2018年02月一覧

第1615話 2018/02/28

「邪馬台国」畿内説の論理(3)

 「邪馬台国」畿内説は①の考古学的事実に基づく実証を、②の文献根拠と結びつけるという、③の「離れ業」により「成立」しているわけですから、反論や批判の方法としては次のアプローチが考えられます。

(a)箸墓古墳の編年を3世紀中頃ではなく、従来通り4世紀であることを考古学的に証明する。あるいは、3世紀中頃ではあり得ないことを証明する。
(b)『三国志』倭人伝の史料批判を根拠とする文献史学の立場から、「邪馬台国(正しくは邪馬壹国)」は畿内ではあり得えず、文献を「邪馬台国」畿内説の根拠とできないことを考古学者に解説する。
(c)畿内の巨大前方後円墳と『三国志』倭人伝の中心国の邪馬壹国を関連付ける学問的根拠がないことを説明する。あるいは関連しているとする根拠の明示を求める。
(d)文献史学における「邪馬台国」畿内説が原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、壹与→台与、南→東)の所産であり、理系では許されない方法(研究不正)であることを古代史学界と社会に訴える。

 このようなアプローチが考えられますが、わたしたち古田学派は「邪馬台国」畿内説の考古学者を説得するのか、文献史学の分野で論争を続けるのか、その双方を行うのか、最も効果的なやり方を自らの力量も含めて考えなければなりません。(つづく)


第1614話 2018/02/28

「邪馬台国」畿内説の論理(2)

 安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)からご説明いただいた、次の「邪馬台国」畿内説支持の考古学者の論理のうち、わたしが賛成できるのは④だけですが、最も強力な論点①について、もう少し詳しく説明します。

①3世紀中頃の箸墓古墳などの初期前方後円墳が畿内で発生しており、このことは日本列島内で最大級の王権がこの地に存在したことを示している。(考古学的実証)
②当時の列島内の代表的権力者は、文献では「邪馬台国」である。(文献史学的実証)
③したがって畿内の王権に対応する文献的痕跡は「邪馬台国」である。すなわち、畿内説は文献と考古学とが対応して成立している。(考古学〔出土事実〕と史料〔伝承〕が一致。すなわち「シュリーマンの法則」が成立)
④ただし学問の性格上、考古学だけでは畿内の王権が誰であったかは判明しない。

 ①の主張はただ単に箸墓古墳の被葬者を卑弥呼か壹与とするにとどまらず、畿内で発生した前方後円墳が全国に伝播したと理解し、この現象を大和朝廷による全国支配の痕跡と見なす一元史観の考古学的根拠とされています。特に河内の巨大前方後円墳の出現こそ、大和朝廷が日本列島の代表王朝であったとする根拠とされていることは、「九州王朝説に刺さった三本の矢」でも指摘してきたところです。
 この論理性によれは、仮に「邪馬台国」が北部九州にあったと、文献史学の成果(倭人伝の史料批判)を根拠に考古学者たちが認めたとしても、畿内で誕生した「大和朝廷」の祖先たちが巨大前方後円墳を造営し、後に全国制覇したとする一元史観は成立します。列島内最大規模で多数の前方後円墳が大和や河内に厳然と存在するという考古学的事実とそれに基づく「戦後実証史学」が強固な「岩盤規制」となって、わたしたち古田学派の前に立ちはだかっているという現実は認めざるを得ないのです。(つづく)


第1613話 2018/02/27

「邪馬台国」畿内説の論理(1)

 2月23日に開催された「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)で講演された安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)と講演会後の懇親会でお話しする機会があり、「邪馬台国」畿内説支持の考古学者の論理が次のようなものであることをご説明いただきました。

①3世紀中頃の箸墓古墳などの初期前方後円墳が畿内で発生しており、このことは日本列島内で最大級の王権がこの地に存在したことを示している。(考古学的実証)
②当時の列島内の代表的権力者は、文献では「邪馬台国」である。(文献史学的実証)
③したがって畿内の王権に対応する文献的痕跡は「邪馬台国」である。すなわち、畿内説は文献と考古学とが対応して成立している。(考古学〔出土事実〕と史料〔伝承〕が一致。すなわち「シュリーマンの法則」が成立)
④ただし学問の性格上、考古学だけでは畿内の王権が誰であったかは判明しない。

