「倭の五王」以前(4世紀)の畿内大和
―大和の銅鐸の終焉を示す纒向遺跡―
関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)において、4世紀に大和で政権が成立し、その政権が5世紀には河内・大和の巨大前方後円墳群を造営した「倭の五王」へ続くとされ、最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営時期について4世紀後半頃とされています。
〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟131頁
〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁
そして箸墓古墳がある纒向遺跡について、示唆に富む数々の考古学的事実を紹介されています。その一つが、大和における〝銅鐸圏勢力の滅亡〟についてです。
〝大和の銅鐸と銅鏡
(前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。
また大福・脇本遺跡では、鋳造関連遺物と出土した銅鐸片により、青銅製品の原料としての再利用が考えられているが、その時期はほぼ弥生時代の終末であり、庄内期には銅鐸の使用は終わっているとみられる。
銅鐸は大和の弥生社会では重要な役割を果たしたと思うが、その出土地は、西方地域から導入されながらも次第に東方地域を志向しており、後半期には近江・東海系の銅鐸も出土しているのである。(中略)
そして、大和の銅鐸使用の終焉を示すところが纒向遺跡であるということは、最も象徴的なことといえよう。銅鐸自体も、本来、銅鏡のように大陸と共通する遺物ではなく、その発達も九州以東の地域の中でのことであり、古墳につながるような遺物ではないことは明らかである。〟69~70頁
〝纒向遺跡が最も拡大するのは、箸墓古墳の造営時期という、かなり新しい時期のことであることも、古墳群との関係性をよく示している。
また、出土遺物についても、これまでの大和の弥生遺跡の傾向と、ほぼ同様であることが知られる。それは、金属器や大陸系遺物の少なさ、それに対する東方地域の土器の多さなど、いくつもの共通性に現れているのである。(中略)
このように、弥生時代から続く大和の遺跡のもつ特質というものが、箸墓古墳の造営の直前までそのまま受け継がれていることは、大型前方後円墳出現の基盤ともなる遺跡の内容としては、やや意外ともいえる。〟74頁
ここで関川さんが述べられていることは重要です。要約すれば次のことを意味しています。
(1)弥生時代の大和の遺跡は北部九州や大陸の影響がほとんど見られず、むしろ東海地方などの東方地域との交流の強さを示している。
(2)弥生時代の近畿は銅鐸圏に属しているが、大和はその中心地ではない。
(3)纒向遺跡は、箸墓古墳の造営が始まる直前(4世紀前半頃か)までは銅鐸圏としての様相を見せている。
(4)箸墓古墳が造営されるときには銅鐸勢力は大和から駆逐され、纒向遺跡は銅矛圏の領域として最も拡大した。
以上の事実は、弥生時代終末期には大和から銅鐸勢力が駆逐され、箸墓古墳などの巨大前方後円墳を造営する勢力が侵攻・台頭したことを示しています。
古田先生は『盗まれた神話』『ここに古代王朝ありき』(注②)において、神武東征説話は銅矛圏(天国勢力。後の九州王朝)から銅鐸圏への軍事侵攻であるとされました。そしてその数百年後、神武の子孫達は奈良盆地を制圧し、更に銅鐸圏の中枢領域である大阪方面(大阪湾岸・淀川流域)へと支配領域を拡張したことが『古事記』(神武記・崇神記・他)に記されていることを論証されました。この文献史学による古田説と、関川さんが紹介された考古学的出土事実は対応しているのではないでしょうか。(つづく)
(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。