2017年08月一覧

第1489話 2017/08/30

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』

  出版記念大阪講演会のご案内済み

 「古田史学の会」編集の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集、明石書店)出版記念大阪講演会を開催します。日時・会場等は下記の通りです。
 今回の大阪講演では初心者向けの古田史学入門編を中心にテーマを三人で分担して設定しました。特に正木さんの講演内容は古田史学のエッセンスと最新研究テーマにまで及ぶとても良いものとなっています。「古田史学の会」会員にも興味を持ってお聞きいただけるものと思います。

○日時 9月9日(土)午後1時開会
○会場 福島区民センター(図書館と同じビル)3階会議室
 地下鉄千日前線・野田阪神駅7番出口徒歩4分 阪神野田駅改札左手西へ徒歩4分、JR環状線・野田駅徒歩8分、JR東西線・海老江駅徒歩5分。
○講師・演題
①古賀達也(古田史学の会・代表)
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》 教科書が教えない年号の秘密」
②服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長)
「倭国年号建元前夜」
③正木 裕(古田史学の会・事務局長)
「王朝交代 -倭国から日本国へ-」
○主催:古田史学の会 後援:福島区歴史研究会
○参加費(資料代) 500円


第1488話 2017/08/26

須恵器窯跡群の多元史観(1)

 このところ太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸須恵器窯跡群(大野城市・他)に興味を持って、須恵器窯跡群について勉強を続けています。古代において代表的で最大規模の須恵器窯跡群として堺市の陶邑窯跡群は有名ですが、それに次いで規模が大きいのが愛知県名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群とされています。これらは三大須恵器窯跡群遺跡とも称されており、古代(古墳時代〜)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させます。
 とりわけ陶邑窯跡群は近畿の巨大古墳群を造営した権力者に須恵器を供給していたのですが、このことが大和朝廷一元史観の考古学的根拠の一つとなっています。さらに一元史観によれば陶邑窯跡群から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようです。その上で、陶邑窯跡群出土須恵器の編年がそのまま各地域の須恵器編年に援用されています。
 九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したと考えたいところです。規模も北部九州の窯跡群が最大規模であってほしいところですが、現在の発掘結果では堺市等の陶邑窯跡群が最大です。
 九州王朝や近畿天皇家の中枢領域にそれぞれ巨大窯跡群が存在することを考えると、東海の猿投山窯跡群にも対応すべき九州王朝や近畿天皇家に匹敵する権力者がいたと考える必要がありそうです。(つづく)


第1487話 2017/08/25

7世紀の王宮造営基準尺(3)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について、最も信頼性が高い数値が藤原宮の基準尺(1尺29.5cm)です。一寸刻みの目盛りを持つ物差しが出土したことと、遺構の設計数値がその物差しと一致していることにより、その信頼性が得られました。その物差しと設計基準尺について、木下正史著『藤原京 よみがえる日本最古の都城』(中公新書、2003年)には次のように紹介されています。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長29.5センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使用されたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが29.5センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」(84ページ)

 藤原宮は出土干支木簡の年代から680年頃から造営が始まったことが判明しており、当時の近畿天皇家(天武期)の公式な基準尺が1尺29.5cmであることがわかります。
 前期難波宮(652年)が1尺29.2cm、大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃)が1尺約29.6〜29.8cmであることから、7世紀において、基準尺が少しずつ大きくなっているようです。この変化がどのような理由によって起こったのかはまだわかりませんが、九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代期に何らかの事情により、基準尺にも変化が生じたのではないでしょうか。(つづく)