 おおよそこのような説明があり、「邪馬台国」畿内説が「戦後実証史学」の「成果」に立脚していることがわかりました。この①〜④の論点で、わたしが賛成できるのは④だけですが、①の考古学的実証による根拠は、九州王朝説・多元史観に立つ、わたしから見ても強固な立脚点です。「戦後実証史学」の最も強力で説得力を有するこの論点は、わたしが「九州王朝説に刺さった三本の矢」と称したものの一つでもあります。この「三本の矢」については「洛中洛外日記」1221〜1254話の中で詳述していますので、「古田史学の会」ホームページでご覧ください。(つづく)


第1612話 2018/02/23

多元史観・九州王朝説による時代区分

 現代日本の歴史学(戦後型皇国史観)において使用されている古代の時代区分「(新・旧)石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」などに代わり、多元史観・九州王朝説に基づく新たな時代区分と名称を考えるため、論点整理して試案を述べます。古田学派の皆さんによる論議検討の叩き台にしていただければ幸いです。

 まず、九州王朝から大和朝廷への王朝交代を明確に区分するために701年を境にして、倭国時代(九州王朝時代)と日本国時代(大和朝廷時代)という区分と名称がわかりやすいと思います。この点は古田学派の多くの研究者の賛同もいただけるのではないでしょうか。この史料根拠としては『旧唐書』倭国伝・日本国伝などがあります。

 問題は倭国時代以前と倭国時代内の区分です。倭国時代(九州王朝時代)の開始は「天孫降臨」(紀元前2〜3世紀頃か)とできますが、それ以前は「出雲王朝時代」が今のところ穏当のよう思います。「出雲王朝時代」には石器・木器・青銅器時代が含まれ、かなり長期間のように思われます。それ以前は具体的王朝名などが未詳ですので、とりあえず使い慣れた「縄文時代」を用いるのがよいかもしれません。今後、縄文時代の研究が進展し、具体的な権力中枢や王朝名がわかれば、それに対応した時代区分と名称を付けることができるかもしれません。

 次いで検討が必要なのは倭国時代(九州王朝時代)の細分化です。この時代には、現在使用されている「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」が含まれていますから、それらとある程度対応でき、その時々の九州王朝の実態を表す適切な小区分化と命名ができれば九州王朝史を理解する上で便利と思います。従来のようなお墓の規模や様式、首都所在地で分ける以外にも、王朝の形態や象徴的な文化区分で分ける方法がありそうですが、試案としては次のような視点があります。

①中国南朝の冊封体制下か独立王朝か。名称の一例としては「冊封時代」「独立時代」などがあります。時期としては、九州年号を建元した6世紀初頭後が「独立時代」、志賀島の金印授受以後から6世紀初頭頃までが「冊封時代」となりそうです。
②行政区画で分けるのであれば、7世紀中頃以後の「評制時代」、それ以前の「県(あがた)時代」という方法もあります。ただし、「県(あがた)時代」の開始時期が不明です。
③首都や中枢地域で区分するのであれば、天孫降臨から4世紀頃までの「糸島・博多湾岸時代」あるいは「筑前中域時代」。「倭の五王」時代の「筑後時代」(古賀説による)。太宰府遷都(倭京元年。618年)後の「太宰府時代」あるいは「倭京時代」。難波副都に権力中枢が移動した時期(652〜686年)の「難波京時代」あるいは「白雉・白鳳時代」(古賀説による)。難波京焼亡後から九州王朝滅亡までの「大宰府政庁時代」(正確には大宰府政庁Ⅱ期時代)。

 以上、思いつくままに記してみました。古田学派内での論議検討を経て、もっとも相応しい区分や名称が受け入れられることと思いますので、この試案には全く拘りません。自由に批判論争してください。


第1611話 2018/02/22

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(4)

