須恵器窯跡群の多元史観(2)
一元史観によれば畿内の陶邑窯跡群(堺市・他)から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようですが、須恵器の勉強を続けていると面白い事実を発見しました。それは国内最古の須恵器生産地は九州の窯跡のようなのです。
九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したのではないかと考えられ、初期の須恵器窯跡遺跡について文献調査したところ、次のような記述がありました。
「北九州地域では、初期須恵器か陶質土器かで議論を呼んでいた古寺・池の上墳墓群(朝倉市:古賀注)出土の遺物がまず注目される。初期須恵器と陶質土器(朝鮮半島産の土器:古賀注)が混在する状況があり、その評価をめぐって見解が分かれていた。すなわち舶載の可能性を含めたものと、すべて国産とするものであり、後者は、さらにその前後関係をも問題にしている。
しかし、これらの遺物のうち、陶質土器は、近接して所在する小隈・山隈・八並窯跡群で生産されたものと考えられるにいたり、やがて、この点の決着もつくものと期待されている。
またこのほか、筑紫野市内でも窯跡が相次いで見つかっている。これらから、従来の初期須恵器あるいは陶質土器の産地および流通などに関して再検討が必要となってきている。
したがってこの点、結論を出すには早計であるが、九州地域の初期須恵器あるいは陶質土器の流通は、必ずしも畿内とのかかわりを考慮しないで考えるほうがよいかもしれない。今後は、当該地域における生産活動が、いったいいつ畿内の体制に組み込まれるのか、あるいは、組み込まれないのかなど問題が発展していくものと考えられる。」中村浩『須恵器』34〜35頁(1990年、柏書房)
北部九州の朝倉市の初期須恵器窯跡群が畿内の陶邑窯跡群とは無関係に成立していたと考えたほうがよいとする記述ですが、いまひとつ何が言いたいのか素人にはよくわかりません。そこで、更に文献調査したところ、次の記述を見つけました。
「ところで、福岡県小隈窯跡については、最近の調査によって『窯跡の範囲を把むことができ、その数は、さらに数基に及ぶことが想定』されるにいたっている。また灰原から池の上Ⅱ、Ⅲに相当する遺物が『灰原から一括遺物として取り上げ』られている。従来これらの遺物は、陶質土器と呼称されており、国産品であることが明らかとなった上は、報告者が『これらの遺物を須恵器として報告』したことに賛意を表する。
さらにこれらの製品が供給されていたと見られる古寺・池の上墳墓群の調査報告から判断すると、この確認によって当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている。しかし当該墳墓群出土遺物についても必ずしも一致しておらず、問題を残している。」中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』67〜69頁(1993年、柏書房)
須恵器研究の第一人者である中村浩さんによる、朝倉市出土の「当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている」という指摘は貴重です。朝鮮半島からもたらされた須恵器生産技術が距離的に近い北部九州でまず受容されるのは、多元史観・一元史観を問わず普通に納得できることですが、それでも一元史観の論者には「不都合な真実」かもしれません。ご紹介した両書は今から20年ほど前の発行ですから、引き続き最新情報についても調査と勉強を進めます。(つづく)