第1486話 2017/08/24

大阪歴博で市大樹さんの講演会

 木簡研究で優れた業績を発表された市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)について、「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」にて紹介しました。
 『日本書紀』孝徳紀の白雉改元(650年2月)の儀式が行われた宮殿を前期難波宮とする新説を市さんは発表されたのですが、そのことを講演されるようです。前期難波宮(通説では難波長柄豊碕宮)の完成は孝徳紀白雉三年(652年9月)と記されており、その二年以上前に白雉改元の儀式が前期難波宮で行われるとは考えにくいと思うのですが、上町台地で大規模な改元儀式が行える場所は前期難波宮(法円坂)以外にはありません。そのため、市さんは650年には改元儀式が行える程度には工事が進んでいたとされました。
 わたしは『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉は2年のずれがあり、九州年号の白雉元年(652年)であれば、その年に完成した前期難波宮での改元儀式は可能と考えています。すなわち、九州王朝説と九州年号の実在を認めれば、前期難波宮の完成と白雉改元儀式の年が一致し、市さんのように完成の2年前に改元儀式を行ったという無理な解釈にはしらなくてもすむのです。講演会で質疑応答ができれば、この点をお聞きしたいと思います。
 最後に大阪歴博ホームページの講演会の案内を転載します。前期難波宮が一元史観の通説ではどのように位置づけられているのかがよくわかりますので、ご参照ください。

【転載】
特集展示「新発見!なにわの考古学2017」関連行事
「大阪の歴史を掘る2017」講演会
 市 大樹氏講演
孝徳朝における難波の諸宮

 特集展示「新発見!なにわの考古学2017」の関連行事の一つとして9月23日(土・祝)に「大阪の歴史を掘る2017」講演会を開催します。
 今回は、大阪大学大学院文学研究科 准教授の市 大樹氏にご講演いただきます。前期難波宮が孝徳天皇の造営した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に相当することは、現在ほぼ受け入れられています。しかし『日本書紀』をひもとくと、孝徳朝には難波の諸宮として、子代離宮(こしろのかりみや)・蝦蟇行宮(かわずのかりみや)・小郡宮(おごおりのみや)・難波碕宮(なにわさきのみや)・味経宮(あじふのみや)・大郡宮(おおごおりのみや)なども登場し、問題はかなり複雑です。この講演では、難波長柄豊碕宮に軸を据え、他の諸宮との関係を探ります。
 また、当館の村元健一が、特集展示「新発見!なにわの考古学2017」で展示する大阪市内の発掘調査の成果を紹介します。注目される調査には喜連西(きれにし)遺跡の古墳時代初頭の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、後期難波宮の官衙(かんが)、住吉行宮(すみよしあんぐう)跡の堀と思われる中世の大規模な溝があります。昨年の発掘調査から何が明らかになったのかを考えます。

主催 大阪歴史博物館
日時 平成29年9月23日(土・祝)
   午後1時30分〜4時30分(午後1時より受付)
会場 大阪歴史博物館 4階 講堂
内容
「平成28年度 大阪市内の発掘調査」
     村元健一(当館学芸員)
「孝徳朝における難波の諸宮」
     市大樹 氏(大阪大学大学院文学研究科 准教授)

定員 250名(当日先着順)
参加費 500円
参加方法 当日直接会場にお越しください


第1485話 2017/08/21

牛頸遺跡大型須恵器窯跡の質疑応答

 「洛中洛外日記【号外】2017/08/20」にて、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から教えていただいた「大野城市牛頸遺跡から大型須恵器窯跡発見」のニュースを紹介しました。太宰府に須恵器を供給していた九州最大規模の牛頸窯跡群遺跡(大野城市・春日市・太宰府市)の小田浦窯跡遺跡から大型須恵器窯跡発見の報告が大野城市ホームページで閲覧可能とのことで、わたしも拝見しました。
 そして、大野城市ホームページを介して次の質問を出したところ、翌日には丁寧なご返答をいただきましたので、紹介します。

《質問1》「1・2号窯で7世紀前半ごろの須恵器と一緒にまとまった量の瓦が見つかっている」とのことだが、どんな瓦か? 編年は可能か?
《回答》軒丸・軒平瓦は出土していません。大部分が丸瓦・平瓦で構成され、凸面は平行タタキ、凹面は布目痕(+同心円文当具痕の資料を含む)が基本となっています。当窯跡資料だけでの編年は困難だと考えています。

