井上信正さんへの三つの質問(6)
井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つ目の質問は次のようなものでした。
〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
これは、直接には唐の長安城(「北闕」型の都)を見た遣唐使(粟田真人)により日本国に伝えられ、その「北闕」様式が平城京と大宰府政庁Ⅱ期の造営に採用されたとする井上説への質問なのですが、より深くは前期難波宮を一元史観に基づく考古学ではどのように説明されるのかを確認することが目的でした。当然ながら、井上さんはわたしのその目的を正確に理解され、次のように回答されました。
〔回答3〕前期難波宮は中国様式の宮殿であるが、上町台地の最も良い場所(北端部の高台)に造営されたものと考える。
すなわち井上さんは、前期難波宮は好適地に造営したら、結果として「北闕」型のようになっただけと考えておられることがわかりました。自説が成立するためには、そのように考えざるを得ないということかもしれません。わたしとしては、それはかなり無理な解釈と思うのですが、実はこの「無理な解釈」をせざるを得ないのは井上説だけではなく近畿天皇家一元史観の論者が共通して持つ難問でもあるのです。(つづく)