2022年07月一覧

第2787話 2022/07/14

新井白石と

   佐久間洞巌(『奥羽観蹟聞老志』の編者)

 佐久間洞巌は『奥羽観蹟聞老志』で、栗原郡の八所權現に「善喜二年三月日」の銘文を持つ古い鰐口があると記していますが、その「善喜」については「按ニ善喜ノ年號不見」と説明し、従来の史書などに見えない年号としています。そして、年号の二文字目に「喜」の字があるのは「七十代後冷泉帝天喜」しかないと解説しています。
 他方、佐藤信要は『封内名蹟志』において、「喜」の字を持つ年号として「延喜」と「寛喜」を加え、『奥羽観蹟聞老志』の不備を補っています。しかし、この鰐口の存在自体は認めており、「善喜」という年号が従来史料に見えないものであることには修正が施されておらず、洞巌の見解に従っています。そこで問題となるのが、洞巌は九州年号、なかでも「善記」年号(522~525年)を知っていたのかという点です。もし知っていれば、そのことに触れたと思うのです。二文字目の「喜」については「七十代後冷泉帝天喜」の存在を指摘したほどですから、年号としては九州年号「善記」以外には見当たらない(注①)「善」の字についても何かしらの見解が付記されてもよいと思うからです。このことは佐藤信要の『封内名蹟志』でも同様です。
 江戸時代の伊達藩の学者、佐久間洞巌が九州年号や正史に見えない逸年号の存在を全く知らないはずはないと思うのですが、現時点ではその調査がまだ完了していません。しかし、佐久間洞巌の名前にわたしは見覚えがありました。『「九州年号」の研究』(注②)に収録した拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で洞巌の名前に触れていたからです。

〝江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」『新井白石全集』第五巻518頁〟

 白石は九州年号真作説に立っていますが、もちろん九州王朝の年号という理解ではなく、正史から漏れた逸年号と捉えています。そのことは、水戸藩の友人の安積澹泊に出した次の手紙からわかります。

〝朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。〟『新井白石全集』第五巻284頁

 新井白石(1657~1725年)と佐久間洞巌(1653~1736年)は同時代の学者で学問的交流もありました。ですから、洞巌がいわゆる九州年号の存在を知らなかったとは考えにくいのです。この時代、著名な学者たち(注③)が九州年号の真偽について論じていたことは先の拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」でも紹介したところです。洞巌の九州年号に関する知見や認識については、『奥羽観蹟聞老志』などの著書を改めて精査した上で論じたいと思います。(つづく)

(注)
①『東方年表』平楽寺書店、1988年版による。
②『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③筑前黒田藩の学者、貝原益軒(1630~1714年)は『倭漢名数』『続倭漢名数』で九州年号偽作説を唱えている。


第2786話 2022/07/13

宮城県の九州年号

     金石文(「善喜二年」鰐口銘)の史料

 『市民の古代』11集(注①)に収録された『仙台金石志』の次の九州年号金石文記事の「善喜二年」銘鰐口が所在不明であることが菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)の調査によりわかりました。

 「舊鰐口二噐其一銘曰。善喜二年三月日(鰐口銘文)」
 『仙台金石志』巻之十二 封内名蹟志巻十五
  宮城県栗原郡二迫屋敷村八所権現

 そこで出典とされた『仙台金石志』を調査しました。岡崎公園の京都府立図書館で国会図書館デジタルアーカイブを閲覧したのですが、『仙台叢書』に収録された『仙台金石志』(注②)に当該記事を見つけることができませんでした。わたしの見落としかもしれず、三度ほど読みましたがそれらしい記事は見えません。版本により、内容が異なっているのかもしれません。そこで、『封内名蹟志』(注③)を調べたところ、次の記事がありました。

 「八所權現。稲屋敷村に有。
 郷人高松權現と云ふ。往古寺有。春日山高松寺と號す。古鰐口二器あり。其一の銘に曰く。善喜二年三月日とあり。其二の銘に。鰐口一器。陸奥長岡郡荒谷郷。安養寺に寄附す。時に寛正三年壬午二月二十四日。願主常徳とあり。
 按るに。善喜といへる年號見へず。喜の字を下に用ひしは。醍醐帝の延喜。後冷泉帝の天喜。後堀河帝の寛喜等にして。此の外にはなし。寛正は。百三代御(ママ)花園帝の三十四年也。此銘を以て見れば。栗原は、則古の長岡郡なることを知るにたれり。」『封内名蹟志』粟原郡(『仙台叢書』第八巻 336頁)