《質問2》「7世紀前半頃の須恵器」とは様式は何か?
《回答》瓦が出土した窯(2号窯)の須恵器は、小田富士雄編年(北部九州で一般的に利用する編年)で1VB期にあたります。近畿地方で類似した土器相としては、中村浩編年のⅡ型式5段階が挙げられます。年代観は、小田先生に準拠したものです。

《質問3》正式な報告書はいつごろ発刊されるか?
《回答》2007年(平成19年)3月に刊行しています。図書名は『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(大野城市文化財調査報告書第73集)です。大学や研究機関、自治体に配布しておりますので、ご参照ください。また、九州国立博物館の関連サイト「西都太宰府」の中、「資料ライブラリー」にPDF版が掲載されています。合わせてご案内申し上げます。
 不明な点などございましたら、ご連絡ください。
 今後ともよろしくお願いいたします。
         大野城市ふるさと文化財課
             林 潤也

 以上のような懇切丁寧なご返答をいただきました。研究者として、とてもありがたいことです。現在、ご教示いただいたサイトの資料を精読しています。発見がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。


第1484話 2017/08/20

7世紀の王宮造営基準尺(2)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について現時点でわたしが把握できたのは次の通りですが、この数値の変遷が何を意味するのかについて考えてみました。

(1)太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(726年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺のうち、わたしが九州王朝のものと考える三つの遺構の基準尺は次のような変遷を示しています。

①太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm
②前期難波宮(652年) 1尺29.2cm
③大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm

 7世紀初頭頃に造営されたと考えている太宰府条坊は「隋尺」(30cm弱)ではないかと思いますが、前期難波宮はそれよりも短い1尺29.2cmが採用されています。この変化が何により発生したのかは今のところ不明です。670年頃造営と思われる大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺の1尺約29.6〜29.8cmは「唐尺」と思われます。この頃は白村江戦後で唐による筑紫進駐の時期ですから、「唐尺」の採用は一応の説明ができそうです。
 ここで注目すべきは、前期難波宮の1尺29.2cmで、藤原京の1尺29.5cmとは異なります。従って、こうした両王都王宮の設計基準尺の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する事実と思われます。同一王朝の同一時期の王都王宮の造営基準尺が異なることになるのですから。(つづく)


第1483話 2017/08/19

興味津々、「流求國」は沖縄か台湾か

 本日の「古田史学の会」関西例会は久しぶりにI-siteナンバで開催されました。9月もI-siteナンバですが、10月・11月・12月はドーンセンターになりますので、お間違えなきよう。
 今回も発表希望者が多く、3名ほど後日となりました。学問的に重要な発表が続きましたが、中でも正木裕さんからの九州王朝にペルシャ人(覩貨邏国)が渡来していたという発表には驚きました。また、『隋書』の流求國が沖縄(正木さん)か台湾(谷本さん)かの討論もあり、とても興味深く拝聴しました。わたしは当問題についてあまり勉強していませんので、黙って聞いているだけでしたが、今のところ沖縄説がよいように感じています。『古田史学会報』での論争が期待されます。
 8月例会の発表は次の通りでした。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんに発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①古田先生の言素論を考える(八尾市・服部静尚)
②隋書国伝について(茨木市・満田正賢)
③『隋書』の「流求國」をめぐって(神戸市・谷本茂)
④『隋書』百済伝 耽牟羅國について(神戸市・谷本茂)
⑤観世音寺出土の川原寺同笵瓦について(京都市・岡下英男)
⑥住吉神社は「一大率」であった(奈良市・原幸子)
⑦『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の考察(犬山市・掛布広行)
⑧フィロロギーと古田史学【その5】(吹田市・茂山憲史)
⑨ニギハヤヒを考える 天孫降臨の年代観の確認(東大阪市・萩野秀公)
⑩九州王朝の南方諸島の状況と『日本書紀』(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)、福岡(10/08)、東京(10/15)で開催・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(8/25「日本書紀の絶対年代を疑う〜推古紀『遣隋使』をめぐって〜」谷本茂さん)・「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産推薦が決まる・『古田史学会報』投稿要請・「古田史学の会」関西例会9月会場(I-siteナンバ)、10月・11月・12月(ドーンセンター)の連絡・・「古田史学の会」新春講演会(2018.01.21、I-siteナンバ)の案内・その他


