2016年03月12日一覧

第1149話 2016/03/12

考証・和紙の古代史(1)

 世界の四大発明は火薬・羅針盤・活版印刷・紙とされています。紙は中国(後漢時代)の蔡倫により発明されたと伝えられてきましたが、紀元前2世紀(前漢)の遺跡からも出土していることから、その発明時期は更に遡ることになりました。
 日本列島への伝来の時期は不明ですが、最近、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡から硯(すずり)が出土したことから、弥生後期(2世紀後半〜3世紀前半頃)には糸島博多湾岸(邪馬壹国・九州王朝)は他地域に先駆けて文字文化を受容したと見られます。『三国志』倭人伝によれば、中国(魏王朝)と倭国(邪馬壹国)は国書を交換しており、弥生時代の倭国に文字官僚がいたことを疑えません。今回の硯の出土により、倭人伝の記事の信頼性が増したといえるでしょう。ただし、この時代、紙は貴重なので、一般的には木簡が使用されていたと思われ、中国から輸入した紙は国書などの重要書類に限定して使用していたのではないでしょうか。
 他方、わが国での現存最古の書籍は『法華義疏』(皇室御物)で、600年頃の倭国内での成立とされていますが、使用された紙が国産和紙か中国製かは諸説あり、和紙と断定するに至っていないようです。正倉院には大寶2年(702)戸籍(筑前・豊前・美濃)が現存しており、これらは国産和紙と見られています。倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)はその膨大な使用量からみて、国産和紙が使用されたと思われます。
 概観すれば、弥生時代に中国から文字文化とともに紙が伝来し、どんなに遅くとも6〜7世紀には倭国でも写経や造籍事業のために国産和紙を製造していたとしても、大過ないでしょう。ヨーロッパに中国の製紙技術が伝わったのは12世紀頃とされていることから、日本への伝来はかなり早いといえます。そして中国から伝わった紙や製紙技術は日本で独自の発展を遂げ、文字通りの「和紙」が生まれます。(つづく)


第1148話 2016/03/12

『邪馬壹国の歴史学』ついに刊行

 『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』がついに刊行されました。先日、ミネルヴァ書房から『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』が届いていました。古田先生の追悼も兼ねた渾身の一冊です。
 収録論文には古田先生の遺稿も含まれ、「古田史学の会」会員の論文は『三国志』倭人伝の最先端研究を収録しました。論文採否に当たっては、一切の妥協を排し、完全に納得したものだけを編集部で選びぬきました。古田先生の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった』の後継論文集と自負しています。古田先生からも御生前にお褒めいただいた力作です。ご協力いただいた皆様や執筆者の方々に心から感謝申し上げます。
 この一冊を古田武彦先生に捧げます。

【目次】
はじめに -追悼の辞- 古田史学の会・代表 古賀達也
「短里」と「長里」の史料批判 -フィロロギー- 古田武彦
序 「邪馬台国」から「邪馬壹国」へ 古田武彦

Ⅰ 短里で書かれた『三国志』
1 「邪馬壹国」はどこか -博多湾岸にある- 古田武彦
2 『倭人伝』の里程は正しかった -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- 正木 裕
3 中国内も倭国内も短里 古田武彦
4 「倭地、周旋五千余里」の解明 -倭国の全領域を歩いた帯方郡使- 野田利郎
5 『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察- 古賀達也
6 短里と景初 -誰がいつ短里制度を布いたのか- 西村秀己
7 古代の竹簡が証明する魏・西晋朝短里 -「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」- 正木 裕
8 「短里」の成立と漢字の起源 -「短里」の成立は殷代に遡る- 正木 裕
9 『三国志』中華書局本の原文改訂 古賀達也

Ⅱ 「邪馬壹国」の文物
1 女王国はどこか -矛の論証- 古田武彦
2 銅鐸問題 古田武彦
3 「卑弥呼の鏡」特注説 古田武彦
4 絹の問題 古田武彦
5 鉄の歴史と「邪馬壹国」 服部静尚
6 三十国の使いと「生口」 古田武彦

Ⅲ 二倍年暦
1 陳寿が知らなかった二倍年暦 古田武彦
2 盤古の二倍年暦 西村秀己

Ⅳ 倭人も太平洋を渡った
1 裸国・黒歯国の真相 古田武彦
2 エクアドルの遺跡問題 古田武彦
3 エクアドルの大型甕棺 -「倭国南海を極むる也、光武以って印綬を賜う」- 大下隆司

Ⅴ 『三国志』のハイライトは倭人伝だった
1 『三国志』の歴史目的 古田武彦
2 『三国志序文』の発見 古田武彦

Ⅵ 「邪馬壹国」と文字
1 「卑弥呼」と「壹」の由来 古田武彦
2 『魏志倭人伝』の「都市牛利」 古田武彦
3 北朝認識と南朝認識 -文字の伝来- 古田武彦
4 『魏志倭人伝』の国名 古田武彦
5 官職名から邪馬壹国を考える 正木 裕
6 『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名の起源-「泄謨觚・柄渠觚・※馬觚」は周王朝との交流に淵源を持つ- 正木 裕
 (※=「凹」の下に「儿」)

Ⅶ 全ての史学者・考古学者に問う
1 纒向は卑弥呼の墓ではない 古賀達也
2 邪馬台国畿内説と古田説がすれ違う理由 服部静尚
3 庄内式土器の真相 -古式土師器の交流からみた邪馬壹国時代の国々- 米田敏幸
4 「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也

編集後記 服部静尚
巻末史料1 倭人伝(紹煕本三国志)原本
巻末史料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文 古田武彦
事項索引
人名索引