2021年05月28日一覧

第2473話 2021/05/28

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(3)

 ―「坂田測定」水城堤防出土サンプルの由来

 坂田武彦さんによる太宰府遺構出土物の放射性炭素年代測定値について、最も説明が困難なものがKURI 0102の「大宰府町水城堤防の中の杭」でした。水城本体からの出土ですから、造営年代を示すはずですが、「坂田測定」では「1950年より2250年前±80年」とありますから、その杭にはBC300年頃の年輪が含まれていることになり、従来の編年(七世紀後半頃)や他の科学的年代測定値(注①)と大きくかけ離れているからです。発掘者は福岡県教委とされていますから、その出土を記した調査報告書を探索しました。
 九州歴史資料館から出された『水城跡 上巻・下巻』(注②)には、福岡県教育委員会による昭和44年度立会調査に始まって、1次調査(昭和46年)から45次調査(平成20年)までの概要が示されており、「坂田測定」のKURI 0102「大宰府町水城堤防の中の杭」の出土がどのときのものかを調べました。「坂田測定」が記された坂田さんの手紙には昭和52年の「2月17日」と思われる日付がありますので、それ以前の調査で杭が出土した事例を探したところ、次の三例が見つかりました。

 3次調査 昭和47年(1972) 東土塁西端部・東外濠部
 4次調査 昭和48年(1973) 御笠川欠堤部
 6次調査 昭和50年(1975) 東内濠推定部

 概要などが次のように記されています。

〔3次調査〕
《概要》九州縦貫自動車道を建設するに先だって行われた調査で、東土塁西端部及びその北側の外濠推定部分の調査である。土塁上からは掘立柱建物2棟、溝2条が検出され、下成土塁からは積土と杭列が確認された。また外濠部分からは、外濠と目される砂層堆積を確認した。(上巻27頁)
《杭列》
 SX025(3次)(Fig.17)
 東土塁西端の下成土塁積土内で検出した。積土中位には、黒灰色粘質土下位で淡青灰色粗砂に包含される敷粗朶があり、さらにその下位の積土内で木杭列とシガラミを確認した。ちょうど砂層の地山面上に積んだ、黒灰色や青灰色粘質土の間に木杭とシガラミを埋設している。木杭の大きさは27~63cm程度で、30cm間隔に4本打っている。また、それに絡むシガラミは土塁軸線に並行している。杭先は最下層の暗青灰色粘質土で止まり、上層も粘質土に覆われていることから、積土中の土砂の流出を防ぐためと考えられる。(上巻36頁、38頁)
《東外濠部》
 SX030(3次)(Fig.75)
 3次調査では、下成土塁から外濠部にかけて2箇所のトレンチを設定した。(中略)Aトレンチでは、基底部裾から約60m付近で砂層が急に立ち上がり、シガラミ状の遺構を検出した。木杭と横に打たれた板状の木材を確認したが、周囲に粘度が充填されていた。このシガラミを古代水城の外濠遺構と即断することはできないが、60mの距離については、5次調査と一致する。(上巻92頁、94頁)

〔4次調査〕
《概要》九州自動車道の橋脚建設中に、石敷遺構が発見されたために急遽行われた調査である。旧御笠川の河床にあたる部分に人頭大の石敷遺構が見られ、奈良時代を中心とした中世まで含む遺物が見つかった。この石敷遺構は、洗堰等の古代水城に関連するものと考えられる。(上巻27頁)
《杭》
 SX013(4次) (Fig.105)
 SX014の石敷の間に打ち込まれた杭である。40~50cm間隔で打たれており、礫が置かれた砂層下の粘質土まで達している。杭には、角杭と丸杭の2つがある。礫同士の押さえのために打ち込まれたと考えられる。(上巻177頁)

〔6次調査〕
《概要》東土塁西側の下成土塁の南側の調査で、下成土塁積土層を検出したほか、土塁の南側において、幅10mの溝状の砂層堆積を確認した。この溝状遺構は古代~近世までの遺物を含んでいるが、木樋取水部との関連が想定された。また、シガラミ遺構や杭列なども検出された。(上巻28頁)
《東内濠部》
 SD055(6次)(Fig.90・91、PL.57)
 6次調査東土塁の西端基底部下で検出した。土塁にほぼ並行して、東西に走る溝状の遺構である。(中略)この他、基底部SA001とSD055の間に自然流路があるが、この流路内では、南北方向に走る杭列SA056とシガラミSX057を検出している。(上巻105頁)
《杭列》
 SX056(6次)(Fig.90、PL.8)
 6次調査SX056内で検出した。杭列は2条認められ、流路に対してやや南へ傾いている。砂層に打ち込まれているが、時期比定は困難である。(上巻114頁)

 以上のように、3、4、6次の調査で杭の出土が報告されています。「坂田測定」の説明では、「水城堤防の中の杭」と表現されていますから、土塁端部の溝や地山付近に打ち込まれた杭よりも、水城堤体中から出土したものの方がより妥当と思われます。そのように考えると、「東土塁西端の下成土塁積土内で検出した」とされる、3次調査出土杭列SX025から採取されたサンプル(杭)の可能性が最も高いのではないでしょうか。3次調査は昭和47年(1972)に実施されていますから、時期的にも矛盾はありません。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』(九州歴史資料館、平成二一年〔2009〕)に記載された「水城跡出土木片・炭化材の放射性炭素年代測定」(327~332頁)によれば、その殆どが七世紀以後であり、最も古い値のもの(35次調査、敷粗朶層坪堀2第2層から検出されたヒサカキ)でも中央値240年である。このサンプルについては「洛中洛外日記」1355話(2017/03/17)〝敷粗朶のサンプリング条件と信頼性〟で紹介した。
②『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、平成二一年(2009)。