須恵器窯跡群の多元史観(4)
朝鮮半島から陶質土器がもたらされ、初期須恵器が国内各地で造られたました。その初期須恵器窯跡の分布を見て、不思議なことに気づきました。初期須恵器窯は福岡県朝倉を筆頭に大阪府の陶邑窯や吹田窯、そして名古屋の東山窯など西日本に主に分布しているのですが、東日本には関東を飛び越えて仙台の大蓮寺窯が発見されています。これは実に不思議な分布状況ではないでしょうか。
この大蓮寺窯跡は東北地方最古の須恵器窯跡とされ、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と編年されています。今後は関東からも初期須恵器窯跡が発見されるかもしれませんが、大蓮寺窯跡は陶邑窯跡の流れとする説や朝鮮半島から直接この地にもたらされた可能性を指摘する説があります。いずれにしても、大和朝廷一元史観による従来の解釈、すなわち陶邑に伝わった須恵器製造技術が日本各地に伝播したとする一元説では説明しにくく、多元的に国内各地に初期須恵器窯が成立したとする理解が有力説として登場しているようです。
しかし、わたしの目から見るとこの初期須恵器窯多元説でも、なぜ東北地方の仙台にいち早く伝わったのかという説明がなされておらず、大和朝廷一元史観に基づく解釈を常とする考古学界の限界を感じます。古田史学・多元史観によりこの分布状況を解釈すれば、古墳時代中期において列島各地に多元的に王朝・王権が存在しており、まず九州王朝に伝わった須恵器製造技術が各地の王権に伝播したと理解するのが穏当と思われます。そのように考えると、近畿の王権(近畿天皇家あるいは冨川ケイ子さんが提唱された「河内王朝」)へ伝わったのが陶邑窯跡群であり、蝦夷国に伝わったのが仙台市の大蓮寺窯跡ではないでしょうか。
この考えを更に敷衍すると、その論理展開として埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘等に代表される関東王朝の地からも初期須恵器窯跡が発見されるのではないかと考えています。すなわち初期須恵器窯多元説とは多元史観(多元的王朝の成立)を前提とした考古学的理解なのです。(つづく)