2016年03月一覧

第1147話 2016/03/10

5月28日(土)久留米大学で講演済み

 毎年開催されています久留米大学の公開講座のパンフレットが届きました。今年は5月28日(土)に正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とわたしが講演します。テーマは次の通りですが、九州王朝のお膝元であり、わたしの故郷の久留米市で講演できることを楽しみにしています。

正木裕さん 『聖徳太子』は久留米の大王だった
       14:00〜15:30
古賀達也  九州王朝の「聖徳太子」伝承
      ー日出ずる処の天子と肥後の翁ー
       16:00〜17:30

●受講料 2160円
●定員 100名
●申込締切 5月13日(金)
●久留米大学御井キャンパス 500号51A教室
◎申し込み・問い合わせ先
 久留米大学御井学舎事務部 地域連携センター
 電話・FAX 0942-43-4413
 E-mail  koukai@kurume-u.ac.jp

 当日、講演終了後に当地の会員や希望者のみなさんと懇親会(夕食会)を開催したいと考えています(「古田史学の会」主催)。この懇親会は久留米大学とは無関係ですので、お問い合わせなどは「古田史学の会」にお願いします。懇親会の詳細が決まりましたら、「洛中洛外日記」などでご報告します。


第1146話 2016/03/09

三雲・井原遺跡出土「硯」の使用者

 久留米市の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からメールをいただきました。3月5日に開催された「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会」の報告とともに説明会資料(糸島市教育委員会文化課)が添付されていました。弥生後期の硯が出土した遺跡で、貴重な説明会資料です。現地説明会などにはなかなか参加できませんから、こうして資料を送っていただき、ありがたいことです。
 資料によれば、この硯が出土した番上地区は50点以上の「楽浪系土器」が集中して出土するという、他の遺跡には見られない特徴を有していることから、「渡来した楽浪人の集団的な居住(滞在)を示す。」とされています。すなわち、出土した硯は楽浪からの渡来人が使用したとされて、次のように解説されています。

【硯出土の意義】
①これまでも三雲・井原遺跡番上地区には楽浪郡から来た人々が滞在したことが想定されていたが、硯の出土により楽浪郡(中国)との正式な文書のやり取りや、銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された可能性が高まった。つまり、楽浪郡からの使者が渡海する目的の一つが伊都国の王都とされる三雲・井原遺跡の訪問にあることが想定される。
②『魏志倭人伝』には伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があるが、今回の硯の出土で記述の信頼性が高まった。
③朝鮮半島南部でも茶戸里遺跡で筆が出土し、半島南岸まで文書(木簡)が使用されていることは出土品から確認されていたが、筆は有機質であるため環境によっては残らないことが多い。今回の硯の出土は日本における文字文化の需要が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す。

 倭国王都の三雲・井原遺跡を伊都国王都としており、問題のある解説ではありますが、同地で文書行政が行われていたこと、同地から文字受容が始まったとする理解は穏当なものです。すなわち倭国の中心領域が古田説の糸島・博多湾岸であることを支持する解説なのです。「銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された」とありますから、受領書や返礼書は受け取った当事者が書くものですから、同遺跡からはるかに離れた邪馬台国畿内説などでは説明不可能です。
 さらに考えれば、楽浪人(中国人)が当地に常駐していたとされていますから、女王国(邪馬壹国)の情報がかなり正確に中国に報告されており、その報告に基づいて記された「倭人伝」の記述も正確であったと言えます。


第1145話 2016/03/06

藤井政昭さんの「関東の日本武尊」

 先週末、東京出張から帰宅すると、友好団体の多元的古代研究会から同会機関紙「多元」No.132が届いていました。一面には1月17日に開催した大阪府立大学での古田先生追悼講演会の報告が掲載されていましたが、インフルエンザと思われる発熱のため、読む体力と気力がなく、ようやく今日になってざっと目を通すことができました。
 力作ぞろいの中でも、秩父市の藤井政昭さんが書かれた「関東の日本武尊」がとても好論でした。その要旨は、『日本書紀』景行40年条に見える日本武尊の「関東遠征記事」では、日本武尊の代名詞が「尊」ではなく全て「王」と称されていることから、これは日本武尊のことではなく、「関東の○○王」の伝承からの盗用とするものでした。
 論証の方法や史料根拠が明示されており、しかもそれが単純明快なことから、とてもわかりやすく好感を持って読むことができました。「ああも言えれば、こうも言える」という程度の「思いつき」ではなく、かつ、結論へと導く論理展開が恣意的でもなく、相対的に有力な仮説の提起に成功されているように思われました。これからの検証や論争を通じて、この藤井説の当否が確認されることを期待したいものです。わたしも体調が戻りましたら、改めて藤井稿を精読し、検討したいと思います。


第1144話 2016/03/06

糸島市出土「硯」の学問的意義

 糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
 こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
 『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。


第1143話 2016/03/05

弥生後期の硯が出土

 昨晩遅く、インフルエンザ?の発熱でふらふらになりながら東京出張から帰宅しました。正木さんからのメールで、糸島市から弥生後期の硯が出土していたことを知りました。これは画期的な出土であり、『三国志』倭人伝にあるように倭国での文字文化を証明するものです。体調が戻ったら調べてみたいと思います。
 2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 2月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/02/01 大型化する銅鐸と鋳造技術
2016/02/06 『東京古田会ニュース』に投稿
2016/02/09 Facebookでビジュアル「洛中洛外日記」発信
2016/02/10 「九州年号」研究サークル設立の相談
2016/02/11 久留米大学公開講座で講演します
2016/02/28 「古田武彦氏の著作と学説」の目次紹介