第1482話 2017/08/18

7世紀の王宮造営基準尺(1)

 古代中国では王朝が交代すると新たな暦を採用したり、度量衡も改定される例が少なくありません。わが国においても、九州王朝から大和朝廷に交代する際に同様の事例があるのではないかと考えてきました。そこで7世紀の基準尺を精査し、大宰府政庁や条坊、前期難波宮や藤原京の造営において変化があるのかについて関心を持ってきたところです。
 古田学派では九州王朝は中国南朝系の基準尺を採用してきたとする諸論稿が発表されてきました。近年では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が「古田史学の会」関西例会において、古代日本における基準尺について論じられています。わたしも「洛中洛外日記」1362話(2017/04/02)「太宰府条坊の設計『尺』の考察」において、九州王朝の基準尺について次の推測を述べました。

 ①6世紀以前、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用した。
 ②太宰府条坊都市から条坊設計に用いられた「尺」が推測でき、条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。「隋尺」か。
 ③条坊都市成立後、その北側に造営(670年頃か)された大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の条坊区画はそれよりもやや短い1尺29.6〜29.7cmが採用されており、この数値は「唐尺」と一致する。

 以上の推定に基づいて、考古学的調査報告書を中心に基準尺について調べてみました。調査の対象を国家公認の主要尺とするため、王都王宮の遺構としました。現時点でわたしが把握できたのは次の通りです。引き続き、調査しますので、データの追加や修正が予想されますが、この点はご留意ください。

(1)太宰府条坊(6〜7世紀) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(725年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺の数値は算出根拠が比較的しっかりとしており、信頼できると考えています。(つづく)


第1481話 2017/08/17

一元史観から見た前期難波宮(5)

 一元史観から見た前期難波宮として、この巨大宮殿を大和朝廷一元史観の研究者がどのように評価し、論じているのかを紹介してきました。本シリーズの最後に前期難波宮が日本古代史学界にもたらした学問的意義について説明します。その最たるものは、いわゆる大化改新論争への影響でした。
 『日本書紀』孝徳紀に見える大化二年(646)の改新詔について、歴史事実とする見解と『日本書紀』編者による創作であり大化改新はなかったとする説、そして両者の中間説として、大化改新に相当する詔は出されたが、その記事は8世紀の律令用語により脚色されているとする説がありました。どちらかというと大化改新はなかったとする説が有力視されていたようですが、前期難波宮の発掘調査が進み、その結果、学界の流れが大きく変化したのです。
 大化改新虚構説煮立たれている山尾幸久さんの論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化』133号、2007年)にも次の記述があります。

 「右のような『大化改新』への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、『現御神天皇』統治体制への転換を成し遂げた『大化改新』は、全く以て疑う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。」(11頁)

 大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られました。
 中尾芳治さんは、1986年発行の『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)で次のように記されています。

 「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」
 「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)

 このように、巨大な朝堂院様式の前期難波宮の存在が大化改新論争のキーポイントであることが強調されています。こうして、前期難波宮の出現は大化改新論争に決定的な影響を与え、孝徳期に前期難波宮を舞台に大化改新がなされたとする説が学界内で有力説となりました。
 古田学派内でも大化改新論争が続けられています。「古田史学の会」関西例会では『日本書紀』の大化二年条(646)に見える改新詔がその時期(九州年号の「常色」年間)に出されたものか、九州年号「大化」期(元年は695年)の「詔」が『日本書紀』編纂時に50年遡って転用されたものかについて、個別の「詔」ごとに論争と検討が続けられています。従って、「常色」年間の事件であれば前期難波宮がその舞台と考えられ、九州年号「大化」年間のことであれば舞台は藤原宮となり、このことについても論争が続けられています。
 最後に前期難波宮の巨大さを表現するために、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)はfacebookで前期難波宮の平面図を掲載され、その朝堂院の中に陸上の400mトラックがすっぽりと入ることを図示されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)も前期難波宮の面積を計算され、朝堂院だけで約5万平方メートルあり、東京ドーム1個が入り、まだ1万平方メートルほど余裕があるとのことです。更にこの朝堂院の他に内裏や八角殿、正殿なども前期難波宮は含んでいます。この壮大な規模を古田学派の研究者にも実感していただければと願い、本稿を執筆しました。(完)


