2020年12月14日一覧

第2321話 2020/12/14

古田武彦先生の遺訓(19)

『周礼』の二倍年齢と後代の解釈

 周代史料とされている(異論もあり)『周礼』に次の記事があります。

 「媒氏に曰く、媒氏、万民の判を掌る。凡(およそ)男女、成名より以上、皆(みな)年月日名を書す。男をして三十にして娶らしめ、女をして二十にして嫁せしむなり。」『周礼』(注①)

 周代の礼法として、男は30歳、女は20歳で結婚させるというものです。周代の年齢記事ですから、二倍年齢と思われますから、それぞれ15歳と10歳ということになります。現代の感覚からすると婚姻年齢として若すぎるように思いますが、古代においては普通だったようです。
 田中禎昭さんの論文(注②)によれば、古代日本(7~9世紀頃)において女性の実態的な婚姻年齢は8歳以上か13歳以上という若年であるとのことです。更に、古代の歌垣史料の検討から、婚姻適齢期に達した女性すべてに結婚を奨励する「皆婚」規範が存在したとする研究も紹介しています。そうすると、『周礼』の婚姻年齢規定は二倍年齢とみて妥当です。逆に一倍年齢とすると、男の30歳は遅すぎます。
 ところが、唐の孔穎達(574~648年)『毛経正義』(『詩経正義』)に、周の文王について次の記事があります。

 「文王年十五生武王、又九十七而終、終時武王年八十三矣。」「大戴禮稱、文王十三生伯邑考、十五生武王」『毛経正義』巻十六(注③)

 文王が13歳のとき伯邑考(夭逝)が生まれ、15歳のとき、周を建国した武王が生まれ、文王は97歳で没したという記事です。この13歳や15歳という年齢が後世になって問題視されたようです。なぜなら『周礼』には男子の婚姻年齢を30歳としているにもかかわらず、周王朝の始祖でもある文王が15歳のときに初代武王が生まれたということは、文王はそれ以前に結婚していたことになり、礼法に背くことになるわけです。そこで、『毛経正義』では、王妃の大姒(たいじ)がいかに賢妃であったのか、文王の徳がいかに高かったかを延々と記しています。『毛経正義』のこれらの記事は、周王朝が定めた礼法に文王が背いており、その結果生まれた初代武王についても〝後ろめたさ〟を後世(唐代)の人々が感じていた証拠だと思います。
 しかし、『周礼』の婚姻年齢が二倍年齢表記であれば、男の30歳は一倍年齢の15歳のことであり、『毛経正義』に記された文王15歳のときの子供である武王はぎりぎりセーフとなるのです。このように考えた時、『毛経正義』の記事「文王年十五生武王、又九十七而終、終時武王年八十三矣。」にある文王の「年十五」だけは一倍年暦に換算されていたことになります。したがって、同記事は、周代の二倍年齢が一倍年齢に換算されたものと二倍年齢のままの表記が混在したケースということになり、二倍年暦研究における史料批判の難しさを示す例といえます。
 なお、『毛経正義』を著した孔穎達は、周代における二倍年暦(二倍年齢)という概念を知らなかったことになりますが、もし知っていれば、あれだけ延々と文王の〝礼法破り〟となる〝早婚〟の弁護をする必要もなかったわけです(注④)。(つづく)

(注)
①「中國哲學書電子化計劃」 https://ctext.org/rites-of-zhou/di-guan-si-tu/zh
②田中禎昭(たなか・よしあき)「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」(専修人文論集99号 95-123,2016)
③「維基文庫」 https://zh.wikisource.org/wiki/毛詩正義/卷十六
④『周礼』の同記事を一倍年暦で理解するために、〝男30歳・女20歳の結婚〟規定に、「遅くとも」という原文にない解釈を付加するという方法をとる清代の史料(『周礼正義』)もあるようである(古賀未見)。