『新唐書』日本国伝の新理解
先日の「古田史学の会」関西例会で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から『新唐書』日本伝についての研究が発表されました。そのときの討論を経て、興味深いことに気づきましたのでご紹介します。
ご存じのように『旧唐書』(945年成立)には倭国伝(九州王朝)と日本国伝(大和朝廷)とが併記されており、多元史観・九州王朝説を直接的に証明する史料として古田史学では重視されてきました。その後に編纂された『新唐書』(1060年成立)では日本伝のみであり大和朝廷のみの記述となっていることから、大和朝廷一元史観の学界では「同じ国である倭国と日本国を別国として表記した『旧唐書』は信頼性が劣る」とされ、日本伝に統一した『新唐書』こそ正しいとして重視する姿勢をとってきました。
しかし、今回の服部さんの研究報告に触発され、『新唐書』を改めて読んでみると、『新唐書』編者は九州王朝と大和朝廷両国の存在を認識しており、その内の日本伝のみを記述していた可能性があることがわかりました。日本伝は日本側史料や歴代中国正史を参考にしてその歴史を記述しているのですが、具体的には『後漢書』の倭(委)奴国の時代から記述し、天御中主や神武頃からは「自らいう」として日本側の情報によっており、それまでは「筑紫城」に居住し、神武のときに「天皇」を名乗り「大和州」へ移ったとしています。いわゆる「神武東征」を史実として採用しています。
他方、その日本国の歴史には「志賀島の金印」も「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」も一切登場しません。意図的に避けていると思われるのです。歴代中国史書に登場する倭国の有名人や金印授与などの歴史的事件が見事にカットされているのです。これらを偶然とすることは考えにくく、やはりその主体が異なると『新唐書』編者は認識していたのではないでしょうか。
そうした九州王朝の有名人や重要事件がカットされた日本伝なのですが、不思議な記述がありました。それは「目多利思比孤」です。『隋書』俀国伝の「阿毎多利思北孤」と関係することは一目瞭然なのですが、「目」の意味が不明でしたし、九州王朝の多利思北(比)孤がなぜ近畿天皇家の歴代の天皇と並んで記されているのかが不審とされてきました。
「(前略)次用明、次目多利思比孤、直隋開皇末年始與中国通、次崇峻(後略)」(『新唐書』日本伝)
「目多利思比孤」は用明(585〜587年)と崇峻(587〜592年)の間の在位とされていますが、こうした人物は『日本書紀』などには当然見えません。従って、『新唐書』編者は別の情報に基づいて上記記事を書いたと思われます。ここで注目されるのが、古田先生が指摘されたように「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事です。『新唐書』日本伝では隋の開皇年間(581〜600年)の末に初めて日本国は中国(隋)と国交開始したと記しているのです。ですから、日本伝に「志賀島の金印」や「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」などの古くからの国交記事が全く記されていないことと整合しています。
『隋書』俀国伝によれば開皇20年に多利思北孤は遣隋使を派遣しています。先の記事はこの遣隋使記事と年代が一致しています。しかし『隋書』によれば倭国(俀国)は古くから中国と交流していることが記されていますから、『新唐書』の編者は日本伝の日本国と『隋書』の俀国(倭国)は別国と認識していたと考えざるを得ないのです。
それではこの「目多利思比孤」とは何者でしょうか。古田先生によれば「目」は代理を意味する「目代」(代理人)などと同類の「称号」ではないかとされ、おそらく多利思北孤が派遣した遣隋使に同行した近畿天皇家の使者を「目・多利思比孤」、すなわち多利思北(比)孤の代理人(目)として『新唐書』に記したのではないでしょうか。
歴史事実がどのようなものであったか、その詳細はまだわかりませんが、『新唐書』編者の認識は、九州王朝の天子・多利思北孤の「目(代理)」として「目多利思比孤」という人物を近畿天皇家(日本国)の代表者として用明と崇峻の間に記録したと考えざるを得ません。
以上のように、『新唐書』日本伝は多元史観・九州王朝説に立って読んだとき、初めてその成立過程が理解可能となります。近畿天皇家一元史観では「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という一文を全く説明できないのです。
掲載 歴史ビッグバン 古田武彦
(『新・古代学』第3集 1998年 新泉社)