2021年01月一覧

第2340話 2021/01/05

1月16日(土) 新春古代史講演会のご案内済み

 既にお知らせしていますように、来る1月16日(土)に新春古代史講演会を開催します。本年は、古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』発刊から50周年を記念して、同書によせた講演三題をお届けします。古田先生が提唱された邪馬壹国説における最新研究を「古田史学の会」の研究者3名が発表します。

 わたしからは、倭人伝に記された倭国の二倍年暦が古代戸籍(大宝二年籍)にまで影響が及んでいることを報告させていただきます。正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)からは、邪馬壹国博多湾岸説を証明する最新の考古学的成果などが紹介されます。谷本茂さん(古田史学の会・会員)からは、「古田史学の会」関西例会でも注目され論争にもなった投馬国・狗奴国に関する新説が発表されます。
 昨年から続くコロナ禍の中での講演会ですが、広い会場を使用して三密を回避し、手指の消毒・マスク着用の要請などの対策をとります。お誘い合わせの上、ご参加いただきますようお願い申し上げます。なお、コロナの影響により緊急中止の恐れもありますので、ホームページにご注意いただきますようお願い申し上げます。

 古田史学の会 令和三年新春古代史講演会
 ~『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年によせて~

□日時 1月16日(土) 13:30~17:00 (開場13時)

□会場 I-site なんば 大阪府立大学なんばサテライト
〔アクセス〕
○地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分
○南海電鉄難波駅なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
○地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分

□参加費(資料代) 千円 ※午前中の「古田史学の会」関西例会にも参加できます。

□主催:古田史学の会 協力:古代大和史研究会 誰も知らなかった古代史の会 和泉史談会 市民古代史の会・京都 市民古代史の会・八尾

□講師と演題
 谷本 茂 「道行読法」と投馬国・狗奴国の位置
 正木 裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国説」
 古賀達也 古代戸籍に見える二倍年暦の痕跡


第2339話 2021/01/04

二倍年齢研究の実証と論証(5)

 ―『延喜二年阿波国戸籍』の偽籍説―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在と若年層の少なさという史料事実を一倍年齢でも二倍年齢でも説明不可能なため、古代戸籍に関する先行研究を調査しました。
 その結果、平安時代に入ると中央政府(近畿天皇家)の権力や地方への影響力が低下し、地方の造籍において、地方官僚ぐるみによる「偽籍」という行為が発生していることを知りました。平田耿二『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)によれば、律令体制が形骸化していた九~十世紀頃には、班田収受で得られた田畑の所有権を維持するために、造籍時に死亡者の除籍を届け出ず、生きていることにして、年齢を加算し戸籍登録するという偽籍行為が頻出していたとのことなのです。すなわち、延喜二年『阿波国戸籍』に見える超高齢者たちは既に亡くなっており、戸籍に登録されているからといって、その当時に超高齢者がいたと判断することはできないわけです。そのことは、同戸籍を二倍年齢実在の「実証的」根拠に使用できないことをも意味します。
 更に若年層や成人男子が極端に少ないという現象も、徴用・徴兵等の義務から逃れるために、男子の戸籍登録をしなかったためと推定されています。あるいは、男子が生まれても女子として戸籍登録した可能性もあります。
 確かに偽籍説であれば、同戸籍の考えにくい超高齢者群の存在、若年層や成人男子の極端な少なさについての合理的な説明が可能です。従って、同戸籍の〝史料事実〟は史的事実ではなく、実証の根拠とすることができないことを偽籍説により論証していることになります。他方、十世紀初頭の阿波国では中央政府の律令支配が形骸化していたことを示す史料根拠として、同戸籍が使用できることも示唆しています。
 今回のケースは、史料事実と史的事実が別であることや、実証と論証の関係性を理解する上でわかりやすい事例ではないでしょうか。(つづく)


第2338話 2021/01/03

二倍年齢研究の実証と論証(4)

―『延喜二年阿波国戸籍』の二倍年齢説を断念―

 わたしが『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』を知ったのは、長野県白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年)においてでした。参加されていた「邪馬台国」阿波説論者の方からいただいた岩利大閑著『道は阿波より始まる』に同戸籍が掲載されていたのです。
 一瞥して、その超高齢者群の存在に驚きました。当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで二倍年齢表記が残存していたのではないかと疑ったのです(暦は一倍年暦の時代)。そこで、超高齢者群の存在を記すその年齢記事(史料事実)を根拠に、実証的に二倍年齢の存在を証明できるのではないかと考えました。
 しかし、同戸籍の年齢を半分にすると、80~110歳の超高齢者の年齢は現実的な数値になるものの、それ以外の年齢層では若くなりすぎて全く整合性がとれません。また、若年層が少ないという別の問題も解決できません。すなわち、同戸籍記載年齢を一倍年暦でも二倍年暦でも実証の根拠に使用することは、それを支持するための論証が成立せず、学問的に危険と気づいたのでした。そのため、二倍年齢により同戸籍を理解するという仮説提起をわたしは断念しました。
 前話で指摘したように、古代諸史料に見える「九十歳」とか「百歳」という、当時としてはあり得にくい年齢記事を〝史料事実〟として疑いもせずにそのまま実年齢と理解し、〝史料事実に基づく実証〟と称して仮説を提起し、論を進めることが危険であるように、二倍年齢表記ととらえ、単純に実年齢はその半分とすることも、同様に危険です。やはり「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡先生が述べられたように、「実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠」(注)なのでした。(つづく)