 この『封内名蹟志』は仙台藩の佐藤信要(ノブアキ)が1741年に編纂したもので、『奥羽観蹟聞老志』の誤謬を訂正し、記事を簡潔にしたものとされています。そこで『奥羽観蹟聞老志』(注④)も閲覧したところ、栗原郡「八所權現」に『封内名蹟志』とほぼ同内容の漢文体の次の記事がありました。

 「八所ノ權現
 在稲敷村平形ノ地 有寺號春日山高松寺 有古鰐口二器 其一ノ銘ニ曰 善喜二年三月日 其二ノ銘ニ曰 寄附ス鰐口一器ヲ 於陸奥長岡郡荒谷郷安養寺 時寛正三年壬午二月二十四日願主常徳
 按ニ善喜ノ年號不見 用喜ノ字ヲ于下者ハ七十代後冷泉帝天喜外無有之 寛正ハ百三代後花園帝三十四年也 依此銘而會テ知ル 此地乃古之長岡郡也 然ハ則此時未タ収村落 猶立郡名也 高松寺後称安養寺乎 又其寺在荒谷 而適以此器而蔵此寺者乎」『奥羽観蹟聞老志』巻之八(『仙台叢書』第十四巻 339頁)

 ここでは、喜の字を用いた年号を「後冷泉帝天喜外無有之」としていますが、先の『封内名蹟志』では延喜と寛喜をつけ加えています。しかし、両書とも「善喜」という年号は見えないとしています。他方、善の字については何も触れておらず、その理由がわかりません。いずれにしても、両書が成立した十八世紀時点では、「善喜二年三月日」の銘文を持つ古い鰐口が八所権現に存在していたと記しています。(つづく)

(注)
①『市民の古代』11集、新泉社、1989年。
②吉田友好『仙台金石志』享保四年(1719年)、『仙台叢書』に収録。
③佐藤信要『封内名蹟志』、1741年。同書は『奥羽観蹟聞老志』の誤謬を訂正し、記事を簡潔にしたもの。『仙台叢書』第八巻には漢文から国字に改めたものが収められている。
④『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の儒学者、佐久間洞巌(1653-1736)が四代藩主伊達綱村の命により編纂し、1719年に完成した。全20巻からなる仙台藩内および東北の地誌。『仙台叢書』第十四巻に収録。


第2785話 2022/07/12

宮城県の九州年号

   金石文(「善喜二年」鰐口銘)の調査

 来月の古田史学リモート勉強会で発表する「九州年号金石文の紹介」資料を作成していますが、三十年前から気になっていた宮城県の九州年号金石文「善喜二年」鰐口銘について、調査と考察を集中的に進めています。化学会社を定年退職して二年間、時間を割いて取り組んできたテーマの一つでした。
 33年前に発行した『市民の古代』11集(注①)の編集にわたしは参画し、九州年号を特集しました。九州年号資料が同書の末尾に掲載されており、そのなかに『仙台金石志』(注②)の次の記事がありました。それは九州年号「善喜(記)」を銘文に持つ「八所権現」の金石文(鰐口)の存在を記録したものです。

 「舊鰐口二噐其一銘曰。善喜二年三月日(鰐口銘文)」
 出典『仙台金石志』巻之十二「封内名蹟志巻十五」
 所在地 宮城県栗原郡二迫屋敷村八所権現

 しかし、宮城県の土地勘がないわたしには、「栗原郡二迫屋敷村八所権現」の場所もわかりませんでした。また、「善記」が「善喜」と誤記・誤伝されていることもあって、当時のわたしには同記事の信憑性についても判断できませんでした。そのため、三十年近く気になりながらも研究の進展を見ませんでした。この度、「古田史学の会・仙台」の菊地栄吾さんに御協力を仰いだところ、ただちに調査していただき、次のメールが届きました。

