2017年07月09日一覧

第1447話 2017/07/09

九州年号「継躰」建元1500年記念

 昨日の久留米大学公開講座では雨の中を百名ほどのご来場者がありました。演題は「失われた倭国年号《大和朝廷以前》 日本最古の条坊都市、太宰府から難波京へ」で、今年が日本最初の年号「継躰」が建元されて1500年になること、建元したのは九州王朝の倭王で恐らく久留米出身の磐井であることを説明しました。特に建元と改元の語義から、大和朝廷の建元は「大宝」と『続日本紀』に記されており、『日本書紀』の大化・白雉・朱鳥はいずれも改元とされていることから、それらは大和朝廷の年号ではなく九州王朝により改元された九州年号であることを力説しました。そして、一元史観はこの『日本書紀』と『続日本紀』に明確に記された「改元」「建元」表記を説明できないでいると指摘しました。
 後半は、太宰府が日本最古の条坊都市であること、前期難波宮が質的にも規模的にも近畿天皇家の宮殿の発展段階とはかけ離れており、九州王朝の副都であるとする説を紹介しました。
 今回の講演では参加者からの質問のレベルが高く、しかも多元史観・古田史学の本質にもかかわるものでしたので、感心しました。それはつぎの三つの質問です。

〔質問1〕近年、箸墓古墳が卑弥呼の墓とされ、編年が古くされてきたが、従来の編年の方が妥当ではないか。
〔質問2〕九州王朝から大和朝廷への連続性はどのように考えられているのか。
〔質問3〕前期難波宮で全国に評制が敷かれたと思うが、それまでの地方豪族支配から律令官制による中央集権的な支配へは簡単には進まないと思われ、前期難波宮の時代はその中間的な支配形態と捉えた方がよいのではないか。

 これらの質問に対して、わたしからは次のように返答しました。

〔返答1〕畿内の古墳編年については詳しくないが、学問的調査の結果、箸墓の年代が変わるのであれば問題ないが、卑弥呼の墓にするために根拠もなく古く編年されているのであれば、それは学問的ではない。
 そもそも「邪馬台国」畿内説は学説の体をなしていない。学説とは学問的根拠(文献・出土物等)に基づいて、その解釈として提起される仮説のことだが、「邪馬台国」畿内説の根拠とされる『三国志』倭人伝には「邪馬台国」の場所を畿内とする記事はない。たとえば、今のソウル付近(帯方郡)から女王国まで12000余里と記されており、当時の1里が何メートルかわかれば、小学生でもかけ算で場所が推定できる。1里約76mの短里では博多湾岸付近であり、奈良県には絶対に届かない。漢代に使用された約450m(正確には約435m)の長里であれば、九州も奈良県も通り越してはるか赤道付近となってしまう。従って、「邪馬台国」を畿内とする根拠が倭人伝にはない。更に言えば原文は邪馬壹(やまい)国であり、「邪馬台(やまたい)国」ではない。邪馬壹国ではヤマトと読めないから「邪馬台国」と自説にあうようにデータ改竄するのは研究不正であり、理系では絶対に許されない方法である。だから「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説)ではない。

〔返答2〕九州王朝から大和朝廷への権力交代に関する研究は現在も続けられており、古田学派内でもまだ結論を得ていない。たとえば中国のような禅譲や放伐だったのかという論争も行われてきた。
 考古学的にわかっていることは、王朝交代が起こった701年を境に出土木簡が全国一斉に「評」から「郡」に変わっている。このことから、戦争により徐々に九州王朝の支配地域を浸食したというよりも、何らかの「合意」が両者に成立していたため全国一斉に「郡」に変更されたと考えている。『日本書紀』の記述も中国の禅譲・放伐の概念とは異なっており、前王朝の存在を伏せて、近畿天皇家は天孫降臨以来の伝統を持つ九州出身であり、神武以来日本を代表する王朝であるとしている。
 『日本書紀』成立当時、周囲の有力豪族たちは当然九州王朝のことは知っており、新たな権力者となった近畿天皇家はそうした状況下で九州王朝の権威を引き継ぎ、実は自らが昔から代表王朝だったとする歴史像を造作するため『日本書紀』を編纂・流布したものと考えられる。このテーマは引き続き論争が続けられると思うし、学問はそうした論争により発展する。