(注)「学問は実証よりも論証を重んずる」との村岡先生の言葉に対する加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)の感想。更に加藤さんは、わたしへのメールで次のようにも追加説明されています。
 〝村岡先生の言葉の私なりのもう少し平易な理解を申し上げますと、実証Aと称するものを持ち出して、Bと結論する人と、Cと結論する人が有った場合、Aは共通ですから勝負はつかず、決め手となるのは結論B,Cを導く論証の適否にある、という内容を、端的に表現されたもの、とも思えるということです。
 いずれにしても、何か特別なことではなく、ごく当たり前のことを言われているとしか思えないことに変わりは有りません。Aから短絡的にBと結論しがちであるが、よく考えてみるとCが正しい、というようなケースにおいて、村岡先生の言葉は特に理解し易いと思います。〟


第2337話 2021/01/02

二倍年齢研究の実証と論証(3)

『延喜二年阿波国戸籍』の実証と論証

 昨年11月の八王子セミナーでは、最初に『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』研究の経緯を紹介しました。当時としては超高齢者群の存在を示すその年齢記事(史料事実)を根拠に、実証的に二倍年暦(二倍年齢)表記ではないかとする作業仮説の当否を検討しました。その結果、実証的な判断により提起したこの仮説を是とする論証が成立せず、後に撤回に至った研究経緯を説明しました。この研究事例における史料事実と実証と論証について説明します。

 延喜二年(902年)成立の『阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』に当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで二倍年齢表記が残存していたのではないかと疑ったのが研究の始まりでした(暦は一倍年暦の時代)。その年齢分布(史料事実)は次の通りです。

【延喜二年阿波国板野郡田上郷戸籍断簡】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
合計 50 361 411 100.0
※出典:平田耿二『日本古代籍帳制度論』1986年、吉川弘文館

 同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。そこで、わたしはこの高齢表記を二倍年暦を淵源とする二倍年齢ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は1年で2歳とする、古い二倍年齢表記が阿波国では継続採用されていたのではないかと思ったわけです。

 他方、子供の数が少ない同戸籍の記述(史料事実)に基づく実証として、次ような見解も提起されていました。「邪馬台国」阿波説を唱える研究者による次の記事です(注)。

 「(前略)大倭の地へ王都が移遷されて以来、中世源平時代はもとより室町時代迄でも阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました。天皇家の周辺をささえたのは阿波人であったのは姓氏録を研究するだけで明白です。それぞれの血脈に従い、能力に応じた官職についていました。現在でいう停年になれば故里に帰ってきます。(中略)人はいうに及ばず、農水産物衣類まで阿波に依存して成り立っていたのです。」岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』6頁

 子供の数が極端に少ないという、他の古代戸籍とは真逆の史料事実をそのまま歴史事実として受け入れたために、「阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました」とする解釈を導入せざるを得なかったものと思われます。しかし、同戸籍で極端に少ないのは「成年男子」だけではなく、1歳から20歳までの「少年少女」もそうなのですから、この解釈では史料事実を充分に説明できません。すなわち、論証が成立していません。ですから、学問的な実証にも至らず、仮説としても成立していないのです。

 このような事例は、古代諸史料に見える「九十歳」とか「百歳」という、当時としてはあり得にくい年齢記事を〝史料事実〟として疑いもせずにそのまま実年齢と理解し、〝史料事実に基づく実証〟と称して仮説を提起し、論を進めることの危険性をご理解いただける典型的なケースではないでしょうか。実は似たような誤りを、同戸籍についてわたしもおかしそうになりました。(つづく)

(注)岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』昭和61年(1986)、京屋社会福祉事業団。


第2336話 2021/01/01

二倍年齢研究の実証と論証(2)

 ―事実と実証と論証―

 歴史研究においては実証であれ論証であれ、確かな史料事実に基づいて行わなければなりません。しかし、史料事実そのものが何かを証明してくれるわけではありません。茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)の論稿(注①)では、そのことを次のように説明しています。

〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことにはなにも語りません。〟『倭国古伝』207頁

 その上で、実証と論証の関係を次のように説明しています。

〝「事実」についての論理展開があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が増す、という構造になっていたと思います。これこそが、村岡氏や古田氏が目指していた学問の方法でしょう。〟(同上)

 この実証と論証の関係について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)は、私へのメールで次のように述べられました。

 「実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉(注②)は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
 例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが」

 この加藤さんの指摘は、茂山さんの説明と意味するところは同じです。このことを二倍年暦(二倍年齢)研究を例に説明します。(つづく)

(注)
①茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて 22集』古田史学の会編・明石書店、2019年)所収。
②「学問は実証よりも論証を重んずる」(古田武彦先生が紹介された村岡典嗣先生の言葉)