 今回の比恵遺跡群からのすずり出土報道には、「邪馬台国」畿内説にあわせる為にその時代を「古墳時代」に変更するという非学問的な問題とともに、もう一つの学問の本質に深く関わる問題があります。それは「弥生時代」とか「古墳時代」という時代区分の名称の付け方に関する問題です。
 現代日本の歴史学において、古代の時代区分として、「(新・旧)石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」などという区分名が一般的に使用されています。現時点でこれらを見ると、その名称に材質(石)が使われたり、土器の文様(縄文)、土器出土地名(弥生)、お墓の形式(古墳)、そして権力者の所在地名(飛鳥・奈良)が使われたりと、統一性も一貫性も全くありません。こうした「雑多」な区分名に対して、古田先生は九州王朝説や多元史観に基づく新たな時代区分の命名が必要と考えられていました。
 もちろん、学問の発展段階や人間の認識の発展段階にはその時々に多くの制約がありますから、その時点では学者たちが考え抜いて命名し、徐々に学界や社会に受け入れられ定着したことを疑えません。ですから、時代区分名が雑多で一貫性が無くても、そのこと自体は責めることができないと思います。しかし、現在の学問水準、すなわち多元史観・九州王朝説という画期的な学説が登場したからには、少なくともわたしたち古田学派は「戦後型皇国史観」時代に使用された名称に代わる、「多元史観」時代にふさわしい時代区分名称を検討提案しなければならないと、わたしは考えています。今回のすずり出土記事が、この学問の本質にも関わる重要問題を考えるきっかけになればと願っています。(おわり)


第1610話 2018/02/21

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(3)

 福岡市比恵遺跡群から出土したすずりの編年が新聞記事によれぱ3世紀後半とされ、「邪馬台国の時代」と紹介し、それを「古墳時代」としています。従来は「邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)」は弥生時代とされてきたにもかかわらず、今回の記事では「古墳時代」とされたのですが、そこには性格が異なる二つの学問上の重要な問題があります。そのことについて説明します。
 まず一つ目は、「邪馬台国」畿内説成立のために古墳の編年を変更するという問題です。『三国志』倭人伝によれば、倭国の女王、卑弥呼は3世紀前半に没しているようですから、3世紀後半であれば卑弥呼の次代の壹与が女王に共立された時期に相当します。もちろん従来の古代史学では両者とも弥生時代と認識されてきました。他方、畿内には弥生時代の倭国を代表するような王者にふさわしい墳丘墓がありませんでした。学界の多数説となっている「邪馬台国」畿内説論者にとって、この考古学的事実が自説に「不都合な真実」だったことは容易に想像できます。そこで彼らが目を付けたのが、初期の前方後円墳である箸墓古墳です。その編年を従来説の4世紀前半から3世紀前半〜中頃とすることで、箸墓古墳を卑弥呼あるいは壹与(台与)の墓と見なしました。
 そもそも「邪馬台国」畿内説というものは、日本列島の代表王朝(権力者)は弥生時代の昔から大和の天皇家であるというイデオロギー(戦後型皇国史観)を論証抜きで「是」と定め、それに合うように倭人伝の原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、南→東、壹与→台与、など)を行ったり、考古学的事実を恣意的に解釈するという、学問的には禁じ手の乱発で「成立」した学説です。このことは拙論「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房に収録。初出「洛中洛外日記」737〜744話)で詳述していますので、是非ご覧ください。
 こうして「古墳時代」の代表的初期前方後円墳の一つである箸墓古墳を「邪馬台国」の卑弥呼か壹与の墓と見なしたいがため、その時代を「古墳時代」としなければならなくなったのです。そして、各新聞社はそうした古代史学界・考古学界の「空気」を「忖度」して、3世紀後半と編年されたすずりの時代を「古墳時代」「邪馬台国の時代」とする、実に奇妙な新聞記事の出現となったのです。(つづく)


第1609話 2018/02/20

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(2)

 犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきた朝日新聞(2月17日)には、「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しですずり出土が報じられていました。読者の興味をひくための見出しと思われますが、それであれば本文中に何を書いたのかの解説があってしかるべきです。ところが、古代の博多にあった奴国が文字を使用していたと述べるにとどまる中途半端な記事となっています。
 朝日新聞社と言えば古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(初期三部作)を発刊し、日本古代史学界や古代史ファンに激震を走らせた会社です。その新聞記事の内容がこのレベルでは、朝日新聞も「地に落ちた」と言わざるを得ず、とても残念です。
 『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)でも紹介しましたように、古代日本列島において筑前中域(糸島博多湾岸)は、文字文化の先進地域です。『三国志』「魏志倭人伝」には次のように倭国の文字文化をうかがわせる記述が見えます。

