土器編年による水城造営時期の考察(1)
九州王朝史研究にとって太宰府関連遺跡の造営時期や位置づけは重要課題です。しかし、文献史学によるそれらの造営年次と考古学による土器編年は整合していません。この問題についてはこれまでも論究してきましたが、残念ながら未だに解決できていないのが現状です(注①)。そのため、土器編年研究を一旦ペンディングし、炭素同位体比年代測定などの科学的年代測定からのアプローチを進めてきました。
たとえば、水城については、東土塁基底部(第35次調査)から出土した敷粗朶工法最上層(全11層)の敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定によるAD600~770年(中央値660年)という測定値や(注②)、西門付近北東側(第40次調査)から出土した敷粗朶と炭化物の年代測定値が共にAD675~769の範囲に含まれることなどから(注③)、これら測定値は『日本書紀』に記された天智三年条(664年)の水城造営記事と整合しており、水城の造営時期は660年頃と考えて問題ないとしてきました(注④)。
このわたしの見解に対して、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは、炭素同位体比年代測定値には測定幅の誤差が大きく、『日本書紀』天智三年条(664年)記事(注⑤)の当否や、水城完成が白村江戦の前か後かという判断の根拠に使用するのは不適切とする批判をいただいていました。確かに、この批判はもっともなものです。そこで、ペンディングしていた太宰府関連遺跡群の土器編年精査を再開することにしました。どのような結論に至るのかは今のところ不鮮明ですが、学問研究ですから、自説と土器編年との齟齬を避けては通れません。時間はかかりそうですが、真正面から挑戦してみます。(つづく)
(注)
①たとえば、拙稿「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)において、次のように述べた。〝わたしは太宰府条坊都市の造営を、九州年号「倭京」(六一八~六二二年)などを史料根拠に七世紀前半に遡ると考えているが、考古学的出土事実に基づく証明には未だ成功していない(太宰府条坊遺構からの七世紀前半に遡る土器の出土報告がない)。〟
②『大宰府史跡発掘調査報告書 Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
③『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
④古賀達也「洛中洛外日記」1627~1630話(2018/03/13~18)〝水城築造は白村江戦の前か後か(1)~(3)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2451~2454話(2021/05/07~09)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(3)〟
⑤「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)