古賀達也様
 先日の勉強会では、解りやすい話で為になりました。
 本件の回答ですが、次の様です。
 八所権現は、現在の「雄鋭(おどの)神社」で、宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松51(電話0228-45-5104)にあります。元々、本社、末社合わせて8社があり八所権現または高松権現と呼ばれたようです。
 鰐口については、現在の神主に問い合わせたところ、「赴任当初から無かった」と言っておりました。何処かの場所にあるとも聞いていないそうです。以上です。取り急ぎご連絡します。
 菊地栄吾

 地元の研究者だけに調査は早く的確です。おかげさまで、「八所権現」の場所は判明しましたが、鰐口は同社に伝わっていないとのこと。残念ですが、こうなると当面は『仙台金石志』の記事だけで研究を進めざるを得ません。(つづく)

(注)
①『市民の古代』11集、新泉社、1989年。
②吉田友好編『仙台金石志』享保四年(1719年)、『仙台叢書』13・14巻に収録。


第2784話 2022/07/10

「九州年号金石文の紹介」の準備

 古田史学の勉強のため、リモートで遠方の研究者や若い研究者との意見交換を続けていますが、来月はわたしから九州年号金石文の紹介をさせていただく予定です。その為の資料作りを進めています。今まで発表していなかった金石文や行方不明になっている史料も網羅した、総合的な資料にしたいと考えています。また、金石文ではありませんが、「九州年号」部分が空白となっている干支木簡についても、複数紹介する予定です。
 あわせて、後代造作「九州年号」金石文も資料に加えようと、過去の論稿や写真を書棚から探していますが、なかなか見つからずに難儀しています。その一例として、八年前に「洛中洛外日記」(注①)で紹介した「大化元年」石文の資料がようやく見つかりました。それは、豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」(注②)に掲載された「大化元年の石文」の報告です。

〝大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に「大化元乙巳天、□神王命」と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが――見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。〟

 掲載された拓本によると、陰刻文字は「大化元巳天 文神王命」とわたしには見えます。元年干支が「巳」とあり、これは『日本書紀』の「大化元年乙巳」(645年)と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成された後代造作「九州年号」金石文と思われます。ちなみに、本来の九州年号「大化元年」(695年)の干支は乙未です。
 下山昌孝さん(多元的古代研究会・元事務局長、故人)に同石文の所在調査をお願いしていたのですが、その調査結果を記したお手紙(2000年8月)も見つかりました。それによると、多野郡平井村は現・藤岡市に属し、所蔵されている富田家に問い合わされたところ、同家はこの石文のことをご存じなかったとのこと。富山家は倉を持つ旧家で、藤岡市教育委員会が同家所有古文書の目録を作成中とお手紙にはありましたから、現在では完成しているのではないでしょうか。
 今日まで35年間、古田史学を支持する全国の方々のご協力を得て、情報収集や調査研究を進めてきましたので、わたしの記憶と体力が確かなうちに、書棚のどこかに眠っている資料の探索と整理(デジタルデータ化)を行い、「洛中洛外日記」やFaceBook、リモート勉強会などで紹介していきたいと思います。古田先生亡き後、この仕事はわたしの大切なライフワークの一つです。

(注)
①「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟
②豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号、大正11年。


