「論証と実証」論の古田論文
7月の「古田史学の会」関西例会での大下隆司さんからの「学問は実証よりも論証を重んじる」に関する発表を受けて、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)も8月の関西例会で同問題について報告されることになりました。
わたしはこの「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉は学問の金言と理解していますが、古田先生から直接詳しい説明をお聞きしたことはありませんでした。ところが、「古田史学の会」会員で多元的「国分寺」研究サークルの肥沼さんが同サークルのホームページに、古田先生による解説文を転載されました。古田先生の「学問的遺言」とも言うべきものですので、ここに転載させていただき、ご紹介いたします(転載にあたり、若干の編集を行いました)。
多元的「国分寺」研究ホームページより転載
2016年7月29日 (金)
「論証と実証」論(古田論文を収録!)
もしかしたら,「学問は実証より論証を重んじる」について,以下のところに書いていないでしょうか?「新古代学の扉」サイトを眺めていて,そう思いました。筑紫舞のことが載っている『よみがえる九州王朝』の復刻版で,ミネルヴァ書房のものです。
以下,古田武彦著『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)より
日本の生きた歴史(十八)
第一 「論証と実証」論
一
わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。
二
今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
一例をあげましょう。
三国志の魏志倭人伝には,直接「南米」そのものをしめす文面はありません。その点、狭い意味での「実証」では、「南米問題」は出てこないのです。
しかし、倭人伝には次の文面があります。
①「(侏儒国)その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
②「(裸国・黒歯国)あり。またその南東にあり。船行一年にして至るべし」
わたしが『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、倭人伝は、「短里」(七十五〜九十メートル。七十五メートルに近い)で記されているという立場からすれば、
(その一)「侏儒国」は足摺岬(高知県)近辺である。
(その二)「裸国・黒歯国」は南米のエクアドル近辺である。
という、二つの命題に至らざるをえません。右の(その一)は「黒潮と日本列島の接点」であり、(その二)は「黒潮とフンボルト大寒流の接点」と対応しているのです。
幸いに、わたしの「論証」は、“裏付け”られました。
(α)マラウージョ(一九八〇年)・フェレイラ(一九八三、八八年)の論文によって、化石ならびにミイラを通して日本列島側との交流が報告された(『「邪馬台国」はなかった』「補章 二十余年の応答」。ミネルヴァ書房版では三六六ページ)。
さらに、
(β)南米の「インディオ」のウィルスと遺伝子が日本列島(太平洋側)の住民と「同一型」であることが証明された(田島和雄氏)。
(γ)南米の地名中の「スペイン語・ポルトガル語以外の地名」に「原初日本語」の存在が「発見」された(「トリ」「ハタ」「マナビ」等)。さらに有名な南米最大の湖「チチカカ湖」は、「チ(神の古名)」と「カ(神聖な水)」のダブリ言語(日本語では、チチブ山脈など)であり、「太陽の神の作りたもうた神聖な湖」(「アイマラ語」インカ語以前の諸言語)の意義であることが判明した(藤沢徹氏の報告による)。
ここでも、日本語と南米の「原初語(地名)」がまさに“共通”していたのです。
やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは、「論証」、この二文字だったようです。