状の墳形は国内では珍しく、同様の形状を持つ古墳としては、岡山県真庭市の大谷1号墳(五段の方墳)が知られていましたが、都塚古墳は7~8段あったのではないかと見られているようです。もし、石舞台古墳や都塚古墳が蘇我氏の墓であったとすれば、現在は失われている石舞台古墳の墳形も階段状であったのかもしれません。基底部は吹石の痕跡から方形であったことが判明しています。封土が失われた理由は不明ですが、人為的なものを感じさせます。自然の風雨だけであれほど完全に封土が失われるとは考えにくいからです。
 前方後円墳が主流であった時代、飛鳥の地に異形ともいえる階段式方墳が天皇家をもしのぐような有力者だった蘇我氏の墓とすれば、蘇我氏は近畿天皇家とは 異質の豪族であったと考えられます。古田学派内でも蘇我氏に関して様々な見解・仮説が提起されてきました。たとえば「古田史学の会」草創期の会員(元副代表)であった山崎仁礼男さんはその著書『蘇我王国論』(1997年、三一書房)で、『日本書紀』は「蘇我王国」の歴史が換骨奪胎されたものとする作業仮説を発表されました。あるいは蘇我氏は九州王朝から飛鳥に派遣された近畿天皇家への「お目付役」とするアイデアも古田学派内から出されています。
 蘇我氏と九州王朝との関係から、「古田史学の会」でも様々な調査検討が試みられてきました。たとえば「電話帳」検索で全国の「蘇我」さんの分布を調べて みたところ、全国16件中、4件が大分県でした(西村秀己さんの調査による)。また、今回の都塚古墳の報道を聞いて、わたしは何故「都塚」という名称が付けられたのかも気になっています。古田学派内での多元史観による「蘇我氏」「階段状方墳」の研究が期待されます。


第764話 2014/08/13

大分県の「日羅」伝承

 九州における「聖徳太子」伝承を伴う寺院の開基や仏像について紹介し、それらの伝承は本来九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績であった可能性が高いことを説明してきましたが、6世紀末頃の九州における寺院開基伝承として、「日羅」によるとされるものが少なくありません。
 日羅は『日本書紀』(敏達紀、583年に帰国)に登場する百済王に仕えた倭人ですが、その日羅が熊本県や宮崎県・大分県に多数の寺院を開基したとする伝承や史料が残っています。もっとも『日本書紀』によれば、日羅は帰国後二ヶ月で百済人から暗殺されており、その短期間で多数の寺院を建立できるはずもありません。従って、日羅による開基とされてはいるものの、歴史事実としては九州王朝内の有力者による寺院開基が『日本書紀』に記されている「日羅」によるものと、後世において書き換えられたものと思われます。もしかすると「日羅」に似た名前の人物が九州王朝内にいたのかもしれません。
 その「日羅」伝承に早くから注目されていたのが藤井綏子さん(故人)でした。藤井さんは作家として文筆活動されるかたわら、「市民の古代研究会」にも参加されていた古田ファンで、著作の中で古田説を取り上げたり、ご自身でも研究されたりしておられました。大分県久重町に住んでおられ、直接お会いすること はできませんでしたが、わたしもお手紙や著書をいただき、何かと気にかけていただきました。
 ちょうど「市民の古代研究会」の分裂騒動を経て「古田史学の会」を立ち上げたばかりの1994年6月に藤井さんから次のようなお便りが届きました。

 「古賀達也様
 こちらは山々の頂きも隠れがちな風景ですが、京都の方もはっきりしないお天気でしょうか。 ところでこの度、同封のような著書を上梓いたしました。景行説話で最も激戦地であった豊後南部について、一度よく考えてみたいと思っていたのを、実現したわけですが、あまり自信はありません。お暇な折りにでもお目 通しいただき、ご教示でも賜れるようであれば、幸せです。
 だいぶ前ですが、ご丁重なお手紙をありがとうございました。まわりに会員の方が住んでおられるでもなく、一人で山の中に居て、何がどうなっているのか、さっぱりのみこめないでいるのですが、中央?に居られると、何かと気苦労も多いのでしょうね。
 ともかく、同じようなことをやってきた(つもり?)の者として、今後のご健闘を祈ります。お体に気をつけて下さい。
       一九九四年六月三〇日  藤井綏子」

