万葉歌の大王 (2)
―人麿の「大君の遠の朝庭」―
『万葉集』には「遠の朝庭」という表現を持つ歌が、人麿歌を含めて6作品(注①)収録されています。人麿歌に見える「大君の遠の朝庭」の「遠の朝庭」が筑紫なる九州王朝の都(太宰府)であることを古田先生は明らかにされており(注②)、わたしもこの見解に賛成です。
通説では「大王」を近畿天皇家の天皇、「遠の朝庭」を地方の役所と理解し、筑紫も地方の役所の一つとします。従って、一応は両者の関係に矛盾は生じません。近畿なる天皇から見て、遠方の役所とできますから。しかし、古田先生が指摘されたように、もしそうであれば『万葉集』に全国各地の役所が「遠の朝庭」という表現で現れなければなりませんが、そうではありません。従って、通説の解釈は不適切であり、やはり「大王」から見て遠方(筑紫)なる「遠の朝庭」(太宰府)と解するのが妥当です。
しかし、そうすると「大王」は「遠の朝庭」(太宰府)から遠く離れた地(大和)におり、従来の九州王朝説では両者の位置関係が説明困難でした。従って、古田先生は「大王」を大和の持統と解するほかなかったと思われます。古田万葉三部作が発表された当時(1994~2001年)における、古田学派の研究状況ではこう考えるほか仕方がなかったのです。
ところが、前期難波宮九州王朝複都説や九州王朝系近江朝説、そして近年では藤原京に九州王朝の天子がいたとする仮説までが登場し、事態は一変しました。拙論である太宰府(倭京)と難波京の両京制によれば、難波京に居た九州王朝の天子「大王」の「遠の朝庭」(倭京)という理解が無理なく成立するからです。更に、前期難波宮焼失(朱鳥元年、686年)以降は、藤原京に居た九州王朝の天子「大王」の「遠の朝庭」(倭京)とする理解が引き続き可能となります。
このような仮説に立てば、「大王の遠の朝庭」に書かれてもいない解釈〝持統(大王)が仕えた筑紫の天子〟を付加することなく、そのまま普通に読んで歌の意味を理解することができるのです。(つづく)
(注)
①『万葉集』に次の歌が見える。
【巻三 304】
[題詞]柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文]大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
[訓読]大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
【巻五 794】
[題詞]盖聞 四生起滅方夢皆空 三界漂流喩環不息 所以維摩大士在于方丈 有懐染疾之患 釋迦能仁坐於雙林 無免泥洹之苦 故知 二聖至極不能拂力負之尋至 三千世界誰能逃黒闇之捜来 二鼠<競>走而度目之鳥旦飛 四蛇争侵而過隙之駒夕走 嗟乎痛哉 紅顏共三従長逝 素質与四徳永滅 何圖偕老違於要期 獨飛生於半路 蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛 枕頭明鏡空懸 染筠之涙逾落 泉門一掩 無由再見 嗚呼哀哉 / 愛河波浪已先滅 苦海煩悩亦無結 従来厭離此穢土 本願託生彼浄刹 / 日本挽歌一首
[原文]大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國尓 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀<尓>母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀尓 宇知那i枳 許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尓 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 尓保鳥能 布多利那良i為 加多良比斯 許々呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須
[訓読]大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます
[左注]神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上
【巻六 973】
[題詞]天皇賜酒節度使卿等御歌一首[并短歌]
[原文]食國 遠乃御朝庭尓 汝等之 如是退去者 平久 吾者将遊 手抱而 我者将御在 天皇朕 宇頭乃御手以 掻撫曽 祢宜賜 打撫曽 祢宜賜 将還来日 相飲酒曽 此豊御酒者
[訓読]食す国の 遠の朝廷に 汝らが かく罷りなば 平けく 我れは遊ばむ 手抱きて 我れはいまさむ 天皇我れ うづの御手もち かき撫でぞ ねぎたまふ うち撫でぞ ねぎたまふ 帰り来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は
[左注]右御歌者或云太上天皇御製也
【巻十五 3668】
[題詞]到筑前國志麻郡之韓亭舶泊經三日於時夜月之光皎々流照奄對此<華>旅情悽噎各陳心緒聊以裁歌六首
[原文]於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼 氣奈我久之安礼婆 古非尓家流可母
[訓読]大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも
[左注]右一首大使
【巻十五 3688】
[題詞]到壹岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首[并短歌]
[原文]須賣呂伎能 等保能朝庭等 可良國尓 和多流和我世波 伊敝妣等能 伊波比麻多祢可 多太<未>可母 安夜麻知之家牟 安吉佐良婆 可敝里麻左牟等 多良知祢能 波々尓麻乎之弖 等伎毛須疑 都奇母倍奴礼婆 今日可許牟 明日可蒙許武登 伊敝<妣>等波 麻知故布良牟尓 等保能久尓 伊麻太毛都可受 也麻等乎毛 登保久左可里弖 伊波我祢乃 安良伎之麻祢尓 夜杼理須流君
[訓読]天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋去らば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君
[左注]右三首挽歌
【巻二十 4331】
[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)追痛防人悲別之心作歌一首[并短歌]
[原文]天皇乃 等保能朝<廷>等 之良奴日 筑紫國波 安多麻毛流 於佐倍乃城曽等 聞食 四方國尓波 比等佐波尓 美知弖波安礼杼 登利我奈久 安豆麻乎能故波 伊田牟可比 加敝里見世受弖 伊佐美多流 多家吉軍卒等 祢疑多麻比 麻氣乃麻尓々々 多良知祢乃 波々我目可礼弖 若草能 都麻乎母麻可受 安良多麻能 月日餘美都々 安之我知流 難波能美津尓 大船尓 末加伊之自奴伎 安佐奈藝尓 可故等登能倍 由布思保尓 可知比伎乎里 安騰母比弖 許藝由久伎美波 奈美乃間乎 伊由伎佐具久美 麻佐吉久母 波夜久伊多里弖 大王乃 美許等能麻尓末 麻須良男乃 許己呂乎母知弖 安里米具<理> 事之乎波良<婆> 都々麻波受 可敝理伎麻勢登 伊波比倍乎 等許敝尓須恵弖 之路多倍能 蘇田遠利加敝之 奴婆多麻乃 久路加美之伎弖 奈我伎氣遠 麻知可母戀牟 波之伎都麻良波
[訓読]大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国は 敵守る おさへの城ぞと 聞こし食す 四方の国には 人さはに 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 出で向ひ かへり見せずて 勇みたる 猛き軍士と ねぎたまひ 任けのまにまに たらちねの 母が目離れて 若草の 妻をも巻かず あらたまの 月日数みつつ 葦が散る 難波の御津に 大船に ま櫂しじ貫き 朝なぎに 水手ととのへ 夕潮に 楫引き折り 率ひて 漕ぎ行く君は 波の間を い行きさぐくみ ま幸くも 早く至りて 大君の 命のまにま 大夫の 心を持ちて あり廻り 事し終らば つつまはず 帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて 白栲の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは
[左注]右二月八日兵部少輔大伴宿祢家持
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。