柿本人麻呂系図の紹介 (7)
―『柿本家系図』の断絶―
『柿本家系図』によれば、柿本人麿を初代として男玉(実子・二代)、直玉(男玉の曾孫・五代)へと続きます。この「曾孫」はひ孫のことですが、子孫という意味もあります(注①)。ひ孫の意味で使用されていれば三代目と四代目が不記載となり、系図に断絶が生じます。子孫の意味であればより大きな断絶の存在を意味します。この断絶の理由として次のようなケースが考えられます。
(1) 同系図は戦後に書写されたもので、書写時に簡略化された。
(2) 伝承が途切れたため、伝わっていない。
(3) 柿本人麿と実子の男玉までの伝承が伝わっており、その始祖伝承の記憶に直玉以後の系譜が継ぎ足された。
(4) 柿本人麿や男玉とは無関係の柿本氏が後世になって系図を造作した。
どのケースの可能性が高いかを検証する必要がありますが、(1)については書写原本の調査で当否を確認できます。(2)(3)のケースは他の柿本系図との比較により、検証が可能かもしれません。この場合、柿本人麿の渡唐記事などの独自情報部分については史料価値を有すかも知れません。(4)については今のところ検証が困難です。
以下は、『柿本家系図』〈系譜〉より、人麿~運平部分を抜き出して注記(※印)を加えたものです。同系図〈由緒〉にも同内容のは記述があり、もしかすると〈系譜(縦系図)〉はこの〈由緒(文章)〉に基づいて作成されたのかもしれません。(つづく)
【『柿本家系図』】
初代 柿本人麿眞人
二代 男玉(実子) 三条小鍛冶師 東大寺大仏鍛冶師頭
※「東大寺大仏大鋳造師 従五位下」『朝野群載』「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」(注②)
三代~四代 不記
五代 直玉(男玉の曾孫) 肥前国、龍造寺家政公(注③)の家臣となる。
※曾孫には子孫の意味もあり、その場合は直玉までの代数は不明。
六代 眞人(直玉の長男) 佐賀佐留志(杵島郡江北町)に住む。
七代 孫兵衛(眞人の長男) 龍造寺家臣の御役御免。寛文二年(1662)四月、肥前諫早の鍋島直義公(1618~1661)の家臣となる。
八代 孫六(孫兵衛の長男) 本家を相続。次男の源六は享保三年(1718)に分家する。
九代 孫兵衛(孫六の長男) 三男二女あり。
十代 運平(孫兵衛の長男) 廃藩置県明治維新まで、代々茂晴公(1680~1736)の特命にて在佐賀お目付け役を拝命。
《後略》
(注)
①『大修館新漢和辞典』(改訂版、1984年)による。
②『朝野群載』三善為康編、永久四年(1116)成立。
③「龍造寺氏系図」によれば八代目に「家政(家昌)」が見える。
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