2019年02月19日一覧

第1841話 2019/02/19

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(5)

『大宰府の研究』には、先に紹介した井上信正論文「大宰府条坊論」の他にも太宰府都城編年に関して大きなインパクトを持つものがあります。その一つが高倉彰洋さん(西南学院大学名誉教授)の「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」です。それは主に文献史学の研究により、観世音寺の伽藍完成を朱鳥元年(686)とするもので、この説を以前から高倉さんは主張されていました。
 実は太宰府都城編年において、最も矛盾が集中して現れるのが観世音寺創建年についてでした。井上信正説が最有力説として登場してからは、観世音寺の扱いが研究者間で密かな課題(悩みの種)となっていました。というのも観世音寺創建年については次のような諸問題(矛盾)が山積していたためでした。

1.通説では、天智天皇が亡き母斉明天皇を弔うために670年頃に観世音寺建立を発願し(『続日本紀』)、落成は8世紀中頃の天平18年(746)とされてきた。その間、80年近くを要しており、他の主要寺院には見られない長期の造営期間である。
2.他方、7世紀末頃には既に観世音寺が存在していたことを示す史料がある(注①)。
3.創建瓦の老司Ⅰ式瓦は藤原宮式瓦よりも古く、従来は7世紀後半頃(天智期)に編年されていた。後に、藤原宮式中段階の瓦と同時期とする見解が発表された(注②)。
4.観世音寺の本尊仏(注③)は百済伝来の阿弥陀如来像(銅製)と伝えられており、百済滅亡以前に渡来したと考えざるを得ない。そうであればその阿弥陀如来像を安置した観世音寺本堂は660年頃には存在していなければならない。
5.国内最古の銅鐘とされる観世音寺の鐘(国宝)は7世紀後半の鋳造と見られている(注④)。
6.『二中歴』などの後代史料に観世音寺を「白鳳年間」「白鳳10年(670)」の創建とする記事が見える(注⑤)。

 以上のような諸事実を直視すれば、観世音寺の創建年代は早ければ白鳳10年(670)、遅くても藤原宮完成年頃(694年遷都。『日本書紀』)となります。ところが観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期よりも、その南に拡がる条坊都市の成立が早いとする井上信正説が最有力説として登場したために、観世音寺創建年代を7世紀後半から末頃にしてしまうと、太宰府条坊都市の成立は大和朝廷の都藤原京よりも早くなってしまい、このことは一元史観の学界にとって不都合な事実となってしまいます。もちろん九州王朝説に立てば、当たり前のこととして受け入れることができます。このことを古代史学界や考古学界の識者が知らないはずがありません。ですから、観世音寺創建年をより新しくしたいという動機が諸論文に見え隠れするようになりました。
 そのような学界の状況下で、今回紹介した高倉論文は観世音寺伽藍完成を朱鳥元年(686)とするものですから、それを認めると太宰府条坊都市の造営は藤原京よりも数十年は早くなってしまうのです。わたしが高倉説が九州王朝説から見れば不十分ではあるものの高く評価するのはこの点にあります。
 更に高倉論文には、観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」を従来説の7世紀後半頃(天智期)よりも新しく編年(藤原宮式中段階)した岩永省三さんの説に対して次のような反論が論文中の「注17」でなされており、注目されます。

 「観世音寺伽藍の完成を朱鳥元年としたとき、創建瓦の老司Ⅰ式の年代が課題となる。近年の老司Ⅰ式に関する諸説を検討した岩永省三は、本薬師寺式系譜に有り、藤原宮式の中段階に併行するとする〔岩永二〇〇九〕。藤原宮中段階の瓦は藤原宮大極殿に葺かれている。大極殿の初見が文武二年(六九八)だから、中段階の瓦も六九八年以前に造られていたことになる。ただ、岩永が指摘するように藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。堂宇の建設に際して、まず骨格となる柱を建て、未完成の堂宇の内部や板材などの建築素材を雨の害から守るために瓦を葺くから、造瓦は大極殿造営事業の初めに行われる。それは六八〇年代前半であり、朱鳥元年に観世音寺伽藍の完成を考えたとき、老司Ⅰ式は藤原宮の瓦より数年早くなることになるが、国宝銅鐘の上帯・下帯を飾る偏行唐草文がその可能性を強める。」(517頁)

 老司Ⅰ式瓦の年代を藤原宮式まで新しく編年するという岩永説に対して、「藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。」とする高倉さんの批判は重要です。例えば大宰府式鬼瓦は立体的で美術品としての芸術性も高いのですが、大和朝廷の藤原宮の「鬼瓦」には曲線模様だけで「鬼」はなく、平城宮の時代になってもその鬼瓦の鬼の文様は扁平です。すなわち、大和朝廷の都の鬼瓦よりも地方都市とされた太宰府の鬼瓦の方が「王朝文化」を体現していることは著名です。
 それと同様に軒瓦も大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建瓦老司Ⅰ式が「精緻流麗」とする高倉氏の指摘は急所を突いたものです。しかし、それではなぜ太宰府の瓦の方が「精緻流麗」なのかという、学問としての本質的な問いへは進まれていません。ここに高倉さんの依って立つ大和朝廷一元史観の限界を見ることができます。
 ところが、九州王朝説に立てば、大和朝廷に先立つ列島の代表王朝「倭国」の都、王朝文化が先駆けて花開いた太宰府の瓦が「精緻流麗」であることは当然のこととして受け止めることができます。また、観世音寺が藤原宮(694年遷都)よりも古く、さらに太宰府条坊都市はその観世音寺(白鳳10年[670]創建)よりも古いという、井上信正説が通説の太宰府編年に鋭く突き刺さっていることも見えてくるのです。(つづく)

(注)
①「(朱鳥元年)観世音寺に封二百戸を施入する。」(『新抄格勅符抄』)
②岩永省三「老司式・鴻臚路館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』№7 2009年
③講堂の本尊は観世音菩薩立像(塑像)。天平年間の作製と見られている。
④「戊戌年」(698年)銘を持つ妙心寺鐘(国宝、京都市)の兄弟鐘とされており、観世音寺鐘の方が古く編年されている。
⑤『日本帝皇年代記』『勝山記』に白鳳10年(670)の創建と記されている。

※観世音寺に関しては次の「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

第219話 観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」の論理
第336話 『勝山記』の観世音寺創建記事
第405話 太宰府編年の再構築
第410話 観世音寺の水碓(みずうす)
第587話 観世音寺と観音寺
第588話 阿部周一さんからの「鎮西」試案
第811話 山崎信二さんの「変説」(1)
第1053話 瓦の編年と大越論文の意義
第1178話 観世音寺式寺院の意義に新説か
第1179話 観世音寺の創建年と瓦の相対編年
第1182話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)
第1186話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)
第1295話 井上信正説と観世音寺創建年の齟齬
第1392話 『二中歴』研究の思い出(5)
第1412話 観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦
第1638話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)
第1639話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)
第1640話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(3)
第1641話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)
第1642話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(5)
第1644話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)
第1694話 観世音寺古図の五重塔「二重基壇」
第1696話 観世音寺古図の史料性格
第1697話 「観世音寺古図」と資財帳の不一致
第1698話 「観世音寺古図」と出土遺構の不一致
第1699話 五重塔「創建基壇」の階段
第1772話 土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)