筑後の「阿麻の長者」伝説
『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、九州王朝の天子の姓名は阿毎多利思北孤(アメ〈マ〉・タリシホコ)と記されています。近畿天皇家の天皇にこのような人物はいませんが、筑後地方に「阿麻の長者」伝説というものがあり、この「阿麻の長者」こそ阿毎多利思北孤かその一族の伝承ではないかと考えています。
『浮羽町史』(昭和63年)によれば、久留米の国学者・舟曳鉄門『橿上枝』の説として、浮羽町(現・うきは市)大野原にあった「天(尼)の長者の一朝堀(ひとあさぼり)」について次のように紹介しています。
「原の西北に阿麻の一朝堀と云へる大湟(ほり)の趾あり。土俗の伝に上古ここに阿麻と云へる貴き長者あり。その居館の周囲に大湟を一朝に掘れるより此の号ありと云へり。高良山なる神篭石を鬼神の一夜に築きけりと云へる里老の伝と全く同じかり。阿麻とき名とも氏とも云へず。いとも遙けき上古の事と云へれば、文書の徴とすべきたづきもなかりしかど、上記の文に據りてよく案へば天津日高の仙宮敷まししをかくは語り伝へしなるべし。」(156頁)
この「天(尼)の長者の一朝堀」は大字山北字宇土の国道210号線沿いの北側にあったもので、長さ240m、幅68m、深さ20mの掘割で、昭和57年(1982)合所ダム建設工事の排土で埋没されたとのことです。同地域には「こがんどい」と呼ばれる堤防もありました。この「天の長者の一朝堀」を『日本書紀』斉明紀の「狂心の渠(みぞ)」ではないかとする論稿「天の一朝堀と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』40号、2000年10月)をわたしは発表したことがあります。本ホームページに掲載されていますので、ご覧ください。
筑後地方は筑前と共に九州王朝の中枢領域です。そこにあった巨大土木工事跡と「阿麻の長者」伝説を九州王朝の天子・阿麻多利思北孤やその一族のものとすることは穏当な理解と思います。