「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」

 このように倭国やその中心国の邪馬壹国では「文書」による外交や政治を行っていると明確に記されているのです。福岡市の文化欄担当記者であれば、この程度の知識は持っていてほしいと思うのですが、無理な期待でしょうか。
 更に同記事では出土した福岡市を「奴国」としていますが、もしそうであれば「奴国」よりも上位で大国でもある邪馬壹国の地はどこだとするのでしょうか。この「奴国」とされた糸島博多湾岸よりも大量のすずりが出土した弥生時代や古墳時代の遺跡は他にあるのでしょうか。たとえば「邪馬台国」畿内説によれば奈良県の弥生時代の遺跡からもっと多くのすずりが出土し、文字文化の痕跡を示していなければなりませんが、同地の弥生遺跡からすずりの出土はありません。
 「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しで読者の興味を引くのであれば、こうした「答え」も記事に盛り込み、読者の知識の幅やレベルを高めることができます。そうした真の教養に裏打ちされた記事こそ、「クオリティーペーパー」と呼ばれるに相応しいものと思います。なお、公平を期すために言えば、このニュースを掲載した他の新聞も、その内容は朝日新聞と五十歩百歩です。(つづく)


第1608話 2018/02/19

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(1)

 今朝は仕事で岐阜に向かっています。好天に恵まれ、JRの車窓から金華山城(岐阜城)が美しく映えています。

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 肥後から「兄弟」年号史料を発見された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、福岡市博多区の比恵遺跡群で「邪馬台国」時代のすずりが出土していたことを報じる地元紙(西日本新聞、朝日新聞。2月17日)の切り抜きがメールにて送られて来ました。
 報道によると、この遺跡は3世紀後半と編年されており、「古墳時代」のすずりとしては初めての出土とのこと。記事では「邪馬台国」時代のすずりなどと紹介されていますが、その「3世紀後半」を「古墳時代」と記されています。もともと「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は弥生時代とされてきたのですが、近年の傾向として「古墳時代」と表記される例が見られるようになりました。新聞社もその学界の状況(空気)を「忖度」したものと思われます。この点、後述します。
 弥生時代のすずりは既に糸島市や筑前町など4遺跡から出土しており、この糸島博多湾岸が弥生時代の倭国の中心領域であり、女王俾弥呼(ひみか。『三国志』帝紀には「俾弥呼」。倭人伝には「卑弥呼」と表記)が統治した邪馬壹国の所在地であったことは古田武彦先生が指摘されてきた通りです。その地からすずりが出土したのですから、文字文化の先進地域であった直接証拠と言えます。この一点から見ても、「邪馬台国」論争は学問的には決着しています。このことをわたしは『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)で次のように指摘しました。当該部分を引用します。(つづく)

 文字文化が発展した「女王国」の中心部

 『魏志倭人伝』には、女王国の場所がある程度推定できる記述がいくつもあります。(中略)
 また『魏志倭人伝』には、朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸を経由して「邪馬壹国(女王国)」に至ったことが記されていますが、その最後に「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記述があります。しかし、畿内説を唱える人たちは、「ここで出てくる『南』は誤りで、本当は東だった」と『倭人伝』の記述に誤りがあったと主張しています。南だと都合が悪いから東に変えたわけですが、これも元々のデータを改ざんしたルール違反「研究不正」です。(中略)
 他にも、古田氏は北部九州で痕跡が見られる倭国の「文字文化」にも注目していました。『魏志倭人伝』には、「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」など、「女王国」が文字を使って外交や政治を展開したことをうかがわせる記述があります。そのため、弥生時代の遺跡や遺物からもっとも「文字」の痕跡が出土する地域が、「女王国(邪馬壹国)」の候補地だったと考えるのが妥当であると、古田氏は主張しました。
 そうした文字文化が出現する地域がどこかというと、北部九州や糸島博多湾岸(筑前中域)です。この地域からは志賀島の金印や室見川の銘板、最近では弥生時代の硯なども出土しており、『魏志倭人伝』の記述の裏付けにもなっています。(以下、略)


