二つの漢風諡号「皇極」「斉明」
『日本書紀』の漢風諡号(死後のおくりな)は『日本書紀』成立の数十年後に淡海三船により作成されたと考えられています。その中で例外的に天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)に対して、最初に即位(35代)したときは「皇極」、「孝徳天皇」を挟んで二度目の即位(37代)のときには「斉明」という二つの漢風諡号が付けられました。
『日本書紀』成立時には和風諡号(国風諡号)だけで漢風諡号は記されてなく、後に付記されたわけですが、和風諡号は二回とも「天豊財重日足姫天皇」と同じ名前で記されており、同一人物として『日本書紀』は編纂されています。生前の名前は舒明紀2年正月条に「宝皇女」とあり、和風諡号に見える「財」という字からも判断して、本名は「たから」と考えられています。
この「たから」天皇だけ、なぜ漢風諡号を二つつけられたのでしょうか。いわゆる「死後のおくりな」であれば一つでよいと思うのですが、『日本書紀』中でただ一人、天皇に2回即位したため、漢風諡号が二つ付けられたのかもしれません。しかし『日本書紀』に記された和風諡号は一つなので、漢風と和風で方針が異なったのでしょうか。不思議な現象です。
ちなみに『続日本紀』でも、2回天皇に即位した聖武天皇の娘(阿倍内親王)は「孝謙」(46代)と「称徳」(48代)と二つの「漢風号」が付けられており、『日本書紀』の「たから」天皇と同様です(西村秀己さんのご教示による)。しかし「孝謙・称徳」の場合は死後のおくり名ではなく、生前の尊号ですから、漢風諡号とは言い難いものです。
この「孝謙・称徳」が漢風諡号ではなく、いわば生前の「漢風尊号」であれば、『日本書紀』の「皇極・斉明」も「死後の尊号」という性格かもしれません。そうであれば、2回の天皇即位にあたり、後世にそれぞれの「漢風尊号」を淡海三船が付けたとも考えられます。おそらく、この件については先行研究があることと思いますので、調査したいと思います。
ちなみに、古田先生は「皇極」と「斉明」は別人、あるいは別人の伝承記事を『日本書紀』編者が盗用したため、後に付された漢風諡号が異なっていると考えられているようです。この古田先生の説についても勉強したいと思います。