2021年05月12日一覧

第2459話 2021/05/12

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(1)

 ―最重要エビデンスは「筑後川の一線」―

 「洛中洛外日記」2458話(2021/05/11)〝九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)〟において、「倭の五王」の王都の場所を論じるとき、見解が異なる論者に対しても説得力のあるエビデンス(考古学的出土事実)の明示が不可欠であると、次のようにわたしは述べました。

 「太宰府遺構を5世紀の『倭の五王』の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。」(「洛中洛外日記」2458話)

 そこで、「倭の五王」時代(5世紀)の考古学的出土状況を概観し、「倭の五王」の王都を推定するためにはどのようなエビデンスが存在するのかについて解説し、王都の位置について論究します。
 その場合、古田学派として参考とすべき指針は古田先生の論文「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」(注①)です。その論旨は次の通りです。
 〝弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に移動する。それぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷している。その理由は、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられる。〟
 この論文は古田学派内からもほとんど注目されてきませんでしたが、「倭の五王」の王都が博多湾岸から筑後方面へ移動したことを示唆しており、貴重です。
 次いで、近年の研究で明らかになった比恵・那珂遺跡群(福岡市)の時代的変遷も重要な考古学的事実として注目されています。博多湾岸に位置する比恵・那珂遺跡群は弥生時代最大規模の都市遺構です。ところが5世紀以降になると衰退し、再び都市化するのは6世紀後半以降です。2018年12月、大阪歴史博物館で開催されたシンポジウム(注②)の資料集には次のように説明されています。

 「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた比恵・那珂遺跡群は5世紀以降衰退期を迎える。それが再び、都市化していくのは6世紀後半以降で、官家の設置が大きな契機と考えられる。」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、76頁。(注③)

 ここで指摘されているように、弥生時代最大の都市、比恵・那珂遺跡群は5世紀から6世紀後半頃まで衰退していたとあり、この衰退期間に〝「倭の五王」の時代〟がスッポリと入るのです。この考古学的事実は、古田先生の「筑後川の一線」説と見事に対応しており、「倭の五王」の王都を探る上で貴重なエビデンスとなります。更に、〝弥生時代最大規模の都市〟というからには、その地は俾弥呼が都とした邪馬壹国内にあったことを指示し、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を証明する遺構でもあります(注④)。従って、この比恵・那珂遺跡群の盛衰は、「三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していない」とする見解(注⑤)とは相容れない考古学的事実のようです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
②総括シンポジウム『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』2018年12月22日~23日、大阪歴史博物館講堂、大阪市博物館協会大阪文化財研究所主催。
③菅波正人「那津官家から筑紫館―都市化の第二波―」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
④邪馬壹国と比恵・那珂遺跡については、次の論稿を参照されたい。
 正木 裕「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集、明石書店、2021年)
⑤草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。