第1607話 2018/02/18

九州年号「兄弟」2例めを発見

 九州年号「兄弟」(558年)は、一年しか続いていないことや、「兄弟」という言葉が年号と認識されず、書写の際に消される可能性もあり、その実用例はわたしが発見した熊本市の健軍神社の創建史料などに見えるくらいでした(「洛中洛外日記」979話「健軍神社『兄弟元年創建』史料」1215話「健軍神社縁起の九州年号『兄弟』」)。ところが、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から、健軍神社とは別の新たな「兄弟」年号発見のメールが届きました。
 「熊本市史関係資料集第4集肥後古記集覧」に山鹿郡西牧村(現山鹿市西牧)の妙寛寺の釈迦堂草創を「三十代欽明天皇の御宇兄弟元戊寅年」とするものです。熊本市最古の健軍神社創建と共に、肥後(山鹿)に「兄弟」年号が残っていたことは示唆的です。九州王朝の「兄弟統治」に由来すると思われる「兄弟」年号は、筑前・筑後にいた倭王(兄・筑紫の翁)と肥後にいた弟(肥後の翁)の痕跡として、肥後地方に残っていたのではないでしょうか。
 肥後地方は古代から製鉄や馬の飼育が盛んであったことを示す考古学的遺物も数多く出土しています。その鉄と馬による軍事力・生産力を背景として、九州王朝(倭国)では倭王の弟を肥後の「国主」として配置していたのではないかと、わたしは推測しています。
 新たな「兄弟」年号を発見報告していただいた犬塚さんに感謝いたします。

【以下、犬塚さんからのメールを転載】
古賀様
 以前洛中洛外日記で熊本市の健軍神社の縁起に見える九州年号「兄弟」について紹介がありましたが、これとは別の史料に九州年号「兄弟」の記録がありましたのでお知らせします。
 「熊本市史関係資料集第4集肥後古記集覧」という史料集があります。これは熊本藩士であった大石真麿が文政四〜五年(1821-2)に、肥後に関する軍記・系図・地誌等55種を書写編集したものですが、この中に収録されている山鹿郡西牧村(現山鹿市西牧)の妙寛寺という寺院に関する記録のなかに「兄弟」年号が見られます。

 巻二十 中原雑記 山鹿郡西牧村
一、遠き事ハ委しらず近くして能知たる事計を少つゝ書記ス、西牧村小屋敷妙寛寺の釈迦堂は聞伝三十代欽明天皇の御宇兄弟元戊寅年の草創と云伝、末の世にて七十一代後三条院延久三辛亥ノ暦御再興、此時春日の作とやらん本尊釈迦像を立給ふと也(後略)
 寛文十三年癸丑年六月六日 中原氏記之

 この史料集にもう一つ、妙寛寺に関する同内容の記録が収録されています。

 巻十六 昔噺聞書
一、山鹿郡西牧村ノ妙寛寺ノ釈迦堂ハ釈迦堂は三十代欽明帝元年戊寅ノ御草創、七十一代後三条院延久三辛亥年御再興、此時春日ノ作本尊釈迦像ヲ立給ヘリ(後略)

 巻二十中原雑記と巻十六昔噺聞書の関係は不明ですが、ほぼ同内容の記録であることから共通の原史料から書写されたことが考えられます。
 同内容であるとすれば、巻十六昔噺聞書の「欽明帝元年」の干支は庚辰であって戊寅ではないことから、おそらく、この記録の書写の段階で原史料にあったと思われる「兄弟」だけが意味不明として削除され、干支がそのまま残されたのではないでしょうか。
 さらに「肥後国誌」には、西牧村の項で中原雑記を引用した形で紹介されています。しかし中原雑記を引用ているにもかかわらず、昔噺聞書と同様に九州年号「兄弟」を削除した形での表記となっています。

 妙寛寺跡 同書(中原雑記のこと)云山鹿郡西牧村字小屋敷ニ妙寛寺ト云ル寺アリ人皇卅代 欽明天皇元年戊寅ノ御草創(後略)