〔返答3〕ご指摘の可能性もあるが、考古学的出土事実から見ると、前期難波宮の北西側の谷から「漆」が大量に廃棄されていることが発見された。これは律令制における大蔵省配下の「漆工房」がこの付近に置かれたと推定されている。同じく律令制下の平城京にも同様の位置に「漆工房」があったことが知られており、両者の一致から前期難波宮の時代には律令制が機能していたと考えてもよいように思われる。前期難波宮と九州王朝律令については不明なことが多く、これからの研究課題である。

 以上のような質疑応答がなされ、講演したわたしもとても勉強になりました。終了後は聴講されていた犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)と吉田正一さん(久留米地名研究会・会員、久米八幡宮・宮司、菊池市)と三人で食事をご一緒し、夜遅くまで古代史談義を続けました。とても楽しく有意義な一夕でした。久留米大学の大矢野先生・福山先生をはじめ公開講座運営スタッフの皆様に御礼申し上げます。


第1425話 2017/06/17

7世紀前半の寺院が近畿に集中する理由

 本日の「古田史学の会」関西例会も先月に続いてi-siteナンバではなくドーンセンターで開催されました。これからも会場が変更されることがありますので、お間違えなきよう。

 今回も充実した発表が続き、そのため質疑応答が長引き、司会進行の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からご注意をいただいたほどです。特に感心したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された、7世紀前半の寺院が近畿に集中する理由についての新仮説と「飛鳥時代」建立と推定された寺院遺跡出土軒丸瓦の一覧(A4 10頁、81寺)でした。個別の報告書や写真ではそれら寺院の出土軒丸瓦の多くは見たことがあるのですが、改めて一覧表にされて提示されると、7世紀前半とされる寺院が圧倒的に奈良県を中心に分布することが一目瞭然となるのです。

 服部さんによる分類では「素弁軒丸瓦」が出土する「飛鳥時代」の寺院と見なせるものは69寺あり、その分布は次の通りです。
福島2・東京1・千葉3・埼玉1・群馬1・長野1・岐阜1・福井1・愛知6・三重2・奈良26・京都2・大阪13・兵庫1・岡山1・広島2・香川2・愛媛2・大分1、計69寺。

 今後の調査により、この数字は変化すると思いますが、奈良や大阪に濃密分布するという傾向は変わらないのではないでしょうか。この考古学的事実こそ、わたしが提起した次の「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今回の服部さんの発表は、この《二の矢》に果敢に挑戦されたものです。質疑応答では瓦の編年精度や妥当性、地域差をどのように見るかなど多岐にわたりました。これからの研究の進展が期待されます。

 6月例会の発表は次の通りでした。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんに発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①出土遺物の考察(犬山市・掛布広行)
②国家仏教の伝来(八尾市・服部静尚)
③今城塚古墳と岩手や真子分、阿蘇ピンク石(茨木市・満田正賢)
④双鉤填墨(奈良市・水野孝夫)
⑤倭国年号史料(古代逸年号)の基礎的検討(神戸市・谷本茂)
⑥「草津」の地名(京都市・岡下英男)
⑦フィロロギーと古田史学【その3】(吹田市・茂山憲史)
⑧「佐賀なる吉野」に行幸した天子とは誰か(下)(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
6/18会員総会議案等の説明・年間活動報告・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会と懇親会(エルおおさか)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(6/23「盗まれた万葉集」正木裕さん)・『古代に真実を求めて』21集企画案検討中・『古田史学会報』投稿要請・「古田史学の会」関西例会7月会場の件(ドーンセンター、京阪天満橋駅近く)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)、東京(10/15)で開催・その他