第1480話 2017/08/16

一元史観から見た前期難波宮(4)

 ここまで一元史観の考古学者から見た前期難波宮の評価について説明してきましたが、今回は文献史学の碩学、直木孝次郎さんの見解を紹介します。
 「洛中洛外日記」668話(2014/02/28)「直木孝次郎さんの『前期難波宮』首都説」でも紹介したことがありますが、直木孝次郎著『難波宮と難波津の研究』(吉川弘文館、1994年)では前期難波宮を天武朝の副都ではなく、孝徳朝の首都であると論じられています。直木さんに限らず、近畿天皇家一元史観では、前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」としていますから、前期難波宮は「大和朝廷」の首都と当然のように見なしています。この通説の「前期難波宮」大和朝廷首都説を、直木孝次郎さんはその宮殿の規模・様式を根拠に次のように主張されています。

 「周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八堂に減省したのであろう。(中略)
 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。
 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。
 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)
 〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があることが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕)という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。」(112頁)

 この直木さんの、十二朝堂を持つ首都に対して、八朝堂の宮殿を副都とみなすという視点は注目されます。このように前期難波宮の巨大さが文献史学の研究者からも注目されていることがわかります。また、前期難波宮を孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と理解したときに避け難く発生する問題についても、直木さんは正直に「告白」されています。「孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれない」とされた箇所です。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったのです。
 近畿天皇家の宮殿の発展史からすると、前期難波宮の存在は説明困難な異常な状況なのです。皇極天皇の比較的小規模な飛鳥の宮から、次代の孝徳天皇がいきなり巨大な朝堂院様式の前期難波宮を造営し、その次の斉明天皇の時代にはまた小規模で朝堂院様式でもない飛鳥の宮に戻るという変遷が説明困難となるのです。そのため直木さんは「長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう」と考古学的根拠が皆無であるにもかかわらず、このような「言い訳」をせざるを得なくなっているのです。(つづく)


第1479話 2017/08/15

一元史観から見た前期難波宮(3)

 今回は視点を少し遡らせて、前期難波宮が摂津難波の地に造営された歴史的背景について、一元史観の考古学者はどのように出土事実を捉えているのかを紹介します。
 土器の専門家である寺井誠さんは「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(『大阪歴史博物館 共同研究成果報告書』7号、2013年)で6〜7世紀の難波について次のように説明されています。

 「難波は倭王権にとって長く外交の窓口としての重要な役割をはたしてきた。『日本書紀』には、中国や朝鮮諸国からの使節が到来する場面がしばしば登場する。難波には、外国の使節によってもたらされた「調」の検閲・記録や饗応儀礼を行ったりした「難波大郡」、使節を宿泊・休養させるための「館」が、外交関連施設として存在したことが記されている。(中略)
 難波ではまた、これを反映するかのように、朝鮮半島からの搬入土器が多く出土している(寺井2012bなど)。こうした土器は古代難波における外交を考えるための基礎的な物証となる可能性を秘めている。特に、これまで筆者が何度か指摘しているように、難波で確認できる朝鮮半島の土器のほとんどが難波遷都以前の段階のものである。難波宮が完成したにもかかわらず、何故に継続的に朝鮮半島から土器がもたらされなかったのか、素朴な疑問を抱く方も多いであろう。」(5頁)