 この手紙に同封されていた著書『古代幻想・豊後ノート』(1994年4月25日刊、株式会社双林社出版部)を20年ぶりに読んでみました。その中の「日羅の影」という一節には次のような記述があります。

 「九州には、この日羅の創建と伝える寺が、あちこちに散見する。熊本の郷土史家平野雅曠氏によると、肥後には計十二、三カ寺もあるという。
 豊後にも、『豊後国誌』があげる確実なところで少なくとも五つの、日羅開基伝承の寺がある。大野郡の大恩寺、普光寺、阿西寺、大分郡の岩屋寺、海部郡の円通寺がそれである。海部郡では、もう一つ、例の端麗な臼杵石仏の寺が満月寺で、鶴峰戊申の前掲『臼杵小鑑拾遺』はこの寺にも日羅を開山とする縁起があったことを紹介している。」

 藤井さんが注目されたように、「日羅」や「日羅伝承」は九州王朝史研究にとって重要なテーマと思われるのです。


第763話 2014/08/10

『古田史学会報』123号の紹介

 『古田史学会報』123号が発行されましたので、ご紹介します。
 正木稿は、日本神話の中でも有名な「海幸・山幸」神話は近畿天皇家(山幸の子孫)が九州王朝(海幸の子孫)を神話時代から服属させたとするための「創 作」とされ、隼人の服属も九州王朝の残存勢力(南九州)を服属させたものであり、隼人の服属儀礼とされていた「狗の吠声」「隼人舞」も九州王朝に伝わった 神聖な儀礼であったとされました。とても興味深い仮説で、「隼人」の実体に関する論争(通説・古田説:南九州の部族説。西村秀己説:もともとは北部九州に いた九州王朝勢力説)にも影響を与えそうです。
 わたしは、長くその存在について論争が続いていた難波京の条坊について、近年の発掘調査の結果、条坊が存在していたことがほぼ明らかとなり、しかも前期難波宮の時代に存在していた可能性が高いことを考古学的実証と論証の両方から論じました。
 掲載テーマは次の通りです。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。ページ数や編集の都合から、短い原稿の方が採用の可能性は高くなりますので、ご留意ください。

〔『古田史学会報』123号の内容〕
○海幸・山幸と「吠ゆる狗・俳優の伎」  川西市 正木裕
○条坊都市「難波京」の論理  京都市 古賀達也
○日本書紀の中の遣隋使と遣唐使  八尾市 服部静尚
○「高御産巣日神」対馬漂着伝承の一考察  松山市 合田洋一
○古田史学の会・第20回会員総会の報告
○『古代に真実を求めて』18集原稿募集
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記  西村秀己


第762話 2014/08/09

『肥前叢書』の

「聖徳太子」伝承

 昭和12年に肥前史談会により発行された『肥前叢書』(昭和48年復刻版)によれば、肥前の寺院に「聖徳太子」御作とされる仏像に関する記事が散 見されます。おそらく九州王朝の天子、多利思北孤か太子の利歌彌多弗利に関わる仏像記事が、後世に「聖徳太子」伝承に置き換えられたものと推察されます。 そうであれば、作られたのは仏像だけではなく寺院も建立されたはずです。同書によれば次のような「聖徳太子」関連記事があります。

○勝楽寺
 「新庄の里勝軍山勝楽寺本尊は阿弥陀如来の尊僧聖徳太子の御作也」

○桐野山
 「桐野山妙覺寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也」

○黒髪山
 「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子の御作也」

○圓應寺
 「武雄圓應寺、本尊は聖観音の座像也、薩捶聖徳太子の御作、利生無双の霊像也」

 こうした「聖徳太子」伝承を持つ寺院や仏像は、本来は多利思北孤か利歌彌多弗利に関わるものであれば、7世紀初頭頃に肥前の地でも九州王朝による寺院が少なからず建立された可能性をうかがわせます。これもまた土器や瓦などの考古学的出土による編年研究が必要です。