第2783話 2022/07/08

道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の兄弟統治

 「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まり、その二年後に宇佐八幡宮神託事件(注①)が発生していることに気づき、『続日本紀』を精査中です。宇佐八幡宮神託事件を中心に繰り返し読んでいますが、道鏡は朝廷内の権力抗争の敗者に過ぎず、皇位簒奪未遂の「悪人」と決めつけるには証拠不十分で、むしろ冤罪ではないのかと思うほど、『続日本紀』の記事は不審だらけです。この点については結論を急がず、検討を続けますが、今回、わたしが注目したのは道鏡の弟、弓削浄人(ゆげのきよひと、清人とも記される。注②)の存在です。
 弓削浄人は、天平宝字八年(764年)七月に宿禰姓を賜与され、同年九月の藤原仲麻呂の乱を経て、兄の道鏡が朝政の実権を掌握すると、従八位上から一挙に十五階の昇叙により従四位下に昇進。氏姓を弓削御浄朝臣に改め、衛門督に任ぜられます。
 天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲三等を与えられ、同年中に従四位上・参議として公卿に列すると、翌天平神護二年(766年)には正三位・中納言、その後も神護景雲元年(767年)に内豎卿を兼ね、同二年(768年)大納言、同三年(769年)従二位と道鏡政権下で急速に昇進を果たし、大宰帥に任じられ、大宰主神・中臣習宜阿曾麻呂と共に、道鏡を皇位に就けることが神意に適う旨の宇佐八幡宮の神託を奏上し、「宇佐八幡宮神託事件」を引き起こします。
 宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により道鏡と共に失脚し、弓削姓(無姓)に戻され、三人の子(広方、広田、広津)と共に土佐国へ流罪となりますが、桓武朝初頭の天応元年(781年)に赦免され、本国の河内国に戻りますが、平城京に入ることは許されませんでした。
 この道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の関係は、仏教僧侶として法王と称された道鏡は権威の象徴で、大納言として従二位まで上り詰めた弓削浄人は権力の象徴とすれば、『隋書』俀国伝に見える阿毎多利思北孤とその弟による九州王朝独特の制度、兄弟統治(注③)を思い起こします。そして、もし道鏡が皇位につけば、おそらく法王から法皇になり、法隆寺釈迦三尊像光背銘の上宮法皇(多利思北孤)と同じ称号になります。これこそ、わたしの作業仮説(思いつき)、「物部系で筑後出身の習宜氏(阿曾麻呂)と弓削氏(道鏡)らが結託して、大和朝廷の天皇位簒奪(九州王朝王族の復権)を目論んだ事件」ということになりそうです。(つづく)

(注)
①ウィキペディアでは次のように解説している。
 宇佐八幡宮神託事件。奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
②弓削浄人(ゆげのきよひと)、清人とも記される。道鏡の弟。氏姓は弓削連のち弓削宿禰、弓削御浄朝臣。
③『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
 「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝
 古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘された。


第2782話 2022/07/04

神護景雲元年に始まった高良社大祭礼

 上妻郡上広川庄古賀村の大庄屋で高良玉垂命の神裔、稲員安則が著した『家勤記得集』(注①)を読んでいて、とても興味深い記事に気づきました。高良玉垂宮大祭礼が神護景雲元年に始まったとする次の記事です。

「大祝旧記に曰く、玉垂宮神事祭礼年中六十余度これを執行す。然りといえども春冬二季の祭祀五月九月両会の神事をこれをもって一社の大営なり。
 称徳天皇〔第四十八代なり、孝謙帝重祚〕神護景雲元年(767年)丁未冬十月十三日勅使参向あり。明神朝妻に御幸し、大祝物部保維神輿に神体を奉遷す。(中略)これより毎歳大祭礼を行わる。光厳天皇〔第九十六代なり〕正慶二年(1333年)壬申(ママ)鎌倉北條家滅亡す。これにより諸国乱逆おこる。故に大礼断絶す。然りといえども毎歳九月九日祭礼を執行すること今に絶えず。」『家勤記得集』3頁 ※〔 〕内は二行細注。
「同(寛文)九年(1669年)己酉秋九月九日、高良社大祭礼を執行す。称徳天皇御宇始めてこれを行う。光厳天皇御宇断絶し、その後行われず。今年大祝保正と座主月光院寂源とこれを談じ、太守(久留米藩主)に訴え古例に任せこれを再興す。」同52頁

  今日の高良大社の大きなお祭りは秋の例大祭「高良山くんち」(注②)ですが、古来より最も尊重されてきたのは「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)でした。この大祭礼が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まったというのです。わたしはこの年次を知り、驚きました。この年の二年後に宇佐八幡宮神託事件が発生しているからです。そこで、『続日本紀』に記された同事件(注③)を精査することにしました。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②旧暦の九月九日に近い十月九日に行われている祭礼。「くんち」の語源としては、「九日」や「宮日」など諸説ある。
③ウィキペディアに次の解説がある。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。


