明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)
本年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」〟というテーマを発表されました。福岡市の比恵・那珂遺跡の紹介など多彩な研究成果や新情報が紹介され、好評を博しました。
その質疑応答において、魏朝で短里が使用されたのはいつからかという質問に対して、明帝の景初元年(237)ではないかと正木さんは回答されたのですが、それには史料根拠がなく、論証されていないというような反論が出されました。時間がなかったので、わたしは発言しませんでしたが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が既に景初元年(237)短里開始説を論証し、論文発表されていることをご存じないようでした。良い機会ですので、同説の発表経緯も含めてあらためて紹介することにします。
ことの発端は、約6年前の「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)での正木さんの発表〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟でした。そのとき次のような論議が行われました。
正木さんからは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。そして、魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが「暦法を周制に変更した明帝の時ではないか」とする見解を示されました。(つづく)