2018年03月01日一覧

第1619話 2018/03/01

2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《2月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/02/01 『東京古田会ニュース』No.178のご紹介
2018/02/09 『季刊考古学』142号を購入
2018/02/20 岐阜市立中央図書館を初訪問
2018/02/24 「邪馬台国」畿内説の論理


第1618話 2018/03/01

九州王朝の難波大道(2)

 二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での質疑応答のとき、わたしは安村俊史さんに次の質問を行いました。
 「レジュメ記載の古地図によれば、四天王寺周辺の南北直線道路は正方位ではなく、東へ10度ほどぶれているが、それは何故か。創建四天王寺も同様に東偏していたのか。難波京条坊は四天王寺付近までは広がっていないのか。」
 この質問に対して、安村さんの回答は次のようでした。
 「創建四天王寺の中心軸は正方位である。周辺の道路が東偏しているのは、上町台地の最も高い場所を走った結果によると思われる。正方位の条坊跡は四天王寺付近でも発見されており、条坊はそこまで広がっていたと推定できる。」
 この安村さんの説明にわたしは一応納得できたのですが、四天王寺周辺の直線道路が東偏している理由がやはり気になっています。四天王寺は『二中歴』「年代歴」の記事(二年難波天王寺聖徳造)にあるように、九州年号の倭京二年(619年)に難波「天王寺」として創建されたと考えられますが、そのとき九州王朝は「天王寺」を正方位で造営しておいて、周囲の直線道路は上町台地の地勢に合わせて東偏させたのでしょうか。あるいは既に存在していた道路は東偏のままにしておき、「天王寺」は正方位に造営したのでしょうか。または東偏している道路は正方位の条坊とは無関係に、後代になって造営されたのでしょうか。今のところよくわかりませんので、引き続き考古学者の見解を尋ねてみたいと思います。
 いずれにしましても、7世紀初頭(倭京元年か)に造営されたと考えられる太宰府条坊や同じく倭京二年に創建された難波「天王寺」が正方位であることから、7世紀の九州王朝(倭国)が正方位を重視した都市計画思想を持った王朝であることは疑えません。(つづく)


第1617話 2018/03/01

九州王朝の難波大道(1)

 二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)で安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「7世紀の難波から飛鳥への道」をお聞きして、とても勉強になりました。特に前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る難波大道が7世紀中頃の造営とされる考古学的根拠の解説は興味深いものでした。わたしの前期難波宮九州王朝副都説から考えれば、この難波大道も九州王朝の造営とならざるを得ないからです。
 通説では難波大道の造営時期は『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に7世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、2007年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から7世紀中頃の土器(飛鳥2期)が出土したことにより、設置年代は7世紀中頃、もしくはそれ以降で7世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉4年(653年、九州年号の白雉2年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
 この難波大道遺構(堺市・松原市)は幅17mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは3mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。これも前期難波宮九州王朝副都説によれば、九州王朝の土木技術水準の高さを示していることになります。そして、九州王朝は前期難波宮造営とともに遙か南の堺市付近まで朱雀大路を延長し、難波大道を造営したことになります。こうした事実から、九州王朝は難波副都造営にあたり、かなり大規模な都市計画を持っていたことがわかってきました。
 安村さんの説明では、この南北正方位の道路規格や方格地割は中国の制度を取り入れたものであり、その痕跡は難波京条坊や難波大道にとどまらず、田圃の条里(110m四方の畦跡)や飛鳥の小墾田宮の周辺にも影響を及ぼし、7世紀前半では斜行していた道路や建物が中頃には正方位になるとのこと。こうした事実から、九州王朝による正方位の都市計画思想が難波京の条坊都市だけではなく、飛鳥の近畿天皇家の宮殿にも影響を及ぼしたことがわかります。(つづく)


第1616話 2018/03/01

「邪馬台国」畿内説の論理(4)

 今朝は東京駅の東北新幹線待合室で始発の山形行き新幹線つばさ123号を待っています。昨日、大阪なんばで仕事をした後、午後に東京入りしました。今朝は春の爆弾低気圧が関東を通過中とのことで、早朝にホテルを出て東京駅で待機することにしました。

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 「邪馬台国」畿内説への反論や批判の方法として、いくつかのアプローチを考えましたが、わたしは安村さんとの対話を通して、氏のような誠実な考古学者に対しては論争や批判ではなく、大和朝廷一元史観と「邪馬台国」畿内説とを一旦は切り離して論議することが有効ではないかと思うようになりました。すなわち、「畿内で発生し巨大化した前方後円墳の全国伝播が大和朝廷発展の考古学的痕跡である」とする日本古代史の基本フレーム(岩盤規制)と、『三国志』倭人伝の中心国である邪馬壹国とを切り離し、文献史学での邪馬壹国所在地の説明を丁寧に行うという対話方法です。
 こうした方法が有効だと思う理由は三つあります。一つは、前方後円墳発生や伝播に関する論争を専門の考古学者に挑んでも、彼らを説得できるほどの研究が古田学派ではまだ進んでいないように思われることです。
 二つは、考古学者は出土物の理解や歴史的位置づけついては、文献史学の「安定した通説」、すなわち一元史観によらざるを得ません。従って、文献史学の通説が間違っていれば、考古学者の出土物に対する理解や歴史的位置づけも不正確になりますが、そのことの主たる責任は文献史学側にあり、文献史学での「結論」を採用した考古学者を一方的に責めるのは酷というものです。倭人伝に基づく「邪馬台国」論争はまずは文献史学のテーマですから、『三国志』倭人伝における古田説(原文改訂は研究不正であることや行程記事・短里の解説)を丁寧に考古学者に説明することは、わたしたち古田学派の得意分野でもあり、責務でもあります。
 三つは、畿内説の考古学者でも鉄器の出土分布など北部九州が優勢な考古学的事実があることを知っていることです。この畿内説論者でも認める考古学的事実を根拠に、倭人伝に記された文物が出土する北部九州の勢力と、前方後円墳を造営した勢力は別であり、倭人伝に記された中心国(邪馬壹国)と畿内の前方後円墳を結びつける学問的(文献史学の)根拠がないことを説明するという方法は、誠実な考古学者には有効ではないかと考えられることです。
 以上のようなことから、わたしは誠実な考古学者との学問的良心と理性に基づいた対話こそが現状を変化させる一つの効果的な方法ではないかと考えています。そのためにもわたしたち古田学派は、考古学に対する研鑽と異なる意見が発生した根元を見極める洞察力、そしてそのことを的確に説明できる対話力を高めることが重要ではないでしょうか。(おわり)