第2781話 2022/07/03

『多元』No.170の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.170が届きました。同号には拙稿「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」を掲載していただきました。同稿は、古田先生が「紀尺」と名づけた編年方法を解説したものです。それは、中近世文書に見える古代の「○○天皇××年」という記事について、その実年代を当該天皇が実在した年代で理解するのではなく、「○○天皇××年」を皇暦のまま西暦に換算するという編年方法(『東方年表』と同様)です。
当号には『隋書』俀国伝に見える里程記事が短里か長里かをテーマとする論稿三編(注①)が掲載されており、同問題が活発に論議されているようです。こうした真摯な論争・検証は学問の発展には欠かせません。このテーマはすぐには決着がつきそうにありませんが、それは次のような克服すべき二つの問題があるためと考えています。一つは、短里なのか長里なのかを峻別するための史料批判や論証が簡単ではないこと。もう一つは、当時(隋代・唐代)の1里が何メートルなのかという実証的な問題です。
現在の論争は主に前者の史料解釈の当否を巡って行われていますが、わたしは後者の問題をまず検証すべきと考えています。特に『旧唐書』に見える中国々内の里程記事は、1里を何メートルに仮定しても、全ての、あるいは大半の里程記事を矛盾無く表すことが出来ず、実際の距離と乖離するケースが少なくないからです。わたし自身もこの問題に苦慮しています(注②)。従って、本テーマは結論を急がず、各論者の仮説の発展に注目したいと思います。
同誌末尾の安藤哲朗会長による「FROM 編集室」に次の一文があり、体調を崩されているのではないかと心配しています。
「◆人身受け難し(台宗課誦)◆私もあと短期ののち古田先生の忌に従うであろう◆」
洛中より、御快復を祈念しています。

(注)
①「隋書・日本書紀から見えてきた倭国の東進」(八尾市・服部静尚)、「海賦について」(清水淹)、「会報、友好誌を読む」(横浜市・清水淹)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2642~2660話(2021/12/21~2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(10)〟


第2780話 2022/07/02

筑後の弓削氏と現代の弓削さんの分布

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家が草部・日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったことから、筑後地方の弓削氏について史料調査しました。高良玉垂命研究の碩学、古賀壽(たもつ)さんから二十数年前にいただいた論文や史料を改めて精査したところ、次の弓削氏がありましたので紹介します。
 高良山に仏教を開基した人物は隆慶上人とされており、「白鳳二年癸酉」(673年)のことと伝えられています(注①)。この隆慶上人の伝記『高良山隆慶上人傳』には、上人の母親が弓削氏の出身であると記されています。

 「上人諱ハ隆慶。世姓ハ紀氏。人皇八代孝元天皇十一世ノ之苗裔。武内大臣八代ノ之的孫ナリ也。父ハ紀ノ護良。母ハ弓削氏ナリ。自當社垂迹已降。紀氏累代 監察シ九國ヲ 守禦ス三韓ヲ。故ニ九州尤モ重ンス 其ノ氏族。」『高良山隆慶上人傳』(注②)

 同じく高良山史料『筑後国高良山寺院興起之記』には隆慶上人の母親について次のように記されています。

「正覚寺
 白鳳七年、隆慶上人ノ寿母、弓削戸部岩人麻麻呂ガ娘、老後髪ヲ薙リ、衣ヲ染メ、北澗ニ隠ル。弥陀三尊ヲ安ンジ、二六時中唱名念仏ス。朱鳥十年六十八歳ニシテ逝ス。」『筑後国高良山寺院興起之記』(注③)

 以上の史料状況から、古代の筑後に弓削氏がいたことがわかります。また、『日本書紀』持統四年(690年)十月条に、筑紫君薩夜麻と共に唐の捕虜になった人物に「弓削連元寶の児」が見えます。筑後出身とまでは断定できませんが、筑紫君に付き従っていることから、筑紫の弓削氏と考えるべきでしょう。
 ちなみに、現代の名字としての弓削さんの分布は次の通りで、宮崎県南部や福岡県筑後地方・鹿児島県・千葉県香取市に多いことが注目されます。道鏡の出身地とされる河内国弓削村がある大阪府には濃密分布地が見えないようです。(つづく)

