臼杵石仏の「九州年号」の検証(4)
『臼杵小鑑』の「正和四年」を九州年号史料とすることをわたしは一旦は断念したのですが、その後も気にかかっていましたので、他の可能性についても考察を続けました。幸いにも、『臼杵小鑑』の国会図書館本のコピーを冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)からいただいていたので、何度も精査することができました。
その結果、鶴峯が「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」と記したことを信用するなら、五重石塔とは別の石仏(十三佛の石像)に彫られた「正和四年卯月五日」の文字を鶴峯は見たことになり、そこには年干支がありませんから九州年号の「正和四年」と理解したと考えることも可能であることに気づいたのです。また、『臼杵小鑑』の「満月寺」の次に「古石佛」の項があり、満月寺の近くに点在する石仏群のことが記されています。そこには「二十五菩薩十三佛」という記事が見え、「満月寺」の項の「十三佛の石像」の「十三佛」という表現と一致します。
こうした考察が正しければ、鶴峯の時代(江戸時代後期)には臼杵の満月寺近辺には「正和四年乙卯夘月五日」と記された五重石塔と「正和四年卯月五日」の銘文を持った石仏が併存していたことになります。五重石塔の「正和」はその年干支「乙卯」の存在により鎌倉時代の「正和四年(一三一五)」と判断可能ですが、石仏の「正和四年卯月五日」は年干支がなく判断ができません。しかし、次のようなケースを推論することができます。
①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。
②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。
このような二つのケースが推定できるのですが、②のケースの場合に石仏の「正和四年」は九州年号となります。それでは②のケースが成立するためにはどのような学問的根拠や論証が必要でしょうか。考察を続けます。(つづく)