 このように論文は書き始められているのですが、寺井さんは難波における『日本書紀』の外交関連記事と朝鮮半島土器の出土、すなわち史料事実と考古学的出土事実の一致という、実証的な視点で論述を進められます。
 この戦後実証史学の方法からは九州王朝説は片鱗も見えず、一元史観による説明をとりあえず可能としています。多元史観・古田学派の研究者は、この一元史観による「実証主義」をよく理解しておく必要があります。そうでないと「他流試合」を戦えないからです。“大阪市の考古学者など信用できない”というような非学問的な非難や態度は、「他流試合」では全く無力で無意味ですし、学問論争の体もなしていません。
 さらに寺井さんは考古学者らしく、次のような出土事実を提示されます。

 「まず、百済土器は、6世紀後半頃に遡る可能性があるものを含むと総数で10点程度出土している。6〜7世紀の日本列島では、管見による限り百済土器の出土例がきわめて少なく(寺井2012bなど)、これが当時の実体であるというなら、いかに難波に偏っているかわかるであろう。」(9頁)
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。(中略)
 このように朝鮮半島の搬入土器が難波に集中的に出土する背景としては、やはり難波に外交関連の施設が設置され、次第に外交の窓口として定着してきたことが考えられよう。土器の搬入は外交使節による場合もあったであろうし、文献には登場しないような来訪もあったと思われる。いずれにせよ、難波は朝鮮半島諸国と接する機会の多い場所であったことを反映しているのであろう。」(18頁)

 以上のように寺井さんは、摂津難波が6〜7世紀の日本列島内においてトップクラスの外交拠点であることを朝鮮半島からの搬入土器の出土事実(実証)と『日本書紀』の記述(実証)の一致から説明されています。これらの実証結果は九州王朝説を否定するものです。こうした戦後実証史学の成果に対して、わたしたち古田学派はどのようにして反論すべきかが問われているのです。(つづく)


第1478話 2017/08/13

和田家文書『北鑑』のデジタルデータ

 和田家文書の『北鑑』(きたかがみ)がデジタルデータ化され、インターネットで閲覧できるようになりました。藤田隆一さん(東京都)という方が作成されたとのことで、わたしも拝見したところ、現存する『北鑑』すべてが活字化されているようで、その解説も学問的に見て正確なものでした。ご参考までに解説部分を転載しておきます。
 今から20年ほど前に古田先生と青森県五所川原市の和田家を訪問し、『北鑑』も調査しましたが、今回、デジタル化されたものを読み、当時のことを思い出しました。所蔵者の和田喜八郎さんは『北鑑』のことを「ほっかん」と呼ばれていたのが印象的でした。
 このデジタルデータにより、『北鑑』の内容が把握でき、研究者にとってはありがたいことです。本格的な研究はやはり明治写本に基づいて行う必要がありますので、ご留意ください。『北鑑』のサイトは「古田史学の会」のHP「新・古代学の扉」にリンクされていますので、是非ご利用ください。

【『北鑑』サイトから転載】

北鑑の原本・写本について

 江戸・寛政期のころ、秋田次郎孝季(秋田住人)と和田長三郎吉次(津軽住人)によって集史・編纂されたとされます(存否・所在とも不明。今これを寛政原本と称する)。※秋田孝季とは?
 この原本を明治期に和田長三郎末吉・長作(青森県)という親子が書写しました(一次写本。青森県弘前市の竹田侑子宅に所在。今これを明治写本と称する)。昭和末期〜平成初期に、それを藤本光幸さん(青森県)が原稿用紙に書き起こしました(二次写本)。平成28年、藤田隆一さん(東京都)が二次写本を使って、テキスト入力(ワード文書)しました(三次写本)。

注意点

 読み物として普通に読む場合には、特に問題はありません。ただ、江戸期(及びそれ以前)の文献として研究する場合には、少し注意が必要です。

1.原本を正確に写しているとは限らない。市井の庶民による書き継ぎなので「誤写」「文法ミス」などが想定される。
2,明治写本では、原本の漢文を読み下しに直しているものが多く、正しく翻訳されているか不明である。
3.明治写本では、末吉等が「自から執筆した文章」も追加されているので、注意が必要。
4.主に東北地方で記述された資料なので、方言的表記も散見されます。
5.明治写本には多くの「絵・画像」が挿入されているようですが、二次写本以降では、それをほとんどカットしています。