2021年08月14日一覧

第2538話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(3)

 須恵器杯の様式が大きく変化する七世紀ですが、その変化の概要は次のようにとらえられています。古墳時代から長く続いた杯Hの様式に重なるように、七世紀中葉に杯Gが発生します。そして、後葉になって杯Bが出現し、杯Hは激減します。しかも、この変化はほぼ全国的に一斉に進みます。わたしはこうした須恵器杯の様式変化は、九州王朝の全国統治の歴史に連動しているという作業仮説を持っています。このことについて説明します。
 七世紀の須恵器杯様相変化で、わたしがもっとも注目するのが杯Bの発生理由で、その機能性が変化の主要因と考えています。既に指摘されてきたことでもありますが(注)、杯身の底に足が付いた杯Bの最大の機能は、平たい机や台の上に安定して置くことができるということであり、食事の容器と考えられる須恵器杯ですから、机の上に食器を並べて食事するという習慣が生まれたことが、杯B発生の背景にあったと考えられます。しかも、三大窯跡群の一つである牛頸窯跡で大量の土器が六世紀末から七世紀初頭に製造され始めるのですから、杯Bも大量に太宰府条坊都市に供給されたことを疑えません。
 そのことから、机の上に食器を置いて食事する大勢の人々が発生したと考えざるを得ず、結論を言えば、机の上で執務する多くの文書官僚が誕生したことが杯B発生の主要因と思われます。たとえば律令制により全国統治するためには行政文書(命令書、報告書、戸籍類、役務や徴税、徴兵などの記録、他)の作成管理が不可欠です。その際、官僚たちが毎日床に這いつくばって行政文書を書いたとは考えられず、やはり机の上で執務したと思います。そして、食事もその机で、あるいは執務とは別の机で取るようになったと思われます。
 そうした多くの中央官僚たちが執務・食事する所こそ、権力中枢の地、すなわち「都(みやこ)」ではないでしょうか。ですから、杯Bの発生とその大量消費は、多くの律令制中央官僚の誕生、すなわち王朝による建都や遷都に連動した動きとわたしは考えています。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟で、小田裕樹さん(奈良文化財研究所研究委員)へのインタビューコラム「土器が語る食卓の『近代化』」(2016年6月1日・朝日新聞夕刊)の次の記事を紹介した。
 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」


第2537話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)

 牛頸(うしくび)窯跡群から太宰府条坊都市に供給された食器(土器)は須恵器と土師器です。土師器は淡いオレンジ色がかった土器で、主に煮炊き用に使用されたと考えられています。須恵器は青みがかった灰色の土器で、こちらは食事用の容器、今でいえばお茶碗として使用されていたようです。須恵器の方が高温の還元炎で焼成するため、堅くて丈夫です。五世紀初頭頃に朝鮮半島から九州王朝(倭国)に伝わったようで、わが国最古の須恵器窯跡遺跡は福岡県筑前町(小隈・山隈・八並窯跡群等)から発見されています(注)。
 この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。それについては専門的になりますので、ここでは説明を省きます。
 これら須恵器杯の中で、わたしが最も注目しているのが杯Bです。その様式変化の理由と背景、その発生時期が九州王朝史と密接な関係があると考えています。なぜなら、その様式変化には必ず理由(歴史的必要性)があったはずだからです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1488~1494話(2017/08/26~09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(1)~(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。