近江朝と「近江令」
天智・大友による九州王朝系「近江朝」という正木説の考察とその展開について論じてきましたが、今回は「近江令」を俎上に上げたいと思います。
従来の九州王朝説の立場からすれば、701年より前は九州王朝の時代であり、その律令は「九州王朝律令」「倭国律令」ともいうべきものが制定されていたはずで、九州王朝下での近畿地方の一有力豪族に過ぎない近畿天皇家による律令はなかったと考えられてきました。すなわち、史料に見える「近江令」や「飛鳥浄原令」などは存在しないという立場でした。また、同時代金石文の「威奈大村骨蔵器」にも「大宝元年初めて律令を定める」とする記述があり、近畿天皇家による律令は大宝元年(701)の大宝律令からとする根拠にされてきました。
ところが今回の正木説によれば、九州王朝系の近江朝が「近江令」を定めたということになり、「威奈大村骨蔵器」の銘文とも矛盾しなくなります。その結果、「庚午年籍」も「近江令」にあった「戸令」に基づき造籍されたとする理解が成立します。従って、「近江令」研究は九州王朝律令研究の一分野として見直さなければならなくなるのです。(つづく)