律令時代の中央職員数は九千人強
本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)よりミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』の説明があり、会場で特価販売を行いました。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)も刊行され、2015年度賛助会員へは明石書店から順次発送されるとの報告がなされました。
その服部さんから、古代律令時代の中央職員数に基づく考察が発表されました。養老律令によれば総勢九千人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとのこと。従って、7世紀中頃に九州王朝が評制による全国支配をしていた宮殿として、九千人が勤務したり、家族と共に生活できる都は前期難波宮か太宰府しかないとされました。一元史観の通説では孝徳天皇没後に前期難波宮から飛鳥宮へ遷都したとされていますが、九千人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も飛鳥宮にはありません。この矛盾を一元史観では全く説明できないのです。
こうしたことから、前期難波宮が造営された難波には、職員やその家族が生活する「宅地分譲」のために条坊が同時に造営されたとする高橋工さん(大阪文化財研究所)の説を紹介されました。わたしもこの7世紀中頃の前期難波宮と条坊造営説に賛成ですので、服部さんの数字を示しての発表には説得力を感じました。
3月例会の発表は次の通りでした。高知市から別役(べっちゃく)さん(古田史学の会・会員)が夜行バスで初参加されました。
〔3月度関西例会の内容〕
①「宮城と官僚」-難波宮・飛鳥宮・太宰府政庁・藤原宮・平城京(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(姫路市・野田利郎)
③中国風一字名称について -『二中歴』年代歴の「武烈」の理解-(高松市・西村秀己)
④定策禁中(京都市・岡下英男)
⑤弥生の硯が証明する古田論証(川西市・正木裕)
⑥ニギハヤヒを考える(東大阪市・萩野秀公)
⑦『日本書紀』の盗用手法について -大和中心にベクトルを転換-(川西市・正木裕)
○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
古田光河氏より来信・史跡巡りハイキング(大東市立歴史民俗資料館)・ミネルヴァ日本評伝選『三好長慶』を読む・東大寺二月堂「お水取り」に関する水野説(長屋親王への慰霊)・TV視聴・その他