第761話 2014/08/08

『肥後国誌』の

  寺社創建伝承

 「洛中洛外日記」757話において、7世紀前半における寺院の「九州の空白」 問題を指摘しました。考古学的痕跡からの指摘でしたが、九州の現地伝承を記した史料には7世紀前半以前における創建伝承を持つ寺院の存在が少なからず見え ます。たとえば平野雅曠著『倭国王のふるさと 火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)には『肥後国誌』に見える次の寺社創建記事を紹介されています。ちなみに、平野氏(故人)は「古田史学の会」草創期の会員で、古田学派における熊本の重鎮でした。

○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)

○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)

○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594~600年。『二中歴』では「告貴」)

○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)

 このように熊本県北部に6世紀の寺社創建伝承が分布しており、中でも「聖徳太子建立」伝承から、多利思北孤の時代の創建伝承が「聖徳太子」伝承に置き換えられていることがわかります。おそらくこの山鹿や益城地方は『隋書』国伝に記された阿蘇山の噴火を見た隋使の行路で はないかと考えられます。
 6世紀末の吉貴(告貴)年間の創建であれば、法隆寺若草伽藍創建と同時期にあたりますから、その時代の瓦や土器が出土すれば、考古学的証拠と史料が一致し、九州王朝における寺院創建の可能性が高まります。地元の皆さんで現地調査や考古学的発掘調査報告書を調べていただければありがたいと思います。


第760話 2014/08/06

研究者、受難の時代

 昨日、理研の笹井副センター長が自殺するという痛ましい事件が、とうとう発生してしまいました。「とうとう」と記したのは、こうした事態がいずれ引き起こされるのではないかと、わたしは危惧していたからです。いったい笹井さんは死ななければならないようなことをしたのでしょうか。たかだかイギリスの商業誌(「ネイチャー」は学会誌ではありません)に論文を一つ発表しただけで、なぜあそこまで叩きに叩き、死ぬまで追いつめる必要があったのでしょう か。いつから日本社会は法治国家ではなく「集団でリンチ」する国になったのでしょうか。
 NHKは小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し、全治二週間の傷害を負わせ、小保方さん笹井さんを特別番組(クローズアップ現代)で犯人扱いし、死ぬまでバッシングを続けたのです。この際、NHKは「日本犯罪者協会」と名称を変えるべきでしょう。
 例によってNHKの意に添ったテレビに出たがる御用学者を使い、一方的な「解説」をさせ、学問的に決着が付いていない研究(STAP細胞・現象)に対して非中立的な報道を続けました。これは明らかに放送法第4条違反です。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも何度も放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。
 今回は、優秀な研究者を自殺するまで、半年間にわたり叩き続けたのです。小保方さんにしても発表した論文中の80枚近くの写真うち、3枚に悪意のない過誤があったにすぎず、しかも正しい写真は存在し、結論にも影響しないというものでした。それを「研究不正」などと称してバッシングを続け、女子トイレまで追いかけ回しました。その論文を指導した笹井さんを死ぬまで追いつめ続けました。
 日本社会は放送局(特にNHK)や新聞社(特に毎日新聞)、週刊誌、御用評論家らが白昼堂々と何も犯罪を犯していない個人を「集団でリンチ」する社会になってしまいました。研究者受難の国、受難の時代です。安倍総理の言う「法による支配」はウソだったのでしょうか。「技術立国」など今後は望むべくもない でしょう。