 これも「兄弟」がなければ干支は戊寅になりません。こちらも単純な削除のようです。
 ところで中原雑記によれば、その後妙寛寺は戦国時代庇護者であった隈部氏が没落したことから廃寺となったとされていますが、その廃寺跡はどうなったのでしょうか。山鹿市史別巻によれば、

 肥後国山鹿郡西牧村
 古迹 妙勧寺迹 本村の東字屋敷ニアリ欽明天皇戊寅年草創ト云フ 延久三年辛亥再興春日作ノ釈迦木像ヲ安ス(中略)今畑ト成リ石祠ニ釈迦ノ石造ヲ安ス
(山鹿郡誌抄)

 西牧釈迦如来坐像 浮彫。上津留の共同墓地の一画、石祠内に祀る。台石正面に「明寛寺」と横堀する。国郡一統志の「西牧妙寛寺釈迦」と符合するものがある。凝灰岩製、全高九〇。
 (山鹿市の石造物)

と、廃寺跡には共同墓地と釈迦如来坐像を収めた石祠あるということですから場所の特定は可能かと思われます。
 最後に、「国郡一統志」を確認したところ、「国郡寺社総録名蹟附 山鹿郡」の西牧の項に次のような記事がありました。

 西牧 天子森 妙観寺釈迦 阿弥陀 蓮照寺真宗

 天子森(又は天子)は山鹿郡の項に計6カ所出てきますが、森が杜であるとすればこれは天子宮のことなのでしょうか。天子宮が同じ地域にあるというのは実に興味深いところです。
 以上、山鹿市の九州年号「兄弟」に関するとりあえずの報告です。なお、肥後古記集覧と国郡一統志の該当部分を添付ファイルとしてお送りします。
   久留米市 犬塚幹夫


第1606話 2018/02/17

縄文土器の「イザナギ・イザナミ」神話

 本日、「古田史学の会」関西例会が大阪市福島区民センターで開催されました。関西例会としては初めて使用した会場です。今回は10名の発表があるため、冒頭に司会の西村秀己さんから「発表は質疑応答を含めて30分で行うこと。質問も長くなるものや余計なものはしないこと」と釘が刺されて例会が始まりました。これはいつも論議を長引かせるわたしへの「牽制」と思われました(苦笑)。
 今月発行の『古田史学会報』144号で会報デビューされたばかりの大原さんから驚愕の研究が報告されました。記紀に記されたイザナギとイザナミの神話の淵源が縄文時代に遡り、その痕跡が縄文土器にあったとするものです。新潟県井の上遺跡出土の「人体文土器」(縄文中期〜後期)にある男性と女性の図柄がイザナギとイザナミの神話を示しているとされました。驚くべき仮説ですが、根拠も論理性も明瞭な研究でしたので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。それにしても、すごい研究が現れたものだと驚きました。
 2月例会の発表は次の通りでした。発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①『日本書紀』の中の百姓(八尾市・服部静尚)
②住吉神社は「一大率」であった。の補足(奈良市・原幸子)
③短里の使用に関する一考察(茨木市・満田正賢)
④縄文にいたイザナミ・イザナギ(大山崎町・大原重雄)
⑤黒塚古墳と椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡(京都市・岡下英男)
⑥倭人伝・二十一国のありか(宝塚市・藤田 敦)
⑦伊都国の「世有王」の再考(姫路市・野田利郎)
⑧フィロロギーと古田史学【その9】(吹田市・茂山憲史)
⑨「アタ」の地の特定(東大阪市・萩野秀公)
⑩倭国(九州王朝)の新羅への白村江前の対応(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 1/21新春古代史講演会の報告・3/18久留米大学講演会の決定(講師派遣:正木、服部、古賀)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内、2/23安村俊史柏原市歴史資料館館長「七世紀の難波から飛鳥への道」・『古田史学会報』144号発行・会費入金状況・新入会員の紹介・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の編集状況・服部さんが和泉史談会で講演・1/28京都地名研究会(龍谷大学)で沖村由香さん(九州古代史の会・会員)講演・「古田史学の会」関西例会の会場3月はエル大阪(京阪天満橋駅西300m)・その他


