2017年05月12日一覧

第1394話 2017/05/12

前期難波宮出土百済土器の史的背景を問う

 今週、四国出張で高松市のホテルに宿泊しました。そのおり、高松市在住の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)と夕食をご一緒しました。話題は多岐にわたりましたが、特に前期難波宮九州王朝副都説への批判意見が脆弱すぎて、学問論争の体を為していないということで意見の一致をみました。
 確かに、わたしからの指摘や反論に答えないまま、前期難波宮九州王朝副都説の批判を続けるという姿勢はあまり学問的に誠実とは言えません。たとえば四年前に発表した下記の「洛中洛外日記」での指摘に対しても、無視されたままです。
 太宰府や北部九州ではなく、難波に百済や新羅の土器が濃密に出土しているという考古学的事実は、九州王朝説に立てば、前期難波宮九州王朝副都説以外ではうまく説明できないのではないでしょうか。
 学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深めると、わたしは考えています。是非、この指摘についてもご批判いただきたいと願っています。

【再録】古賀達也の洛中洛外日記
第562話 2013/05/26
難波宮出土の百済土器

 先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
 その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。

 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1〜2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(18頁)

 百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
 古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですか、近畿天皇家の「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をもっとも無理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることはご理解いただけるのではないでしょうか。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、同整地層から百済土器が出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝副都説の考古学的傍証として百済土器を位置づけることが可能となるのです。


第1393話 2017/05/12

『二中歴』研究の思い出(6)

 『二中歴』九州年号細注には仏教に関する記事が多いのですが、その中で最も印象に残ったものが、次の一切経受容記事でした。

「僧要」自唐一切経三千余巻渡

 九州年号の僧要年間(635〜639)に唐より一切経三千余巻が渡ったという記事です。一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピタカ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を総集したものです。総集目録として最も早いものは、前秦の道安(314〜385)による『綜理衆経目録』(六三九部八八六巻)とされ、その後も漢訳仏典の訳出の増加により次々と衆経目録が編纂され、唐代以前のものだけでも二十種に及ぶといわれています。
 そこで、この細注の「三千余巻」に相当する一切経を調査したところ、隋代(開皇17年、597)に費長房により撰述された『歴代三宝紀入蔵録』(一〇七六部、三二九二巻)が時期的にも巻数においても相応していることを発見したのです。そのことを『古田史学会報』12号(1996年2月)に「九州王朝への一切経伝来 『二中歴』一切経伝来記事の考察」として発表しました(『「九州年号」の研究』に収録)。
 このことから、『二中歴』細注が九州王朝史や九州王朝仏教受容史の復元研究にとって貴重な史料であることがわかりました。細注記事にはまだ意味不明なものがあり、これからの研究が待たれています。そしてそれらが判明したとき、九州王朝研究は更に進展することを疑えません。全国の古田学派の研究者に共に『二中歴』細注記事の研究に取り組んでいただきたいと願っています。