【弓削さんの分布】※web「日本姓氏語源辞典」で検索。
 人口 約7,000人 順位 2,093位

〔都道府県順位〕
1 宮崎県 (約900人)
2 福岡県 (約700人)
3 鹿児島県(約500人)
4 千葉県 (約500人)
5 東京都 (約400人)
6 京都府 (約400人)
7 大阪府 (約400人)
8 兵庫県 (約400人)
9 神奈川県(約300人)
10 滋賀県 (約300人)

〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約400人)
2 滋賀県 長浜市 (約200人)
3 鹿児島県 鹿児島市 (約130人)
4 福岡県 久留米市 (約130人)
4 宮崎県 小林市 (約130人)
6 福岡県 八女郡広川町(約130人)
7 宮崎県 西都市 (約120人)
8 兵庫県 加古川市 (約110人)
9 千葉県 香取市 (約100人)
10 熊本県 熊本市 (約100人)

(注)
①『高良記』(『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年・1972年)には次の白鳳年号が見えることから、本来の九州年号「白鳳」(661~683年)で正しく記された「白鳳十三年癸酉」が、『日本書紀』の影響により、「天武天皇二年癸酉」→「天武白鳳二年癸酉」→「白鳳二年癸酉」へと、後代に改変されたものと思われる。これを「後代改変型白鳳」とわたしは称し、本来の九州年号と峻別する必要を主張している。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁
 後代改変型白鳳については、次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟
 同「洛中洛外日記」1930話(2019/06/30)〝白鳳13年、筑紫の寺院伝承〟
②「高良山隆慶上人傳」『續天台宗全書 史傳2』天台宗典編纂所、昭和六三年(1988年)。
③古賀壽「〔訓読〕筑後国高良山寺院興起之記」『高良山の文化と歴史』第5号、高良山の文化と歴史を語る会、平成五年(1993年)。


第2779話 2022/07/01

御井郡弓削郷にいた稲員氏(草部氏)

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家(旧・草壁氏。草部・日下部とも記される)の研究をしていたとき、同家の墓地を訪問したことがありました。墓石正面の上部に削られた痕跡があり、恐らくは家紋の菊花が削られたのではないかと思われました。稲員家は正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居する前は御井郡稲員村に居住しており、高良山から稲員村に移る前は草壁氏を名のっていました。
 久留米市の地図を見て驚いたのですが、その御井郡稲員村は現在の久留米市北野町にあり、道鏡を祀っていた法皇宮と同じ町内だったのです。しかも稲員氏が草部や日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったとする史料が残っており、『家勤記得集』の「発刊によせて」(注①)で古賀壽氏がそのことを紹介しています。

〝筑後の草部氏も、『高良縁起』(石清水文書)、『高良玉垂宮縁起』(御舟本)に「長日下部公」「弓削郷戸主草部公富松」「大領草部公吉継」「少領草部公名在」などとあるところから、公(君)姓を称する古代豪族で、高良山下御井郡弓削郷を本貫の地とし、御井郡司に任じた氏族であったことが推定される。〟『家勤記得集』「発刊によせて」古賀壽

 すなわち、法皇宮がある御井郡弓削郷の戸主も後の稲員氏だったというのです。また、御井郡の郡衙は弓削郷にあったと考えられており(注②)、稲員村や弓削村(郷)の地に草部氏は郡司や戸主として重きをなしていたのです。そうすると法皇宮にあった菊花紋瓦は草部氏・稲員家の家紋だったのではないでしょうか。そして、その地で道鏡を祀っていたことになり、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族による〝共同謀議〟とする、わたしの作業仮説(思いつき)の傍証に菊花紋はなりそうです。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②津田勉「『高良縁起』の成立年代」(『神道宗教』第170号、1998年)に次の指摘がある。
 「ところで、御井郡の郡衙跡ともいわれるヘボノキ遺跡は、まさに弓削郷に存在する。弓削郷は筑後国府(枝光国府・朝妻国府)に隣接する筑後川沿いの郷であり、現在も弓削の地名は使われている。国衙と郡衙とが近接している実態は、御井郡の郡・郷を支配していた郡司と国司が強く結びついていたことを如実に示している。」60頁
 なお、弓削地名は筑後川の両岸に遺っており、法皇宮は北岸の北野町、ヘボノキ遺跡は南岸の東合川町にある。筑後国の中で御井郡のみが筑後川の両岸にまたがっている。