第759話 2014/08/04

『菊水史談会会報』第20号

先月、熊本県玉名郡和水町の菊水史談会事務局の前垣芳郎さんから、同会会報第20号が送られてきました。それには、本年五月にわたしが同地で講演した記事が掲載されていました。同記事中には「古田史学の会」ホームページの「洛中洛外日記」も紹介されていました。ありがたいことです。
同会会長の有江醇子様からのお手紙も同封されており、講演へのお礼が記されてありました。お手紙によると、「会報」第20号が菊水地区の熊本日々新聞の折り込みとして7月17日の朝刊と一緒に各家庭へ配達されたとのこと。すごい取り組みですね。
有江さんは「九州の古代は倭国の本拠地であったというお話に、私どもは驚きと誇りをいただきました。空白の4~6世紀と言われる現在の日本史を一日も早く復元し、日本の正史に取り上げていただけることを祈っております。」と記されており、恐縮しています。
このように、九州の各地で古田史学・九州王朝説が確実に浸透していることがわかります。これからも各地の団体や研究者と連絡を取り合い、協力して古田史学の啓蒙宣伝を進めていきたいと願っています。


第758話 2014/08/03

河内平野の弥生王墓

 先日、大阪歴史博物館で開催されている特別展「大阪遺産・難波宮」を見てきました(8月18日まで、火曜日休館)。山根徳太郎氏による昭和29年 の難波宮第一次調査から60周年を記念して開催されたもので、山根氏が書いた書簡や実測図なども展示されており、日本の考古学の歴史を垣間見ることができました。有名な「はるくさ」木簡や年輪セルロース酸素同位体法で測定された難波宮出土木柱などタイムリーな展示もありました(レプリカ展示もあります)。
 わたしの一番の目的は、四天王寺創建瓦と同笵品とされた前期難波宮下層出土瓦を筆頭とする各地の軒丸瓦の観察でした。会場で販売されている資料集は最新の研究成果に基づく内容が掲載されており、お勧めの一冊です。
 今回、歴博ではとても興味深い展示が常設展示でありました。「河内平野の弥生王墓」(9月1日まで)で、大阪市平野区から出土した弥生時代の大型墳丘墓 (紀元前1世紀)の加美遺跡の展示です。時代と場所からすると「銅鐸国(狗奴国など)」の権力者の墳丘墓と思われます。
 墳丘規模は南北26m、東西15m、高さ3mもあり、弥生時代の墳丘簿としては河内平野最大とのことです。23基の木棺が見つかっており、甕棺が主流の吉野ヶ里遺跡など北部九州の弥生墳丘墓とは全く趣が異なっています。出土土器もわたしが知っている弥生の土器とは文様や色調が違い、倭国と銅鐸国との違いを知ることができました。
 加美遺跡からは銅鏡や銅剣・銅鉾などは出土していませんが、ガラス製の勾玉・丸玉や銅釧が出土しています。こうした副葬品も北部九州とは異なっており、倭国と銅鐸国との文化の差を感じることができました。この展示もお勧めです。


第757話 2014/08/02

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(7)

 森郁夫さんの『一瓦一説』からは多くの知見と、それ以上に多くの疑問を得ることができました。知見については紹介してきたとおりですが、最後に最大の疑問点について指摘したいと思います。それは7世紀前半における「九州の空白」問題です。
 畿内・近畿では7世紀初頭から寺院の建立が盛んになり、飛鳥寺や法隆寺若草伽藍、四天王寺(天王寺)などの遺構や瓦も出土しています。ところが九州では7世紀中頃から後半(白鳳時代)の寺院(観世音寺など)や廃寺跡は知られていますが、7世紀前半の寺院跡や瓦の出土が明確ではありません。7世紀初頭と言えば、仏教に帰依した輝ける天子、多利思北孤の時代ですから、北部九州にこの時代の寺院が多数あってほしいところですが、そうではないのです。この7世紀前半における「九州の空白」問題は九州王朝説にとって解決しなければならない重要かつ深刻なテーマなのです。
 可能性の問題としては、今後北部九州からも出土するかもしれませんし、瓦や土器の編年そのものが近畿とは異なっており、7世紀後半と編年されてきた廃寺跡が7世紀前半だったということもあるかもしれません。しかしながら、観世音寺創建に関して史料(文献)も瓦(考古学)の編年も7世紀後半(670)と一致しており、したがって7世紀前半の編年がそれほどずれているとも考えにくいのです。
 この7世紀前半の寺院「九州の空白」問題は、前期難波宮問題と同様に九州王朝説にとって突き刺さったトゲなのです。多元史観・九州王朝説論者の真価が問われる問題です。今回、森さんの『一瓦一説』により、この問題の重要性を深く再認識することができました。これからこの問題について深く深く考えたいと思 います。


