2020年12月07日一覧

第2313話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(4)

わたしたち「古田史学の会」関西例会の研究者たちは、景初元年短里開始の論証方法の検討に入りました。そして、関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が〝短里と景初〟というテーマで次のような発表をされました。
西村さんは、魏朝における長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、その後、明帝の景初元年(237)に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
そして西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。

2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。

3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た端数は数学の有効桁数としては意味がありませんから、陳寿は「数千里」「数百里」という概算値表記にしたものと思われます。)

4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。

5.この作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有意の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有意の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1.『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
漢(長里使用)  21.3%(47例中10例)
魏 景初元年より前(長里の時代) 37.5%(16例中6例)
景初元年以後(短里の時代) 5.3%(39例中2例)←激減する!
蜀(長里使用)  33.3%(9例中3例)
呉(長里使用)  40.0%(10例中4例)

2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。

3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要がなかったと考えるのが妥当である。

4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。

5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この視点と『三国志』の「里」全数調査により明らかとなった景初元年を境とする〝有意の差〟は、景初元年短里開始説を強く指示しています。これは見事な証明方法と調査結果だと感服したことを憶えています。なお、この西村論証は論文化(「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」)され、古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)に収録されました。(つづく)


第2312話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(3)

 「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、次の記事の「三百餘里」を長里ではないかとされました。

 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)

 この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないとしたのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 そこで『三国志』を調べたところ、明帝は景初元年(237)に景初暦を制定したようですので、このときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。すなわち、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。
 こうして、景初元年短里開始の〝状況証拠〟が確認されたことにより、関西例会の研究者は電話やメールで情報や意見交換を進め、論証方法の検討に入りました。誰が最初に論証に成功するだろうかと注視していたところ、翌月の関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が驚きの研究結果〝短里と景初〟を発表されました。(つづく)