『続日本紀』の年号認識(2)
「建元」は一つの王朝にとって最初の年号制定を意味しますから、1回だけです。それ以降は「改元」が繰り返されるのですが、大和朝廷(近畿天皇家)にとっての「建元」は『日本書紀』にはなく、『続日本紀』に記された次の「大宝建元」記事だけです。
「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、大宝元年三月条(701)
これ以後は現代の「平成」まで改元が繰り返されるのですが、『続日本紀』の「大宝建元」に続く、「慶雲」「和銅」「霊亀」「養老」の「改元」記事(詔勅)は次の通りです。
「五月甲午(10日)、備前国、神馬を献る。西楼の上に慶雲を見る。詔して天下に大赦し、改元して慶雲元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、慶雲元年五月条(704)
「和銅元年春正月乙巳(11日)、武蔵国秩父郡、和銅を献る。詔して曰く、(中略)故、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号と定め賜う。(後略)」『続日本紀』元明天皇、和銅元年正月条(708)
「九月庚辰(2日)、禅を受けて、大極殿に即位す。詔して曰く、(中略)其れ和銅八年を改元して霊亀元年とす。」『続日本紀』元正天皇、霊亀元年九月条(714)
「癸丑(17日)、天皇、軒に臨みて、詔して曰く(中略)天下に大赦して、霊亀三年を改元し養老元年とすべし、とのたまう。」『続日本紀』元正天皇、養老元年十一月条(716)
この様に『続日本紀』において、「建元」と「改元」は明確に使い分けられています。この時代は大和朝廷が九州王朝に代わって列島の代表王朝になり、『古事記』や『日本書紀』編纂の時代ですから、当然、九州王朝の歴史的実在は自らも周囲の豪族たちも知悉していたはずです。この『続日本紀』における「建元」と「改元」の表記使い分けについて、大和朝廷一元史観の学者は全く説明できていませんし、特に古田先生の九州王朝説(九州年号説)が発表されてからは意識的に避けているようにも見えます。
上記の「建元」「改元」記事で注目すべきは、「改元」記事は天皇の詔勅を記載しており、同時代の最高権力者による「発言」が『続日本紀』に採用されているのですが、大和朝廷にとって最も重要な「大宝建元」記事は「詔勅」の転載ではないことです。「大宝建元」の詔勅を文武天皇は出さなかったのでしょうか。それ以後は「改元」の詔勅を採用しているにもかかわらず、『続日本紀』では最も重要な「大宝建元」の詔勅がカットされているのです。『続日本紀』中では最初の年号制定である「大宝建元」の詔勅が出されなかったとは考えられません。
それではなぜ『続日本紀』編者は「大宝建元」の詔勅をカットしたのでしょうか。恐らく文武天皇による「大宝建元」の詔勅には、九州王朝に代わって大和朝廷が列島の代表王朝になったことを高らかに宣言し、それまで国内で使用されていた九州年号(倭国年号)の無効と、自ら「建元」した「大宝」が正当な年号であることを国内配下の豪族たちに宣言した文言が「大宝建元」の詔勅にはあったはずです。ですから、その詔勅をそのまま『続日本紀』に転載したら、『日本書紀』が隠した九州王朝(倭国)の存在を認めてしまうことになるため、「大宝建元」の詔勅を転載できなかったと考えられるのです。
ちなみに、701年に「大宝建元」したとき、九州年号の「大化・白雉・朱鳥」を盗用した『日本書紀』はまだ成立していません(成立は720年)。自らの史書に九州王朝や九州年号をどのように取り扱うかという編纂方針が確立する前に、「大宝建元」の詔勅が発布されたのではないでしょうか。
『続日本紀』に「大宝建元」の詔勅が記されていないという史料事実について、古田先生の九州王朝説(九州年号説)ではこうした理解や説明が可能ですが、旧来の大和朝廷一元史観では、やはり説明不可能なのです。(つづく)