第1605話 2018/02/15

『古田史学会報』144号のご案内

 『古田史学会報』144号が発行されましたので、ご紹介します。

 今号には出色の論文、正木さんの「多元史観と『不改の常典』」が一面を飾りました。古代史学界で永く論争が続き、未だ定説の出現を見ないテーマ、「不改の常典」を九州王朝説(九州王朝系近江朝説)から論じたもので、『日本書紀』や『続日本紀』に見える「定策禁中」をキーワードに、優れた仮説の提起に成功されています。今後、古田学派内で「不改の常典」を論じる際、この正木論文を避けては通れないでしょう。

 奈良市の原さん、大山崎町の大原さんは会報初登場です。いずれも「関西例会」での発表を投稿していただいたものです。これからも例会の常連や新人の投稿をお待ちしています。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』144号の内容
○多元史観と『不改の常典』 川西市 正木裕
○須恵器窯跡群の多元史観 -大和朝廷一元史観への挑戦- 京都市 古賀達也
○住吉神社は一大率であった 奈良市 原 幸子
○隋書国伝「犬を跨ぐ」について 乙訓郡大山崎町 大原重雄
○四国の高良神社 -見えてきた大宝元年の神社再編- 高知市 別役政光
○「壱」から始める古田史学(14)
「倭国大乱」-范曄の『後漢書』と陳寿の『魏志倭人伝』
- 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○平成三〇年(二〇一八)新年のご挨拶
古田先生三回忌を終え、再加速の年に 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1604話 2018/02/12

須恵器の「打欠き」儀礼

 先日購入した『季刊考古学』142号を熟読しています。同書の特集「古墳からみた須恵器の変容」で「朝鮮半島」を執筆担当された高田寛太さん(国立歴史民俗博物館・準教授)と中久保辰夫さん(大阪大学・助教)により、朝鮮半島南端での須恵器の「打欠き」儀礼というものが紹介されていました。次の通りです。

 「全羅道出土須恵器には、いくつか口縁部を打欠いた事例がある(図3:紫龍里例)。打欠き儀礼は、浅岡俊夫によって日本列島で弥生時代にさかのぼる事例も紹介されており、例えば大阪府久宝寺1号墳供献土器に口縁部を打欠いた例があるなど、古墳時代前期にも確認できる。(中略)
 したがって、栄山江流域にみる須恵器供献例のなかには、土器そのものの入手と使用に意味があっただけではなく、〔瓦泉〕の体部を手に持ち、口縁部の一部あるいは頸部を含めて破損するという所作の共有を見出すことができる。ただし、口縁部打欠きについては、日本列島各地のすべての〔瓦泉〕出土古墳で認めることはできない。」(69〜70頁)
 ※〔瓦泉〕は偏が「瓦」で、その右に「泉」。

 この指摘はとても示唆的です。朝鮮半島南部の須恵器と日本列島の弥生時代の土器や古墳時代の須恵器に頸部の打欠き儀礼が共通して見られるとのことです。4世紀末頃に須恵器が朝鮮半島から倭国(九州王朝・筑前)に伝わっているのですが、打欠き儀礼は須恵器伝来以前の弥生時代の日本列島に見られるということですから、この打欠き儀礼は日本列島発の可能性も考えてみる必要があります。
 同論文には打欠き儀礼の意味については触れられていませんが、葬儀において現代日本でも故人が使用したお茶碗を出棺時に割るという儀礼があり、この淵源が古代の土器「打欠き」儀礼にまで遡るのかもしれません。また、九州年号金石文として注目される「大化五子年」土器も、煮炊きに使用した後に頸部を打ち欠いて骨壺に転用されています。この土器転用は出土した茨城県地方の風習と、地元の考古学者からお聞きしました。これも土器の打欠き儀礼の一形態と思われます。
 土器の頸部を打ち欠いて骨壺に再利用する例は平安時代(10世紀)にも見られ、「洛中洛外日記」1536話で紹介しました。ご参考までに転載します。

「洛中洛外日記」第1536話 2017/11/05
古代の土器リサイクル(再利用)

 ちょっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器が骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。