第756話 2014/08/01

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(6)

 森郁夫さんの『一瓦一説』の「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)で紹介されている、法隆寺若草伽藍や四天王寺創建瓦と前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘について、九州王朝説の立場から考察してみます。
 森さんは同著で、前期難波宮下層遺構出土の瓦の方が創建四天王寺の瓦よりも古いとされました。その根拠は『扶桑略記』などの史料に見える四天王寺移転伝承によられたものです。当初、四天王寺は「玉造」(大阪城付近)に創建され、後に現在地(天王寺区)である「荒墓」に移転されたとする伝承が諸史料に見え、従来から注目されてきました。その伝承を根拠に、森さんは前期難波宮下層出土の同笵瓦を四天王寺出土同笵瓦よりも先と判断されたのです。
 それに反して、大阪歴史博物館の展示(大阪遺産難波宮展、本年6~8月)では、同笵瓦の文様のくずれ具合から、前期難波宮下層出土瓦よりも比較的くずれや変形が少ない四天王寺瓦の方がより古いとされています。すなわち、大阪歴博は考古学的出土事実に基づいて先後関係を判断し、他方、森さんは後代史料の伝承を優先されたのでした。
 そこでわたしは大阪歴博を訪問し、学芸員の李陽浩さんにこのことに関する見解をお聞きしました。李さんも森さんの『一瓦一説』の内容をよくご存じで、懇切丁寧に考古学者らしい論理的な解説をしていただきました。李さんの見解は次のようなものでした。

(1)同笵瓦の文様のくずれ具合から判断すれば、四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、前期難波宮下層出土瓦よりも古いと判断できる。
(2)この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
(3)しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
(4)史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。
(5)前期難波宮下層から出土する瓦は数が少なく、その地に寺院があったとするには問題が多い。別用途のために瓦が他から持ち込まれたとする可能性を排除できない。

 おおよそ、以上のような解説がなされました。わたしは学問的に誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。『二中歴』の倭京二年(619)難波天王寺創建記事とほぼ一致していることから、歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 ただ、(5)の出土瓦の少なさについては、四天王寺への移転のとき、距離的にも近いので瓦もそのまま再利用されたため、という可能性も考えておいた方が良いのではと思います。
 四天王寺瓦の編年により四天王寺創建が620年頃とされたことにより、『二中歴』「年代歴」の九州年号細注にある「倭京二年(619)に難波天王寺を聖徳が建てる」という記事との一致が注目されます。すなわち、考古学と文献の一致から、創建年や『二中歴』の記事が歴史事実であったと考えられ、この論理性は同時に九州年号(倭京)の存在が歴史事実であることも指し示します。更に、「難波天王寺」の「難波」が摂津難波の「難波」であることも当然の帰結となる でしょう。そして、九州王朝に「聖徳」と呼ばれた有力者がいたということも示しています。『二中歴』には天王寺を造営したと記されており、移転・移築とは考えにくいので、九州王朝が造営したのが天王寺(現・四天王寺の場所)であり、玉造に造営されたとされる「四天王寺」とは別ではないかと、今のところ考え ています。
 これらの論理的帰結として、7世紀初頭の難波は九州王朝の有力者(聖徳)が寺院(天王寺。現・四天王寺)を建立するほどの九州王朝と深い関係(直轄支配領域)を有す地域ということが言えるでしょう。こうしたことが背景となって、652年(九州王朝の白雉元年)には副都(前期難波宮)を造営するに至ったと思われます。